第78話 閑話 南欧。複雑怪奇
「閑話」なので読み飛ばされても大丈夫です。
要約:スペインは「暗い2年間」を過ごし、後の凄惨な内戦前の日々を奇妙な世相で過ごしていた。
貧しいはずのスペインの道路が、何故か金が掛かるはずのアスファルト舗装である。
整備班は欧州のホテルの衛生を信用しない。
この程度の話です。
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1934年(元化9年)9月19日、昼過ぎ。
フランスとスペインの国境を越えた途端に、輸送車の乗り心地が変化した。
それは前を行くブガッティ勢の車列の挙動、続くドイツ勢の車列の挙動にも見える。
見た目はここまでと同じくネズミ色に退色したタールマカダム舗装面なのだが、転圧して噛み合わせた砕石の固さが感じられない。
しかし未舗装の粘土質道路ほどに柔らかいわけでも揺れ続けるわけでもない。
適度な柔らかさと振動減衰性を兼ね備えた、もし摩擦係数も良好ならば理想的な路面。
アフス並みとまでは言わない。
しかし、帝国で言うと横浜あたりや名古屋あたりの、製油所近くのアスファルト舗装のような感じだ。
「これは……アスファルト舗装ですね。しかもあまり厚くない」
叶があっさりと断じた。
「たいていの国ではアスファルト舗装はタールマカダム舗装より建設費が高い。原油副産物たるアスファルトが石炭副産物のタールより安くなるほど『エネルギー革命』が進んでいる国があるとしたら、アメリカくらいだ」
能村の言葉の続き「スペインはフランスより貧しい国で、ヨーロッパとしては自動車普及率が低い部類の国。数年中に日本帝国に追い抜かれるはず」は誰も口にせず、ただ首をひねった。
「あれかな。例えば帝国はアメリカやボルネオからアスファルト成分の少ない原油を輸入して製油所で処理しとる。ヨーロッパのほとんどの国もオランダ領ボルネオか、ルーマニアあたりの上質原油を輸入しとるはずやな」
「スペインはアスファルト質の多い安物の原油を輸入していると言う説でしょうか?」
運転している左輪交換手が応じるのを聞きながら、能村はひとつの疑念に答えが出るかもしれないと考えていた。
昨年まで施行されていた旧フォーミュラ、今年も引き続き継続施行のヴォワチュレット各級。
どのサーキットでの記録もファステストラップと、レースのスタートからゴールまでの平均速力(ピットでのロスタイムを抜いて計算)には差がある。
路面比較のために気象条件別に整理してあるが、ともかく不可思議な傾向がある。
最高記録と平均記録の差がもっとも少ないのはもちろんアフスだが、その次が何故かスペインのラサルテなのだ。
何か理由がある。しかしこれは敵将たちには聞けない。
仮説として。
路面の方で振動を吸収してくれるなら、ヴォワチュレット各級や昨年までのグランプリカーのように「硬すぎる足回り」と「バネを兼ねるシャシー」と言う酷い組み合わせでも「一昨年にアフスで見た程度には」自在にペースを選び走れるかもしれない。
この説が正しいならば。剛性の高いシャシーと柔らかいサスペンションを持つ94RCの優位、たとえばセメントコンクリートのモンツァの高速周回路外縁上で旋回し駆け下りたような優位が減る。
だとしても、これを補う方法はいくつかある。
そこで能村は「ひとつの仮説への深入り」を打ち切った。
一般的にはアスファルト舗装はタールマカダム舗装よりも長持ちする。その事実のみに今は留める。
それでさえ「明日の練習走行開始から決勝レース終了まで天候変化以外の条件を考えずに足回り設定を試せるのか」は実地を見ないと判らない。
明日の午前に予定されている、主催者用意のバスに全チームのドライバーを乗せてのコース確認走行から叶が戻れば決定できる。
別の「ラサルテでは平均記録が最高記録に近づく理由」も考え、その場合も準備も考えることにした。
たとえば。
単にグランエプルーブの最終戦であるから「どのチームも慎重にポイントを取りに行った。最高記録を抑えただけ」も仮説として成り立つ。
*
国境を越えてから30分ほど走ったところでサン・セバスティアン市に到着、ガソリンスタンドで小休止。
光景は、安堵すべきか危機感を抱くべきなのか迷うものだった。
イギリス軍艦旗を掲げた小さな艦がサン・セバスティアンのすぐ沖に停泊しているのだ。
