1体験目_手招きする男

これは私が小学校の頃、実際に体験した話である。

 私の家から小学校は800mほど距離があった。大人になった今、800mと言うと大した距離では無いと感じるだろうが、小学生の小さな身体には、大変長い道のりであった。

実際、私は通学に20分程度かかってしまっていた。

その通学路の大部分は、車の多く行き交う大きな道路に面しており、街灯もたくさんあって車道にさえはみ出さなければ安全と言える道であった。しかし家に帰るためにどうしてもガード下を通らなければならない箇所があった。私はこのガード下が嫌いで嫌いで仕方なかった。まず、中のジメジメ感が心底嫌であった。

ツンと鼻を刺す雨の日のような独特な匂いが充満していた。その匂いは大人になった今でも鮮明に思い出すことができるほどである。

さらには、オレンジ色で満たされている空間自体が薄気味悪く、そのガード下を通る数十秒間は、足元を見て小走りで駆け抜けるのがお決まりとなっていた。

かといってそのガード下を通るのは、ほんの数十秒であったので特に問題もなく、多少の嫌悪感はあったものの毎日通学のために通り抜けていたのである。


 ある日のこと、学校で先生のお手伝いをしていた私は、帰りがいつもより遅くなってしまった。先生は帰り際に「手伝ってくれてありがとう!まだ暗くはなってないけどいつもより下校の時間が遅くなってしまったから気をつけて帰るように。」と私に忠告してきた。

「はーい!先生また明日!さようなら!」と私は元気よく先生に挨拶をして家族の待つ家に向かって歩き出した。

「今日の晩御飯何かなー??ハンバーグだったらいいな!」などと独り言をボソボソと呟きながらいつもの帰り道を進んでいた。

そんな時、ふと空を見たら夕焼け空が燃えるような赤色をしていた。

その瞬間、私の身体がブルっと震え、鳥肌が両腕いっぱいに出てきた。

[なんだか…怖い感じがするな……]

今まで体験したことない感覚に身体が支配されていた。しかし何が怖いのかもわからない。私は得体の知れない恐怖を抱えながら、いつもよりも早い歩調で黙々と家に向かって歩いた。


 いつも通り大きな道路に沿って進んでいき、後は私の苦手なガード下を通り抜けると家はすぐそこであった。

「やっと家に着く!」

私は無意識に口から安堵のセリフを発していた。自然と今まで強張っていた顔面にいつもの笑顔が戻ってきた。

あとは、このガード下を通り抜けるだけ……だったのだが。

ガード下の入り口の前で私は足を止めてしまった。いや……あの時の感覚は鮮明に覚えている。私が足を止めたのではない。私の中に眠る動物としての本能が、足を進めることを拒否したのだ。なぜだかわからないが私は一歩もそのガード下のトンネル前から動くことができなくなってしまった。

それどころか身体中の毛穴という毛穴から汗が吹き出していた。

[なんだこれ……。身体が動かないし、汗が吹き出して。怖い。怖い。怖い。怖い。]

次第に私の頭の中は、怖いと言う文字で埋め尽くされてしまった。

恐怖で足元をずっと見ていた私は、勇気を出して視線を上にあげ、トンネルの中を見た。

すると……トンネルの出口のところに人影が見えるのである。

人がいること自体は特に変ではないのだが、それは異質な雰囲気を放っていた。

何が異質かと聞かれれば答えることはできない。わからないのである。理解ができない。しかし変なのだ。身体中の細胞が悲鳴を上げ、恐怖し、足が動かなくなるような異質さであった。


 しばらくの間、私は、その人影をじっと眺めていた。いや違う。目を逸らすことができなかったのだ。

だんだんとその人影がどのようなものなのか分かってきた。

歳は80歳くらいで、髪の毛は白髪。フサフサではなく所々に毛があるような髪型をしていた。

体格は小太り、そして前歯が少ししか無く顔中が黒く汚れていた。

服装はというと、穴の空いてボロボロの白いTシャツに薄汚れたジーンズ、サンダルであった。

公園の隅で寝ているような浮浪者のような感じと言うとしっくりくるような風貌の男である。

そのような風貌にも多少は恐怖を感じていたのだが、中でも一際恐怖を駆り立てたのは、目であった。瞬きも全くせず、赤く充血した目を見開きただひたすらに前だけを見つめていた。

[人間は瞬きをせずあんなに前を見ていられるものなのだろうか……。]、[なぜこんなとこに立っているのだろうか……]
私は心の中で様々なことを考えていた。考えれば考えるほど私の頭の中は恐怖と言う感情で埋め尽くされていった。

「頑張って早く帰ろう。大丈夫。大丈夫。…」何度も大丈夫と呟き自身を落ち着かせ、意を決して鉛のように重くなった足を前に進めようとしたその時、私の目にとんでもない光景が飛び込んできた。

なんと、前にいた男が手招きをしていたのだ。

表情は一切変わらず、目を見開いて前を見たまま事務的にただ手を動かしている。

「見ちゃダメだ。大丈夫。大丈夫。」

僕は大丈夫と呟き少し小走りでガード下を通り抜けようとした。

「見ちゃダメだ。見ちゃだめだ。見ちゃだめだ……」

何度も何度も自分に言い聞かせて私はガード下の出口を目指した。

下を向きながら男の横を通り過ぎた時、私は何もされなかったことに安堵し気を緩めてしまった。そして好奇心に勝てずチラッと男の方を振り返ってみてしまったのだ。

男は先ほどのカッコのまま手招きを続けていた。

[なんだ…怖いなと思ったけどただの変なおじさんだったんだ。何も起きなかったし。]

