第36話 1934年 フランスGP決勝(3)
1周目を終えるときに「あと11周でピットイン」と示した。
次は「あと10周でピットイン」と示す。
つまりスタート前の計画どおり、12周目を終えたところでピットインさせる。
それまで故障や事故がなければの話だ。
「出走禁止」処分を受けるような行為、受ける可能性のある行為はいっさい控えるようにと叶中尉には指示が出ている。
だから道幅の狭いところやヘアピンカーブでの追い越しを避けることはもちろん、追い抜かれそうになったら慎重にかつ即座に走行ラインを譲る。
今日は、叶中尉はそのように走る。
予定の最初のピットインは5分を……1周近くの時間を費やして点検に万全を期すことになっている。
「わずかにでも故障の予兆『らしきもの』を見出せばそこでリタイアさせる」とは能村博士の指示。
最終順位など最初から気にもしていないのは、能村博士の言葉どおり「ツクバRTにとってのフランスグランプリはすでに半分終わっている」ゆえのこと。
今日、このレースで得るべき最重要の「グランエプルーヴでの得点1点」は暫定的には得ている。
「出走禁止」処分さえ降りなければ、来年まで有効な出走資格となる。
残り半分のさらに9割9分は「その処分を受けずになんらかの形でこのレースを終える」こと。
レースの終え方はリタイヤでも構わない。
残り「0割1分」はいくつかの資料採取で、左輪交換手が担当する高速度撮影も含む。
点滅光源と35ミリムービーカメラを用いた撮影ほどには鮮明には映らないし秒あたり撮影数も少ないが、点滅光源はもちろん35ミリムービーカメラもピットに持ち込んで身を乗り出した人間の肩で支えるには大きすぎる。
ふと、他チームのピットを見渡す。
どのチームもピットから鋼材らしき梁を突き出して35ミリあるいは70ミリ級の大型のムービーカメラを載せ、しかも長いフィルムをセットするための追加フィルムケースをセットしている。
大型の高速度撮影カメラなのか、通常型ムービーカメラなのかは判らなかった。
ただ、いずれも独仏伊それぞれの国産機らしい。
アメリカ製の中古品を改造して、しかも「鮮明度の高い35ミリや70ミリはフィルムもリールも重く、高速送りなど出来ない」からと16ミリを選んでいるのはツクバだけだ。
遠雷のように響いてくるエンジン音の中から94RCの唸りを探す。
今、「臆病者のカーブ」を通過したところだと推測するより先に柿崎技師がそれを告げた。
「この距離やと音は6秒遅れやから、実際にはもう『荒れ地のヘアピン』に向かう左カーブを回っとるあたりかな」と。
テレプリンターの存在が意識に戻ってきた。
タイピストが打ち込むまでの時間遅れは、音が伝わる時間遅れよりも短いようだ。
紙に打ち出された文字列によれば先頭集団は2つにわかれつつある。
首位は依然としてシロン。そのフェラーリの真後ろにドイツ勢3機が付けているが、ファジオーリがカラツィオラの前に出たらしい。
1秒ほど遅れてヴァルツィ、ブラウフィッチュ、トロッシ。
しばらくしてテレプリンターは再び唸り第2集団の間隔を示し、そして初めて数字以外を打った。
ゼッケン14、つまりヌヴォラーリが第2集団最後尾に下がり「smoke」とある。
ヌヴォラーリの数秒前方にゼッケン13つまり叶中尉。
あと3分ほどで戻って来る。
7.7秒撮影できるムービーカメラ3台をどう配分して撮影するか、今はそちらに注意を向けねばならない。
結局、2周目の「フェイのヘアピンカーブ」を通過するときの順位と時間差を柿崎技師が同時通訳してくれるまで作業配分は決まらなかった。
考えている間にいくらか理解がまとまったこともあった。
バンクの荒れた箇所を通過するときの機体の震えがもっとも激しいのは「本社チームの」マセラティ、そしてブガッティ3機。ついで「個人参加」マセラティかドイツの2機種のいずれか。
震えの幅が小さく収まるのがもっとも早いのは94RCか、3機のフェラーリのいずれかだと言うことが判ってきた。
それをファインダー越しに見た様子を思い出して自力でまとめたのか、無意識に能村博士と柿崎技師の論じていたことを聞き取ったのかは判らない。
L.シロンは2周目も首位で戻ってきた。そのすぐ後ろにドイツ機が2機、ファジオーリとシュトゥックが横並びで続く。
フェラーリの機尾からドイツ機2機の前輪までの間はタイヤ直径分ほどだった。
数車身遅れてカラツィオラ、ヴァルツィ、トロッシ、ブラウフィッチュ、縦一列。
そこでフィルムが尽きた。カメラを持ち換える。
「2周目、シロンは5分16秒6」
柿崎技師が大声で訳す。
20秒ほど遅れてドレフュス、叶中尉、ツェヘンダー、エタンセリンの順で「対象点」を通過。
そこまで撮影して2台目のカメラに時刻表示器を当てたところでヌヴォラーリのブガッティが隣の14番ピット前に止まり、プラグ交換らしき作業が始まった。
いつの間にか次席整備員が通常速ムービーカメラを手にしており、ブガッティのピット作業を撮影しはじめた。
通常速のそのカメラは2分40秒の連続撮影が出来る。
ベノワ、モンベルガーが10数秒ずつ間を置いてピット前を通過した。
モンベルガーはピット前を直進しロードコースへと滑らかに乗り入れたが、その両手は霞んで見えた。
「アウトウニオンは操縦者ごとの調整範囲が大きいらしい」
「ライニンゲン王子だけ癖が違うかもしれんぞ」
能村博士と柿崎技師の対話を背に聞きながら、カメラ2台を手に左輪交換手はピットの奥に下がった。
1周目のフィルム交換と同じく、ピット奥に配置した
陽光の下でも交換できるデイライト・フィルムを今日は使っているが、フィルムである以上は埃や油飛沫の付着は厳禁だ。
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ライニンゲン王子:"Prinz Hermann Viktor Maximilian zu Leiningen"
細かく言うとライニンゲン侯爵(この時代は旧侯爵領の地主。貴族特権は消滅)の弟。
旧ドイツ王家とは親戚だが王位継承権はドイツ帝国ごと消滅している。
スウェーデン王家とも親戚であり、こちらの継承権はかなり下順ながら保持。
L.シロン:元ブガッティのエースドライバー。
「今の」ブガッティ社のスポーツカーの車種名で有名だが、アルファロメオ(フェラーリ)でのレース歴の方が長い。
今のところアルファロメオにもフェラーリにも「シロン」と言う車種はない……はず。
フェラーリ:この時代はアルファロメオからレース活動を委託されているスクデリア。
アルファロメオのマシンで出走する別チーム(この年のフランスグランプリには無し)との呼び分けの都合からか、当時から「フェラーリ」で通る。
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