イギリスとスペインは緊張した関係にある。しかし戦争や経済制裁を行っているわけでもなくまた両国とも国際通商条約その他に調印している。
スペインがイギリス船の寄港を拒否出来るのは疫病や犯罪の恐れあるときと、軍港だけである。
「えーと……『G , L , O , W , W , O , R , M』と書かれてますね」
「グローワーム。光る虫、日本で言えば蛍とかああいう虫の総称だ」
左輪交換手がその船の名を読み取り、叶が応じた。
「軍艦に付ける名前にしてはずいぶんと儚い感じですね」
実際にその役目は儚いものだろう。
いかにも古びた小さな艦「グローワーム」が出来る戦闘行動は「攻撃を受けたら沈む前にイギリス本国へ通報する」だけだろう。
しかし。
事実としてイギリスはスペインの先行きを不安視している。
それを示している。
当然ではあるだろう。
左派を名乗りつつ労働者保護よりもスペインの伝統文化を破壊することに努力を注ぎ大規模なストライキを招いた、まるで伝え聞くソビエト政府の縮小高速再生のような前政権。
その前政権に対抗する最大の党、「この国難に必要なのはイタリアやドイツ、ポルトガルを見習った強権政治なり」と主張するファランヘ党。
この2者に比べれば今のスペイン政権は「中道」ではある。
スペインでは労働者保護よりもイデオロギーに沿わないものを破壊することに熱中する前政権が「左」、ファシズム政権を目指す政党が「右」なのだから。
そんなスペイン情勢。
「破壊的な左派と、強権政治を目指す右派の間にある政権は中道政権」などと言う国が大西洋と地中海を結ぶ重要航路に位置している。
海洋帝国イギリスの政府は能村などよりもずっと大所高所から先行きを案じていて当然だろう。
能村は自分の認識がかなり偏見に依っていることは気づいている。
イギリスが行っていることはいかにもあからさまな威圧である。
そしてそのあからさまな威圧を「古びた小さな船」に留めるイギリスの苦しい立場も伺われる。
スペインのファランヘ党が「見習おう」とする国の一つに挙げているポルトガルの現政権は疑念の余地なくファシズム政権だ。
そのポルトガルとイギリスとの間には今の体制になるずっとずっと昔(大学で習ったきりで何時からなのか思い出せない)からの「永久同盟」がある。
この永久同盟はイギリス、ポルトガル両国の政体、政権がどう変化しようとも維持される。
イギリスの国家戦略が「大陸には自国領を持たず、しかし軍事介入の足掛かりは常に確保する」である限りは。
もしポルトガルが自由主義陣営にある国だったなら?
イギリスは「グローワーム」のような小さな艦ではなく、戦艦や重巡を「親善訪問」させているかもしれない。
そして。街行くスペイン人たち、そして観光客の表情は明るい。どうにも理解しがたい。
*
やがて各チーム輸送車からなる車列はラサルテ市の郊外に主催者が確保した宿の駐車場に入った。
整備班長と次席整備員が顔をしかめた。
出発前に能村「工学博士」の名で強く要望してあるのだが、それでも欧州基準で運営される宿と言うものに対する不信は抜けていないだろう。
あれはシンガポールに貨客船が寄港し、現地で上陸一泊したときだった。
「建物内の廊下と言えども屋外の道路扱いで、客室備え付けの室内履きで廊下に出ることは極めて非常識不衛生な行為」と説明したときには整備班は感心し、また納得してもいた。
欧州式の宿では建物の玄関で外履き上履きを履き替えないのだから、当然のことではある。
「客室備え付けの室内履きで廊下を歩けば従業員から注意される」と言う説明にも皆、納得を示した。
欧州の宿の廊下は屋外道路に等しい。そこに室内履きで出ることは、日本家屋で言えば上履きで屋外に出るに等しい。
当然だろう。
が。その日のうちに整備班は(言葉も通じないと言うのに)ホテルの従業員と猛烈な言い争いを実施した。
言い争いに割って入った能村はホテルの支配人を呼びつけ言い争いの経緯を述べてから「これは帝国の博士とその随員に対する侮辱か?」と問い詰めた。
いまだに能村は「伝え忘れた」ことにしている。
整備班が持っていた欧州への幻想を破壊する上で、実に役立った。
実際、能村にも未だに理由が判らない。
欧州のあるいは欧州資本のどのホテルでも、従業員はその「屋外道路扱いの廊下を歩いた靴」を履き替えずに客室に入り清掃や配膳を平然と行う」のだ。