その男の横を通過し、何事もなく出口まで辿り着けたことから、私の中の恐怖の感情は限りなくゼロに等しくなっていた。


 しばらく男の方を見ていると、男が身体をピクッと振るわせたように見えた。

次の瞬間、黄ばんだ数本の歯が見えるくらい男の口元がみるみるうちに緩んできていることが斜め後ろにいても分かった。男は前を向いたままニヤリと笑っていたのだ。

[あぁ……]

その男の口元を見た瞬間、先程まで忘れていた恐怖と言う感情が私の中を再び支配した。

身体中の血液が逆流するような恐怖。ドクドクドクドクとうるさい程の鼓動を上げる心臓。

私は正気を保っていることが出来ないくらいに追い込まれていた。

それと同時に、好奇心に負けて振り返ってしまった自分を心底憎んだ。

「………た。」

なんだ?
「………けた。」

男が何か言っている。

私は怖くなりその場から逃げ出そうとしたが、足がうまく動かなかった。

人は極限の恐怖を感じると歩くという行為を忘れてしまうのであろうか……

私はそこから一歩も動くことができずただただ恐怖に震えながら下を向いていた。

「ズズズ…ズズズ…」

 重い足を引き摺る音が聞こえてきた。

男が近づいてきているのだ。私は直感的に理解した。

「ズズズ……」

どんどんと足を引き摺るような音が大きくなってくる。

「もうだめだ」

私は自身の死を決意した。あまりにも短すぎる人生。

[もっとやりたいことも沢山あったのに……。]

そんなことを考えていると自然と涙が溢れてきた。そして恐怖のあまり目をギュッと固く閉じた。

その状態のままプルプルと恐怖で震えていると、先程まで聞こえていた足を引き摺る音がピタリと聞こえなくなったのである。

[あれ……。もう消えたのかな……]

私はギュッと閉じていた目をゆっくりと開きそのまま恐る恐る顔を上げた。

そこに男の姿はなく、オレンジ色で満たされたガード下の不気味な空間が広がっているだけであった。

「ホラー番組とかならここで安心して後ろにいるってパターンもあるけど……」

私はそんなことを考え恐る恐る振り返った。

「何もない…」

私はそう呟き少し安堵した。その瞬間、先程まで恐怖によって鎖で繋がれているかのように感じていた足が少し軽くなった気がした。そして再び一歩を踏み出し、全速力で家まで走って帰った。


 家に着いたあと私は家族に今日あった出来事を話そうか迷ったが、話すことによって家族にも迷惑がかかってしまうのではないかという思いがあり、誰にも話さずにいることを決めた。

そして晩御飯のハンバーグを食べ、テレビを見て、何気ない日常を過ごしていた。

ベットに入り眠りにつく頃には、夕方ほどの恐怖はなくなっており、何事もなく眠りについた。


 次の日もその次の日もあの体験をしたガード下を通っていたがあの男を見ることはなかった。私はというと、あの体験のことを忘れ、完全に以前の日常を取り返していた。

そんなある日、私はいつものように一日を終えベッドに入った。

そして眠りに就こうと目を閉じ、ゆっくりと夢の中に入って行った。

その日の夢での私は、学校から帰っていた。

いつもと変わらない風景。そのような風景を楽しみつつ家までの帰り道をどんどん進んでいた。そしていつものガード下にたどり着いたのである。するとその瞬間、さっきまで綺麗な夕空だった風景が一転、燃えるような赤い空に変わったのだ。

[この空は……。]

私は夢の中でハッと思った。

「あの時の空だ……」

私がそう呟いた瞬間、目の前にあの男が現れた。

そして私から5mほどの距離で、数日前と同様の薄気味悪い笑みを浮かべ、こっちを向いて立っていた。

そして手招きを始めるのである。

すると夢の中の私の体が「ズズズ…ズズズ …」と音を立てて男の方へ近づいていく。

抵抗ができない。夢の中の私は金縛りにあったかのようになされるがまま男に引き寄せられていく。

「ズズズ…ズズズ…」音が大きくなっていき、どんどんと引き寄せられていく。

男はまだ笑みを浮かべ手招きをしている。

そして男の顔が私の目の前に来た時、男は私へ言った。

「やっと見つけた。」


 その瞬間私はガバッと体をベッドから起こし、夢から覚めた。

はぁ、はぁと肩で息をしていて、身体中汗でビッショリだった。

そしてそれから一睡もできず朝を迎えたのである。

 

 これが私の初めての奇妙な体験である。

この日の夢を境に私の身に様々な出来事が起こるのだが、それはまた別の機会にお話しすることにしよう。

さて、あなたはこの私の実体験を最後まで知ってしまったようだが大丈夫だろうか?

学校や職場からあなたの家までの帰り道にガード下はないだろうか?

やけに赤い夕焼けの日はないだろうか?

いや…帰り道だけではないかもしれない。

今もあなたの後ろに、手招きする男はいないだろうか……?

その男に捕まれば最期。あなたも私と同じ体験をするのかと思うと本当に心が痛い。

さあ……あなたは本当に大丈夫だろうか??






  

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