第35話 1934年 フランスGP決勝(2)


「今『フェイのヘアピンカーブ』をシロンが回った」

 柿崎技師が場内放送を同時通訳してそう告げたとき、まだスタート旗が降りてから5分も過ぎていなかった。

 高速周回路の北直線へと戻って来る前の、最終コーナーの一つ前までもう戻ってきている。

 騒音の群れが周回路と言う巨大なすり鉢の外から近づいてくる。

 左輪交換手は3台の手持ち式高速度ムービーカメラの一つを手に取った。

 左輪交換手にとっては初めて「設計」を行った機械だ。改造に過ぎず、いくつもの機能を取り払ったとは言っても。


「高速周回路東バンクの、一番隆起が激しいところを各機が通過する様子を撮影」これが能村博士からつい先ほど出た指示だ。


 カメラのメインレンズに懐中時計とレンズを組み合わせた時刻表示器を当て、1コマ撮影ボタンを押す。

 これで、フィルムの1コマ目に撮影時刻が写されたはずだ。焦点距離の違いは表示機側のレンズが補正する。

 昨年の夏の千里浜で、台湾への二度の遠征で、そして今年春の千里浜試験で何度も行ってきたことだ。

 ついでピットから上半身を乗り出し、ファインダーを通してその、撮影対象点を見る。

 この苦しい姿勢での撮影は初めてだが、撮影には今では自信を得ている。


「シロンのすぐ後ろにカラツィオラ、ファジオーリ、シュトゥック、ヴァルツィ、ブラウフィッチュ、トロッシ!15秒ほど遅れてドレフュス、ヌヴォラーリ、叶、ツェヘンダー、エタンセリン、ベノワ、さらに遅れてモンベルガー!」


 柿崎技師が大声で伝えたときには先頭集団が高速周回路北直線に入り、各機の放つ猛烈な騒音が響き渡っていた。

 少しだけカメラの軸を振って撮影対象点よりも向かって左へ、コース図で見れば手前へ向ける。

 ファインダーの中にシロンの真っ赤なフェラーリと、カラツィオラとファジオーリの銀色のメルセデス、そしてシュトゥックの銀色のアウトウニオンが入った。

 首ごとカメラを振ってシロンをファインダー視界の右縁近くに捉え、追う。


 周回路の最上段、もっとも内側傾斜角の厳しい車線をシロンが通過してくる。

 1車線低いところでカラツィオラとファジオーリがそれに続き、さらにファインダーの視野の左から上段車線にヴァルツィの真っ赤なフェラーリ、ブラウフィッチュの銀色のメルセデスが、そしてトロッシの真っ赤なフェラーリが現れる。

 シロンとの差をヴァルツィ、ブラウフィッチュ、トロッシが詰めてゆく。

 ファインダーで追う。


 カメラの連続撮影トリガーを引く。耳元でカメラが何千匹ものセミが合唱するかのように唸り出し、周回路に響くエンジン音が意識から消える。


 純正で毎秒24コマから128コマまで撮れるものだったそのカメラは能村博士の要望により、博士と柿崎技師そして羽咋の写真館に指導を受けて改造したものだ。

 純正最高速度の倍に当たる毎秒256コマでの動画撮影と、1コマ送り静止撮影しか出来ない。


「フィルムを1コマ分送り規定位置で停止させ、シャッターが開いて閉じ、フィルムをまた1コマ送る」


 この動作を純正の倍の速さで行う--純正の4倍の加速度がフィルムを含む全ての可動部品に掛かる--ために、ありとあらゆる鋼製可動部品をジュラルミンの削り出しに置き換えて軽量化し、可動部品を支持する部品は補強した。

 そして最後の一手として純正では100フィート、3960コマのフィルムを巻けるリールを50フィートしか巻けないジュラルミンリールに換えたそのムービーカメラは、リールに巻いたフィルムを使い切るまで7.7秒しか撮影できない。


