溶けゆく前に

真野すみれ

第1話

『みなさん、電池式ラジオを用意しましょう。本日以降、テレビ放送は極度の気温上昇と海面上昇に伴う電気回線の全面故障により中止とします。本紙も配達困難のため今週をもちまして廃号となります』


おそらく今世最終号の新聞は、そんな広告を一面に広げて締め括った。いよいよだな、と誰もが感じた。報復を受ける時が来たのだろう。海が近いこの町では、すでに1年ほど前から早めの避難を促すポスターがあちこちに貼られるようになっていた。避難するとて、もう逃げ場はないのに。


「おじーちゃーーん!うちも遠く行くことにしたよぅ!一緒の船、乗っていこーよぅ」

「コーちゃんったら、やめなさい!おじいさんはきっと眠っているのよ。ほら早く、荷物はまとめたの?」

ぶおん、というモーター音は低く、近所付き合いが長かった最後のひと家族が旅立つのが聞こえた。


もう10月だというのに、窓の向こうには陽炎がゆらめく。水没を迎えようとするこの家は、ついにしんと静まり返った。


老人は夢を見ていた。もう彼にはないみずみずしさが蘇るような、しかし彼の記憶とは全く重ならない、不思議な感覚に意識を沈み込ませていた。

 老人は夢の中で、青年になっているらしかった。青年は静かなカフェで、随分前に飲み切ってしまったアイスティーの氷が溶けていくのを、ゆっくり眺めている。体はソファにすっぽりと収まり、ローテーブルと足の隙間がほとんどない窮屈さも気にはならない。

「ねぇ、人は死んだら、どこへ行くと思う?」

前方に座る彼女が言った。誰なのかはよく思い出せなかったが、そこにいてくれるだけでなんだか心地よかった。

「空の方へ、溶けていくんじゃないか」

氷から目を離さずに答える。

「跡形もなく?」

何が言いたいのだろう。少ししつこいな、と思った。

「そんなことは誰にもわからないよ」

一番上の氷は、もうあと一息で全て水になってしまいそうだ。

「じゃあ明日世界が終わるとしたら何ができるかしら」

彼女の声が震わせた空気が伝わったのか、グラスの中に溜まった水が小さく揺れた。

「何もしない。意味がないからな」

ピン、と澄んだ音とともに、小さくなりすぎたかけらが水の中に落ちた。思わず持ち上げて溜まった水に目を凝らす。しんとしてしまった水面をもぐり、横から水中に目を凝らして、微かに残る跡を探す。きっとどこかにあるはずだ。確かに君はいたのだから。それなのに君はどこへ行ったのか、と。


そうだ、僕は君を。


ふと、グラス越しに彼女の唇が動くのが、はっきりと見えた。

「私だったらね、曲を作るわ」

顔を上げると、彼女の瞳がきらりと光を反射していた。やわらかい声が続く。

「覚えてる?高校の頃、2人きりになっちゃった音楽室で、毎日いくらでも曲合わせしてたよね」

あれから何年経ったかな……なんて言いながら、彼女が指折り数えているのをぼんやり眺める。


高校二年の春、彼女と彼はバンド仲間だった。とはいえ、バンドを組んだはいいものの、中途半端に進学校を名乗る彼らの高校では練習時間を確保するのが難しかった。結局他のメンバーは勉強のためと言ってどんどん参加率が悪くなって、二人ぼっちの日が増えたのだ。

あの日もそうだった。


–––ピロン

『ごめんなさい、課題が終わらなくて今日は行けません。』


「また1人連絡きた。……今日も2人だけ、だ。しょうがねぇな。帰る、か?」

前髪のむこうでどんな表情をしているのか、よく見ようと顔を近づける。すると彼女はパッと顔を上げて、いつものように言う。

「いいじゃん、2人でも!君が言葉、私が音。そして私たちには、想いがある。ほら完ペキ!」

普段は鈍感な彼も、すぐに無理をさせているんだと悟った。こんな薄暗い音楽室じゃなくて、ベースにドラムにキーボードも入れて、真夏のステージでレモンスカッシュの泡みたいに弾ける姿が、彼女には一番似合っているのに。それでもどうしても心から笑ってほしくて、だから楽器が弾けない僕は、せめてもの償いにひたすら詩を書こうと決めたんだ。


でも言葉じゃ、全部ダメだったじゃないか。救えなかった。君一人、最期まで。


数えるのを諦めた彼女は、急にすっと顔をあげて、まっすぐに彼の目を見据えた。

「私ね、最初はもちろん、みんなでバンド組んで、盛り上がりたいって思ってた。でも君と一緒に歌っているうちに、目の前の言葉と向き合う楽しさを知ったの。どんな音を、命を吹き込もうかなってワクワクしてた。いつの間にか、今日も二人きりだったらいいな、なんて、リーダーとしてはダメだけどさ?そう思うようになってた」

