「……はあ?」

 佐伯夫人から零れたのは不服を露にした一言だった。

 あろうことか、無機物である自販機につかつか歩み寄り、睨み付ける始末。端から見ていると、佐伯夫人の態度は佐伯と吉祥寺を足して二で割ったように見える。

「お釣、いただきますね? 丁寧語で言えばなんでもも許されると思って? たかが自販機の癖に生意気な」

 わたくしを誰だと思っていますの、と自販機相手に胸を張る姿はもはや痛々しい。中学二年生として見てはいけないものを見ている気がする。

 一方、言われっぱなしの自販機は何も言い返さない。まあ、佐伯夫人はお釣を取り戻そうと出口に手をやったり、自販機を貶して足蹴にしたりしていないからかもしれない。アクジキジハンキにもアクジキジハンキとしてのルールみたいなものがあってお釣を普通に差し出した人には何もしないのかもしれない。

 まだ差し出す差し出さないは決めていないようだが。

「まあ、千円程度端金に過ぎないわ。こんなあこぎな商売をするやつがあるんなら、旦那様に言い付けて、撤去させなくちゃね」

 端金、撤去、という言葉に呼応して、蓮は悪寒を背筋に感じていた。なんとなく、自販機の方からよくない気が漂ってくるような気がする……

 と思っていたら、佐伯夫人の手をしゅるりと絡め取るものがあった。黒い靄のような何かが、確かに形を持って、佐伯夫人の手首を捕らえる。

 佐伯夫人の肩が跳ねた。

「な、なんですのっ?」

 佐伯夫人、先程までの高圧的な雰囲気はどこへやら、怯えに怯え、黒い靄を振り払おうとしている。本能が察しているのだろう。これは触れてはいけないものだ、と。

「お釣、ありがとうございました」

 朗らかなはずなのに、どこか暗く淀んで聞こえる女声に蓮は顔をひきつらせた。複雑な印象のそれには隠しきれていない怒気が孕まれている。

 辺りはモノクロに変わり、アクジキジハンキの悪夢の世界に切り替わっていた。自販機だったところには一つの黒いどろどろとした塊。言わずもがな、アクジキジハンキの実体である。これが出てきたということは、アクジキジハンキは何かを喰おうとしているということだ。しかし、佐伯夫人はお釣を取り戻そうとはしなかった。では何故?

 ……答えはなんとなくわかっているが、蓮は冷めた目で様子を眺めた。助けるべきなのだろうが、今回の場合、佐伯夫人の失言に端を発するため、自業自得にしか思えない。自業自得をわざわざ救ってやる義理もないように思う。

 蓮は一つ、はっきりした事実を眺めていた。──アクジキジハンキには明瞭な意志がある、と。

 機械音の女声が続ける。

「端金、ですか。千円が、端金……では千円は塵に過ぎないというのですね?」

 その問う声は綺麗でありながら、冷淡だ。「そうよ」と断定する夫人の声も震えている。

 蓮もびしばしと感じていた。人間が放つそれとは比べ物にならない激しい憤怒が込められていたのだ。

 アクジキジハンキが人間でないのはわかっていたが、まさかこれほどとは。ただ、夫人の「端金」という言葉に反応している辺りはなんとも人間臭いというか……

 あらゆる感想が渦巻く中、黒い靄がどんどんどろどろの中から伸びてきて、夫人を絡め取っていく。夫人は靄が気持ち悪いのか、得体の知れないものが気持ち悪いのか、声にならない悲鳴を上げている。もちろん、アクジキジハンキはお構い無しだ。

 涼やかな声で名乗りを上げる。

「私の名前はアクジキジハンキ。名前の通り、悪いものを食べる自販機です。というわけで、あなたの悪いものも、食べて差し上げますね」

「ひっ、放して!」

 夫人がもがくが、意味はない。無数の靄が尚絡みついて、余計ややこしいことになって、脱け出せなくなっていく。夫人の顔が絶望に染まるのを蓮は見ていた。見ているしかない。助けようにも、手遅れだろう。

 黒いどろどろとした塊は大きな口を開けて、夫人を飲み込もうとしていたのだから。口内の赤だけがモノクロの世界に映える。

 ぱくんっ

 例えばゲームなんかでキャラクターがモンスターにあっさり喰われるシーンがあったとする。どんなに生々しくても、所詮それはゲームの話だ。喰われたキャラクターに一瞬同情する。それで終わりだ。