 だがトリガーを引いてから先頭集団最後尾のトロッシが「対象点」を通過するまで数秒しかなかった。

 トリガーを離す。カメラが黙る。第2集団の到来に備えて「対象点手前」へと向き直る。


 間に合った。

 バンク中段を疾駆してくるドレフュスの真っ青なブガッティを視野の右側に捉える。

 その真後ろのヌヴォラーリのブガッティがファインダー視野の中央に。

 ヌヴォラーリの左側、最上段車線に叶中尉の94RC。白地に赤。

 ヌヴォラーリの後ろにツェヘンダーとエタンセリンの真っ赤なマセラティ2機。


 ファインダー中央にヌヴォラーリのブガッティを捉え、追いながらトリガーを引く。

 カメラが猛然と唸り、周回路に響くエンジン音がかき消される。


「対象点」をエタンセリンが超えてマセラティの機体の震えが収まるところまで撮影してトリガーを離す。


 再び時刻表示器をレンズに当ててトリガーを引く。

 1秒もしないうちにフィルムを使い切った。


「1周目、シロンは5分20秒6!」

 静止状態からのスタートでこのタイム。先頭集団はそこから1秒に満たない差で続いている。

 第2集団はどこかで遅れてはいるが、それでも挽回できる差に思えた。


 出走直前にライニンゲン機に急遽乗り換えたモンベルガーは明らかに不安定で、すでに脱落が近いと思われる。


 次の周回に備えてフィルムリールを交換するためにピットの奥に戻ったときには全機が高速周回路の南直線、ピット前を通過し終えていた。


 整備班長が「L11P」(あと11周でピットイン)を描いてピットから突き出していた黒板を消している。

 叶中尉は猛烈な速力で通過していったが、そのピットサインを読んでいることは疑わなかった。


 バンクの最上段車線を回ってきた94RCの姿は斜め上から見下ろす角度で見えたことを思い出す。

 それは映っているはずだ。

 普段は「ミズスマシ」の綽名とおりに丸っこく見える94RCが、角度をつけて見下ろすと車輪に触れそうな横幅の長方形の角を丸めた姿、あるいは真上から見たカナブンのような姿に見えた。

 何度も見た姿ではあるが、立体とは不思議なものだ。

 見る角度でこれほどまでに印象が変わるものか。

 浅い角度では優雅な曲線を描いているように見えるブガッティやマセラティが深い角度で見れば細長い五角形に見えたことも思い出す。

 角度が変わっても見た目の印象があまり変わらないのはフェラーリの角ばった機体と、どの角度からも流線形に見えるドイツ機2種。


 どれもファインダーの中では目にもとまらぬ速さでサスペンションが上下しぼやけてみえた。

 時間を10.5倍に伸ばせるこのカメラで今得たフィルムを現像して映写機に掛ければ、肉眼では見えない動きが明らかになる。

 94RCに限って言えばどう見えるのかはある程度知っている。


「嵯峨野君、次の周も同じく頼む」

「はい」

 答えて左輪交換手は撮影を終えたフィルムリールを缶に収め、念入りに蓋を閉めた。

 乾燥剤を入れた輸送ケースにそれを収める。


 フィルム交換を終えてピット前列に戻ると、遠雷のように響くエンジン音が意識に戻ってきた。

 耳栓をしたままだと言うのになぜ先ほどの能村博士からの指示が聞き取れたのか、自分でも少し不思議に思う。

「名前を呼ばれればどんな騒々しい場所であっても聞き取れる」とか聞いたことはあるのだが。


 能村博士と柿崎技師が何事か論じているが、それは聞きとれない。


 その傍で黒板を手にしている整備班長には聞き取れているようで、やがて頷くとチョークを手に取り「L10P」=「あと10周でピットイン」と黒板に記した。


 次席整備員が管制塔と、競技長席に双眼鏡を向けて読み取った旗信号「全コース緑」=「現在のところ罰則、違反、路上障害等はなし」をまず能村博士と柿崎技師に、最後に左輪交換手へと示す。


 テレプリンターは相変わらず間欠的に唸っているが、左輪交換手にはそれを読む余裕はなかった。

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