目頭に小さな粒がきらりと反射する。

「……でも君は苦しそうだった。何かに焦っているみたいで、その姿を見ているのが耐えられなかった。だから自信を取り戻してほしくて、あの日浜辺に呼んだの。公演前の最後に2人でのんびり歌えたらなって。水はいろんな音をくれるでしょ。私の音だけじゃ物足りないだろうけど、海とならいい演奏になるかな、なんてね。……なのに、ごめん」

突然に大きな波が押し寄せて、胸いっぱいにあふれた。

それは、なんとかバンドとして完成させて公演を控えた前日だ。「海見て、アイス食べようよ」と君は僕を浜辺に呼びつけた。そうだ、それなのにあの日から、君は男一人砂浜に置き去りにして二度とやって来なかった。 

翌日やけに騒がしい教室で、大型トラックとの接触事故で一人の女子高生の死者が出たことを、知った。


下を向いた彼に、彼女は一回ローテーブルを指先で叩いてから言った。

「でもこれだけは言わせてほしいの。君と過ごしたあの夏は、最高の青春だった。私はね、君の言葉にいつも助けられてたの。寂しい時、悲しい時、いつも君と作った曲が聞こえる気がして、そしたら心が、その、ぽって温かくなって、ええと、」

はっとして顔を上げる。

僕は君を助けようとしているつもりだったのに、結局君こそが僕を助けてくれようとしていた。今更なにも変えられないのになんなんだ、何十年越しにすれ違いが判明してんだよ。

「ふ、ふははっ」

久しぶりの自分の笑い声に、ちょっと掠れているな、と彼は思う。

「も、もう、こんなに緊張して告白してるのに、なんで笑うの!」

耳まで赤くなった彼女の顔をまじまじ見つめて、どうしようもない嬉しさと、胸が引き絞られるような心地に、ぎゅっと唇を噛んだ。

「つ、つまり私が言いたいことはね。」

彼女がすーっと息を吸い込む。

「世界が終わってもそこに誰もいないとは限らない。もし誰かがいたら、何かが残っていた方が寂しくないでしょう。だからその時に、君には歌詞を書いていてほしい。言葉は記憶に刻まれて、どんなデータよりも長く生きられる。きっと君の言葉は、いつだってどこかで助けを求める誰かが必要としていると思うから。それに、私は好きなの」

そう言い切ってから慌てたように「……君の言葉が」と小さな声で付け加える。そんな彼女に、そんなわけないとは、嫌だとは、どうにも言えなかった。胸の中で、何かが小さく蠢き始めるのを感じた。伸ばしかけた手を止め、ぎゅっと握りしめる。そうだ、君とまた、と意識がぼんやりする中で彼はたしかに彼女を想った。


目を覚ませば空はもう白み始めている。世界が今日崩れ落ちることを、老人は、彼は知っていた。

環境破壊が進んだ地球は、人間たちを今にも手放そうとしている。培ってきた膨大なデータはあっけなく水に呑まれて、結局残ったのは、習慣と知識、物語、そして仲間くらいだった。やっぱり彼女の言うことは正しかったのか、と思わずにやけてしまう。動くのがあんまりに久しぶりで凝り固まっている表情筋に、何だかまた笑えてきた。

もう誰にも時間は残されていない。

それでも、と彼は思った。まだ、できることがある。

彼は脇に置いていた長いロープをゴミ袋に突っ込んで、すっかり埃をかぶっていた写真立てに目をうつした。供えてあったノートを手に取ると、ペンを走らせる。

爽やかな波の音が、息を吹き込まれたみたいに一定のリズムを持って彼を包んだ。しなやかなメロディは、久しぶりの涼しさを呼ぶ。かつて彼女が浜辺でコロコロと笑ったのを思い出す。太陽は窓をやぶり光を散らす。ベタつく暑さとは全く違う、かつて繋いだ手の温もりが、どこかから蘇る。気づけば床はすっかり水浸しだった。激しさを増す水流の音にさえも反応して、また筆は進んだ。

乾き切っていたはずの喉は、声を出したがる。言葉が溢れ出して止まらない感覚を久しぶりに味わった喜びに、彼は自分自身が希望を見つけたことに気づくこともない。


そのとき、どこからか、ぶおん、と響く音がした。

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溶けゆく前に 真野すみれ @maotama0330

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