まずは身近な裕から、と思ったのだが、裕は夏休みで蓮と同じく帰宅部であるため、宿題をやる夜以外の時間は大体修行に回しているという。寺の修行は蓮も時々一緒にやらせてもらうのだが、この時期になると、突っぱねられる。裕曰く、「お前、身が入ってないだろ」とのこと。否定できなくて蓮は笑った。

 蓮は夏休みになると情緒不安定になりがちだ。目の前で度会を亡くしたあのときがフラッシュバックするから。それが理由で、小学生のときは通っていた塾をやめた。風鳴駅から行かなければならない塾には通えない。度会が轢かれたのは風鳴駅でのことだからだ。

 情緒不安定な状態で修行をしたら、その不安定な精神が修行に支障をきたし、基本的に危険な修行で大怪我をしかねないからだ、と裕は語った。裕は幼なじみだし、霊感持ちで有名な五月七日の信頼を得るほどここ数年、修験者として、力をつけてきている。そんな裕の言うことを信じないわけがなかった。蓮とて、平常心を保っているつもりなのだが、度々、もう行く必要のない風鳴駅のホームで泣き崩れるくらい重症なのだ。どうしようもない。

 と、話を戻そう。つまるところ、裕には修行が終わってからしか会えない、ということだ。今日の修行の予定を裕の母に聞いたところ、午前中で終わるらしいから、昼食を摂ってから行けばいい。それまでどうしようか、と暇を持て余していた蓮の元に来客が来る。

 それは予想だにしていなかった──できれば来てほしくなかった来客であった。


 その来客が来たのは、朝も早い時間である。ピンポーンと呑気に鳴った呼び鈴に母が出たところ、母が顔を蒼白にして、蓮を呼びに戻ってきたのである。蓮はどうしたのだろう? と首を傾げ、玄関に向かった。

 玄関に行き──そこで蓮は後悔する。居留守とか仮病とか使うんだった、と。

 玄関に立っていたのは、授業参観なんかであったことのある化粧の濃いご婦人だ。化粧臭くて敵わないが、口が裂けてもそんなことは言えない。何を隠そう、このご婦人は佐伯瑠璃花の母にして、大企業のCEOの夫人なのだ。目元の辺りのお嬢様らしくありながらどこかきつい印象がある辺り、娘とそっくりである。

 と、呑気に解説をしている場合でもない。蓮は顔をひきつらせながらも必死に笑みを作った。蒼白な母の顔を思い出す。四十数人しかいない同級生の保護者の顔など、十年近く一緒に過ごしていれば覚える。その気質もまた然りだ。

 何を言いたいかというと、この佐伯夫人は所謂「モンスターペアレント」なのである。佐伯家の場合、父も父なので、「モンスターペアレンツ」と言えるだろう。……要するに、できるだけ関わり合いたくない部類の人間なのだ。

 母の顔色の意味を知り、大体佐伯夫人がここを尋ねてきた理由も察してしまった蓮は、どう切り出したらいいものか、とまごついていた。これなら、裕と一緒に厳しい修行を受けていた方が大分ましである。

「ど、どうも……」

 蓮から出たのは遠慮がちな声の挨拶だった。化粧のため存在感が割り増しの佐伯夫人には萎縮するしかなかった。

 佐伯夫人ははあ、と盛大な溜め息を出す。

「近頃の子どもは礼儀がなっていなくって困るわ。おはようございます」

 憎まれ口を叩かれても、蓮は何も返せなかった。何故なら、佐伯夫人の化粧の臭いと香水の臭いに耐えるのでいっぱいいっぱいだったからだ。

 早いところご退去いただきたいため、蓮は必死に言葉を紡いだ。

「ほ、本日はどういったご用件で……?」

 恐る恐る訊ねると、子どもの襟首を掴まえるという淑女にあるまじき行為を取る佐伯夫人。掴まれた蓮は目を白黒とさせるしかない。

 だが、そんな蓮の様子が夫人の逆鱗に触れたらしく、蓮は投げ捨てられた。

「白々しい! 昨日現場にいたのならわかるでしょう? わたくしの用は、当然瑠璃花ちゃまのことに関してよ」

 用件はわかった。わかったのだが、蓮は固まった。固まらざるを得なかった。中学二年生の娘を捕まえて「ちゃま」とは。新しすぎる。一体どうなっているのだ佐伯家は、と他人事なのに一瞬不安になってしまった。