日本的に考えれば「土足で畳間に上がる」に相当する。もし日本で行えば言い争いでは済まない。
京都あたりでやれば「末代まで笑い者」くらいの穏当な措置で済むだろうが、神戸や川崎、福岡あたりでやれば「行方不明」だろう。
鹿児島や、能村の郷里でやれば……想像もしたくない。
今では整備班は「欧州の宿」と言うものを信用しなくなっている。
能村が博士号を記した名刺を示し要望すればホテルの従業員も靴の履き替えを行うのだが、つまりは「普段は従業員もそれまでに宿泊した欧米人も土足で立ち入った部屋」に泊まるのだ。
今回は事前に名刺同封で要望書を出して「蒸気消毒する」と返書をそのホテルから得ているのだが整備班は全く信用している様子がない。
割り当ての客室に薬用アルコールを噴霧するのは欧州で宿を取るときの整備班のいつもの行動だ。
バルコニーから見渡してみる。
ラサルテの街にも緊張感らしきものはない。
数日前に前政権の大物政治家の葬儀がサン・セバスチャン市で盛大に行われたとは聞くのだが。
しかし、各チームが合同で泊っている宿の周囲に、各フロアに明らかに拳銃を携帯した私服警備員が巡回している。
制服警察官や軍人でないのは何故か、これも理解しがたい。
しばし考えて、能村は南欧の午後に深い角度で差し込む陽射しがアルコールを分解しおえるのを待って続き間で連絡会を始めた。
レースを、今年の最後のレースを行うために来たのだ。
理解しがたいがとにかく警備と言うものはなされている。
しかし単独行動は厳禁。
夜間外出厳禁。
重要政党の大物政治家が暗殺されるような国、観光地の港に大国の軍艦が停泊して警戒威圧するような情勢の国なのだ。
そこまで再確認し、そして明日行うべき仕事の打ち合わせを始めた。
なによりもまずラサルテのコース実情確認。
1周してくるのは叶だけだが、RTの残り5人は輸送車ごとピット背後に移動し競馬場との間のその空き地に仮設されるパドックが開催要項どおりの広さなのか、記載の天幕があるか確認。
問題なければ機材を降ろす。問題あれば割り当て広さを主催者に確認し、持参の天幕を張る。
そして、ピットレーンの実情把握。ピットとパドック間の往復経路の把握。
他のコースのピットとは構成が異なるとは読み聞きしているが、94RCを持ち込むのは整備動作の確認後。
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本作はフィクションです。
この時期にイギリス海軍の小艦艇がスペインのあちこちの港に各種の口実(真水や食料の購入など)で訪れていたことは我々の歴史と同じです。
我々の歴史ではインセクト型砲艦グローワームは1928年に解体されており、1934年8月にG型駆逐艦グローワームが起工されたばかりでした。
「我々の歴史でのこの時期にサン・セバスティアン港に停泊していたイギリス海軍小艦艇」の名前が判らなかったのでこうしました。
なお。
能村には知る方法がないので書きませんでしたが、スペインに駐箭していた各国大使館がフランスとの国境に近いサン・セバスチャン市に「出張事務所」を構え始めたのもこの時期です。
内戦勃発と同時に各国大使館はサン・セバスチャン市に移転します。
そして。
「砲艦」は小さな艦ですが、多くの場合「移動する簡易外交拠点」の役目を負います。これも能村は知りません。
イギリス海軍がより明確な態度でスペインへの威圧を開始するのは、内戦勃発の少し前です。
作中にはたぶん書きませんが。
我々の歴史と同様に数年後。
当時のイギリス国王が崩御し、新国王の即位記念国際観艦式が予定されます。
日本帝国海軍は重巡2隻(足柄、摩耶)の派遣をいったん決めるのも我々の歴史と同じです。
そしてイギリス側から「国際観艦式の正式日程は事前通知も公開もできない。長期滞在準備をして訪問してほしい」(=イギリス海軍は作戦行動中で、主力艦を観艦式のために引き上げる日程の公開はできない)と言われて「足柄」1隻に減らすことも、我々の歴史と同じです。
あとは。
欧州の宿が根本的に不衛生であるのは、我々の歴史と同じです。
……よし(何も良くはない)。
これで。カクヨム架空戦記全作品全エピソード中、もっとも退屈な話になったはず!(レース本編との差をつける姑息な手段)
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