 だが、蓮は目の前でそれが起こって、脳が処理できずにいた。仕方あるまい。ゲームは画面の向こうだが、現実にはいつだって、壁がない。

 夫人が飲み込まれるシーンは夫人の断末魔と相まって、凄まじいものだった。蓮は唖然とするしかない。

「……またあなたですか」

「はいっ?」

 女声が話しかけてきて、蓮は大仰に肩を跳ねさせた。この女声は綺麗系の美人を想起させるものだが、現実はゲテモノとしか言い様のない、黒いどろどろした塊である。しかも人を丸飲みするような化け物だ。

「あなたは何もしない。私にも干渉しない。ただ、見ているだけ。私と関わらない、というのは賢明な判断だと思うのですが、その割にあなたはいつもそこにいます。何がしたいんですか?」

 何がしたいのか。それは蓮の中では躊躇われるような答えだった。返事が喉につっかえる。

 自由研究。ただの夏休みの宿題だ。それだけのために、嫌われ者とはいえ、何人もこの自販機の怪異に巻き込んでいるのである。

 ……もしかしたら、裁かれるべきは自分なのかもしれない、と蓮は思った。

 重い口を開く。

「あなたのことを調べているんだ。知りたいから」

 沈黙が流れる。モノクロの世界は夏を外に置き去りにしたかのように肌寒い。風一つ吹かないこの空間だが、やはり寒気を感じる。

 アクジキジハンキは答えない。蓮の思惑などどうでもいいのかもしれないし、利用されていることに苛立ち、呆れているのかもしれない。

 蓮はだんだんといたたまれなくなってくる。小さく、小さく、蚊の鳴くような声でアクジキジハンキに要求した。

「……佐伯さんを出してあげて」

「言われずとも」

 ようやく喋ったアクジキジハンキはその中央にある大きな口から、佐伯夫人を吐き出した。やはり、人間の口とは違い、唾液を含んでいるわけではないようだ。佐伯夫人は綺麗さっぱり……というか、すっぴんの状態で出てきた。蓮が一瞬誰だか判断できなかったのは仕方のないことだろう。……化粧をしていなくても、見られる顔であるのだが。

 どうやら、アクジキジハンキは佐伯夫人の濃すぎる化粧を食べてしまったらしい。おかげであの不愉快な化粧臭さがない。ついでに言うと、香水の臭いもない。

「悪食と言えど、人間の化粧というのは美味しいものではありません。どうして人間はこうして無駄に着飾ることを好むのか。……まあ、それ以外もいただいたので、一向にかまいませんが」

 化粧以外のものも食べたらしい。何を食べたかは明言しないが、アクジキジハンキ的には化粧とそれでとんとんな感じになったのだろう。

「まあ、悪食も悪くないものです。あなたが連れてくる人は本当に悪いものばかり溜めているから、悪食としては喰らいたい放題で文句はありません」

 言うだけ言うと、黒いどろどろの塊は、何事もなかったかのように自販機の姿に戻り、辺りも色を取り戻す。どうやらアクジキジハンキの悪夢が終わったようだ。

 自販機の前に倒れ伏す夫人。真夏のアスファルトはさぞや熱いことだろうと思い、蓮は抱き起こして近くの塀に凭れさせた。茂木のときと同様、気を失っているようだ。まあ、あんな化け物に丸飲みされたと思ったら、死んだ、と思うかもしれない。息はしているので、一安心だ。

 夫人に何かあったなら、佐伯のことがあったばかりだ。芋づる式で佐伯氏が出てくる可能性がある。さすがに御免被りたい。夫人だけで充分だ。

 あとは夫人がアクジキジハンキに一体何を食べられたかだが……アクジキジハンキは何も言っていなかった。前もそうだったし、教える気がないのだろう。人間だって、昨日の夕飯が何だったか、訊かれなければ教えない。それと同じ要領だろう。

 妙なところで人間臭い怪異だ。

 不思議そうにアクジキジハンキを眺めていると、茂木のときとは違い、佐伯夫人はすぐに目を覚ました。もしかしたら、ちゃんとお釣をやったからかもしれない。

「大丈夫ですか?」

「あ、あら、わたくしってば、こんなところで……介抱してくだすったんですの? ありがとうございます」

 夫人の口振りに、蓮が目を見開く。直前のことを覚えていないのもそうだが、蓮に敵意すら抱いていた人物の口から、まさか「ありがとう」という言葉が出るとは。驚きを禁じ得ないというか、もはや不気味だ。……アクジキジハンキの影響だろうか。

 とりあえず、夫人に調子を合わせることにした。熱中症ですかね、なんて言って、そういえばアクジキジハンキにスポーツドリンクがあることを思い出し、顔をそちらに向けた。

 すると、そこには自販機なんて最初からなかったかのように、ぽっかりとした空間があるだけだった。


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