13. my heart is too tired

 熱が上がらないうちに朝の砂浜へ。多くの人が犬を連れて散歩している。線が入った丸い石を見つけてポケットにしまう。海と山しかないようでいて、大切な場所ばかりの町。彼の両親の家で暮らすようになっても遊びに来られる距離だけれど、歩いて行けるビーチはない。

 確かに、二つの部屋を行き来させ家事を任せていては彼の負担が大きすぎる。彼の両親の温かい家で過ごしたいという欲求もあるけれど、何もかも違う環境でやっていける自信はない。彼にしても彼の両親にしても、いつまで私を受け入れ続けてくれるのかわからない。彼らに対して申し訳ない考えだとはわかっているけれど、がっかりさせることがとても怖かった。いまの部屋を手放せば、私の帰るところはなくなる。

 彼にも義母にも義父にも私以外に大切な人たちがいる。何年もこの町に住んでいても私の知り合いは、お店の人たちばかりだった。彼らにとってみれば私は一常連に過ぎない。いくつかの作品を迎えたギャラリーのオーナーが、お客さんに私のことを「お友だち」と紹介してくれたときは本当に嬉しかったけれど、彼女にはもっと親しい人が何人もいる。

 生まれ育った町に、唯一無二といえる親友がいた。彼女の部屋に泊まりに帰郷したり、彼女が私の部屋に泊まりにきたり。年に数回しか会えないけれど、とても大切な人だった。二〇二〇年、三年前に彼女は亡くなった。誕生日にラインで話し、早く会いたいと言い合っていた矢先だった。彼女に、猫さんと彼を紹介したいのに。






 薬が効き過ぎちゃってるんでしょうね、と須藤先生は言った。キイトルーダ点滴の一週間後は診察の日だった。夜は熱は上がりイブを飲んでいると言うと「イブは成分が良くないから……」とカロナールと胃薬を処方された。カロナールは飲み続けることにより成分が体に浸透し効くようになるらしい。

 キイトルーダとインライタの副作用に鬱はないか聞こうかと思ったけれど、すでに心療内科でエビリファイとベンザリンとデパスを処方してもらっていることだし止めておく。乳がんだった親友は抗がん剤の副作用でうつ病になり治療していた。彼女は脱毛も手術も経験していた。手術になる可能性のことを忘れようとしても気がつくとそれが心を覆っている。本当は忘れずに準備をしておくべきなのかもしれない。

 イブからカロナールに変えると、数日間は一日中熱が下がらなかった。気に入っていた早朝のシャワータイムはなくなったけれど、日を追うごとに熱が下がっていき、一週間も経つと発熱しなくなった。腹部の腫れも治療前と比べて小さくなっている。仰向けになって触ると、少し膨らんでいる程度になった。数か月ぶりに右側を下にして眠れるようになった。






 今日は彼と一緒に家を出て久しぶりに朝から仕事をした。外で夕食を済ませ、部屋に帰ってきたときの体温は三十六度八分だった。私はあれから飲酒を止めているけれど、彼はたまにお風呂の後に飲んでいる。今夜は私にディカフェを入れてくれてから冷やしてあったビールを取り出していた。テレビの前のソファに座ると、猫さんも載ってくる。

「前よりも部屋が狭く感じる? 俺大きいし」

「いくらおさむくんが大きいからって部屋は小さくならないよ」

 明るい笑顔の彼に答えて、熱いコーヒーに息を吹きかけた。

さとちゃんはここに住んでどれくらいになるんだっけ」

「十年になるのかな——最初は他のアパートに住んでたの。引っ越さないといけないってときに、この町から離れたくなくてここを借りたんだけど——」

「もう十年か——俺がフリーになって会社を立ち上げたのもその頃だよ」

「どうして引っ越したか、とか聞かないんだね」

「言いたくなさそうだったというか、なんだか聞いたら俺がダメージを受けるような気がして。でも気になるよ」

 彼の顔を曇らせたくはないけれど、聞いてもらったほうがいいのかもしれない。外語専門学校に通っていたときに知り合った彼と、一時期婚約していたことがある。アパレル販売会社に就職した彼の配属先は湘南だった。

「——私は働いても働かなくてもいいなんて言われて、軽いきもちでついてきたんだけど。仕事をそろそろ探さないと、と思いながら抑うつ状態になっていったの。それで上手くいかなくなって一年もしないうちに別れたんだ。別れるってなってから必死で仕事を探して。実家に帰ればいいって言われたんだけど、どうしても嫌で居座ってたの。そうしたら賃貸契約の費用と引越し代を出すから出ていってほしいってまで言われて。前の仕事を始めるまで一緒に居たんだけど、すごくつらかった」

「じゃあ……そのときの彼は今もこの町に住んでいるの?」

「……うん」

「俺、見かけたら何かしてしまうかも」

「その人の顔知らないでしょ。私忘れちゃったよ」

 彼が笑ってくれたから、笑顔を返すことができた。

「やっぱり俺の部屋に来ない? 難しいかな?」



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