 投げられたが、ご婦人の力はそう強くもないため、修行で鍛えている蓮はなんとか耐えられた。ただ、佐伯の件となると、アクジキジハンキの話になるだろう。アクジキジハンキのことはあまり親に聞かれたくなかった。きっとまた心配をかけるから。

 蓮の親はモンスターペアレントレベルではないが、蓮を人並みに心配してくれる。蓮が気にしている同級生の死のことも考慮して、塾をやめさせてくれたのも親だ。また何かに巻き込まれていると思われてはいけない。いや、佐伯夫人が来ている時点で充分心配はかけているのだろうが、親に負担をかけるのは筋が違うと思ったのだ。

 蓮は立ち上がると、夫人を見上げ、きりりと表情を引き締めて言った。

「わかりました。外でお話ししましょう」


 蓮は佐伯夫人を伴い、件の坂道を上っていた。

「なんて無礼な子どもなのかしら。客人が来たらお茶の一杯も出すものでしょうに」

 炎天下の中汗だくになっているであろう夫人はそんなことをぼやいていた。勝手に来たのはそっちだろうに、茶なんて用意できるか、と蓮は内心で呟く。身勝手なところは親子してそっくりだ。

「ところで、あなたさっきからどこに向かっているのかしら?」

「佐伯嬢が昨日お怪我をなさった場所です」

 蓮は振り向かずに答えた。決して振り向いてはいけないと思った。厚い化粧に汗。この二つのキーワードから導き出される答えは地獄しかない。よって、蓮は振り向かない。振り向いてはいけないとか、どこの都市伝説だよ、というのは噛み殺して。

 やがて見えてきた、三日目ともなるともはや馴染みの自販機。見えるときと見えないときとがあるから不安に思ったが、後方から夫人が「あら、あんなところに自販機なんてあったかしら」と定型文を言ってくれたため、真夏の陽炎が見せた幻でないことは確かなようだ。

 蓮は歩みを止める。自販機の前だ。

「僕は昨日の朝、ジョギング中の佐伯嬢と遭遇しまして、ここで談笑していたんです……と、炎天下でこの坂道です。喉は渇きませんか?」

「お茶も出さずにぬけぬけと! 渇いているに決まっていますわ!」

「ちょうどよいことに自販機があります。何かここで飲みながらお話ししましょう」

「そう」

 では、と当然のように蓮より先に自販機の前に立つ。レディファーストとでも思っているのだろう。レディファーストとは、先の道が危険かもしれないから女に先に行かせるというなんとも下衆な文化だという噂があるが夫人はご存知なのだろうか。

 ふう、と蓮は人知れず息を吐く。本当は、球磨川や相楽、裕などにちゃんと話を聞いてから実験するつもりだったのに、と思う。

 蓮は佐伯夫人を見た瞬間から、ここに連れてこようと目論んでいた。この行いがいいことだとは思わない。だが、蓮には佐伯に存分な恨みがある。佐伯が握力をなくしたくらいじゃ、溜飲は下がらない。

 佐伯が佐伯たる原因である親を潰せたなら、どんなにいいだろうか。佐伯がクラスの実権を握っているのは、親の七光りがあるからだ。本当なら、佐伯氏も巻き込みたいところだが。

「あら、イチゴミルクなんてあるのね」

 そんな蓮の仄暗い思いなど知ることもなく、佐伯夫人はやはり親子だからなのか、佐伯と同じものを選んだ。ただ、佐伯ほど世間知らずではなく、投入していたのは千円札であった。

 自販機に飲まれた野口英世。当然自販機のランプは全部点く。佐伯夫人は迷うことなく500mlボトルのイチゴミルクのボタンを押した。

 百三十円だ。

 お釣はざっと計算して、八百七十円。さあ、この金額を夫人は惜しむだろうか。大企業のCEOを夫に持つ大富豪が、端金を惜しむだろうか。

 惜しむとしたら、さぞや滑稽なことだろう、と蓮は自販機が例の言葉を放つのを待つ。

 ほどなくして、自販機は当然のように決まり文句を放つ。

 電子的な女性の声で。


「お釣、いただきますね」


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