第25話 剣の異変①

 体の不調は続いていて、予断を許さない状況だった。


 だが先日の大きな祈祷以来、霊力を必要とする仕事は途絶えている。

 もしかしたら、家の者が受注を調整しているのかもしれなかった。言葉でコンディションを伝えていなくとも、蛙婆女はそういった面では抜け目がない。


 学園生活は、たいして力は使わないし、気晴らしに丁度いい。

 今日も、放課後の定番となった図書室の一角で、公花の勉強を見てやっている。口には出さないが、これが一番の楽しみだ。


 今は、古文の教科書の単元『更級日記』を読み進めているところ。平安時代中頃に菅原孝標女によって書かれた回想録だ。


 古典なんてものは方言みたいなもので、似たような響きの言葉を覚えてしまえば、設問に答えるのは難しくもない。


 だが目の前のおとぼけは定型文なんてほとんど覚えていないだろうから、まずは辞書を引きながら、テキストの横の余白に現代語訳を書かせているところだ。


「どこまでいった? 見せてみろ」

「うん」


 公花から教科書を受け取り、進捗を確認する。


『――わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ』


 この文章の正しい訳は、「私の望むとおりにどうして(物語の内容を)覚えていて語ってくれようか」といったところだな。


 それに対し、公花が書いた答えは――。


『私の思うままに空にでっかいイカが……』


 ばんっ。


 思わず机に教科書を叩きつけてしまったが、そうせずにいられようか。


「おまえな……」

「?」


 その悪意のない目。きょとんとした顔をやめろ。


 なにをどう言ったらいいのか思考停止に陥ってしまい、ひたすらに腹の底から、深い深~いため息を吐き出した。


「どうしたの? 剣くん、疲れてるんじゃない?」

「疲れているのはおまえのせいだ、この脳筋生ハムソーセージが!」


 図書室で大声を出してしまった自分を許してほしい。


       *


 ――パンッ!


 晴天の下、小気味いい銃声が響いた。

 音とともに地面を蹴り出す。練習のときよりも最高のスタートを決めて、先頭に躍り出る公花。


 白線で定められたコースを、風をきって、走る、走る、走る!


 公花は勢いのまま白いゴールテープを切って、勝利の右手こぶしを掲げた。


「うぉぉぉーーー! 我がクラスが誇る神足のハム〇郎、安定の一位ーーーッ」


 自分のクラスの待機席から、くるみをはじめとする級友たちが歓声を送ってくれている。


 生徒たちの元気な掛け声に、軽快なBGM。

 今日のよき日、当学園は、体育祭の本番を迎えていた。


(はぁー、楽しいなっ)


 待ちに待ったスポーツの祭典。一年に一度の晴れ舞台に、公花のワクワクは止まらない。

 徒競走では活躍もできるし、頭も使わなくていい。気分は上々、絶好調。お天気までが味方して、気持ちがよくて最高だ。


(毎日、こんなだったらいいのになぁ)


 この後は、クラス対抗の大縄跳びや、学年全員で踊るダンスもあるし、お昼のお弁当タイムも待ち遠しい。


(くるみちゃんが出る障害物競争も楽しそうだなぁ。一緒に出たかったなー。別にひとり二種目までなんて決めなくてもいいのに)


 そんなことを考えながら、選手群とともにグラウンドの中央から引き上げて、退場門のそばを通過したとき――。


 ぐらり、と柱が揺らいだ気がした。


(えっ……?)


 柱は静かに傾き、スローモーションのようにこちらに近づいてくる。


(倒れてくる……!?)


 簡素な作りだが、頑丈な鉄の棒だ。ぶつかったらどれくらいの衝撃があるのか、想像もつかない。


 教師らは、まだ誰も異変に気づいてはいない。気づいていても、助けに入るにはとても間に合わないだろう。

 自力で避けなければ、そう思うのに、縫いつけられたように体が動かない。


「公花!」


 離れたところから、自分の名を呼ぶ声がした。

 けれどもそちらを向いている余裕はないのだ。迫ってくる鉄棒から目を逸らせない。


 もうダメだ――目の前に影が落ちた瞬間、倒れ込む軌道が不自然に曲がった気がした。


 柱は公花を避けるように動き、体の横すれすれを通って、地面をえぐった。

 ガランガラン……と重い響きが周囲にこだまする。


「うわぁー! 柱が倒れたぞ!」

「おい、怪我はないか!?」

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