第16話 故郷の池
クロスジたちが行ってしまうと、あれほどすばらしいと思っていたトンボの楽園が急に色あせて見えて来た。
何匹かのトンボが生まれた池に帰ると挨拶に来たのを機に、サキグロは王としての最後の決定を行った。
「オレは、この楽園を解散しようと思う」
ハゴロモのほか、各地の池や田んぼの主だったものたちが集まっていた。
「そうだな、もう故郷へ向かったものもいる」
「ああ。それぞれ同郷のもの同士まとまって移動してくれ。無事に故郷へな」
「わかった。あんたが王様を引き受けてくれて良かった。ありがとう」
「いい王様だったぜ」
「あんたがいたから素晴らしい楽園になったんだ」
みな口々にサキグロへの礼を述べた。
それがそのまま別れの挨拶となった。
サキグロとハゴロモは、次々と旅立つトンボたちを見送った。
明るい日差しが降り注いでいた。
高く、抜けるような空がどこまでも広がっていた。
空気は澄み渡り、遠い山肌まではっきりと見通せた。
森の手前にはススキが広がり、野を渡る風にさわさわと揺れていた。
「誰もいなくなっちゃったね」
ここは素晴らしいトンボの楽園。
が、トンボだけがいなかった。
「ねえ、初めて来た日のこと覚えてる?」
「ああ」
ハゴロモはふわりと舞い上がると草原を横切る小道の方へと飛んで行った。
「ここにコスモスが咲いてた」
「そうだった」
コスモスはもうない。
その場所に、ハゴロモはそっと小石を積んだ。
「なんだい、それは?」
「記念碑よ、トンボの楽園の」
「・・・」
「碑文は、『楽園の王サキグロ、ここを統治す』ね」
「いや、『指導者クロモン、ここに楽園を拓く』だ」
遠い虫の音が、風に乗って聞こえて来た。
「・・・あたしたちも行きましょう?」
「ああ。あやめ池へ帰ろう」
二匹は楽園をあとにした。
故郷の山が見えて来た。
あの山の向こうがあやめの谷戸だ。
「もうすぐよ!」
サキグロとハゴロモは山肌をかすめるように飛んで行った。
谷戸の景色が次々と頭に浮かんだ。
ツバメはまだいるだろうか?
カメには何から話してあげよう?
二匹は競い合うように、懐かしい里山の林を飛び越えた。
「あれ!?」
が、トンボたちはあやめの谷戸の上をふわふわと漂った。
見たこともない景色が広がっていた。
一面に広がり、風に揺れていた緑の稲は、ひとつも残っていなかった。
空を写して輝いていた田んぼは、切り株を残した土が縦横にひび割れていた。
里山に続く土手を埋め尽くしていた夏草も今はなく、赤土の地肌をさらしていた。
「なんだよ、これは!?」
サキグロは叫んだ。
「あやめ池は?」
「行ってみよう!」
彼らはそこで信じられないものを見た。
あれほどきれいに咲き誇っていたあやめが、茶色く枯れて折り重なって倒れていた。
「どうしてこんなことに・・・」
そこは、サキグロたちが知るあやめ池とは似ても似つかぬ何処かだった。
「なんてこった・・・」
サキグロとハゴロモは農道の柵で寄り添ったまま、谷戸の景色を呆然と眺めていた。
新緑に輝く美しい谷戸だったのに、見渡す限り茶色く見えた。
ツバメたちはもういない。
大きなカメも見つけられなかった。
稲むらを燃す白い煙が、ゆったりとたなびいていた。
それからしばらくして、ハゴロモはあやめ池に卵を産んだ。
「ねえ、あたしたちはどうしてここにいるんだと思う?」
「そりゃ、両親が産んでくれたからだろう」
「両親て、どこにいるの?」
「うーん」
「ね? 誰も自分の両親に会ったことがないのよ」
「・・・」
『冬には虫を見たことないなぁ』
サキグロは牛の言葉を噛み締めていた。
あれは、冬が来たらオレたち虫は死んでしまうっていう意味なのか?
確かに親の記憶はなかった。
オレの両親は、去年の秋にオレを生んで、冬の間に死んだということなのか?
ってことは、オレもハゴロモも・・・
「でもね、あたしたちの両親は確かに存在した。だってあたしたちがいるんだもん。それだけじゃないわ、両親の両親も、そのまた両親も、ずっとずっと昔から、あたしたちの先祖は常に存在し続けていたんだわ。巨大な植物が生い茂っていた時も、恐竜たちがのし歩いていた時も、雪が舞い、氷に閉ざされていた時代も。あたしたちの先祖はそれぞれの時代を必死に生き抜き、子どもたちを残してくれた。だからこそ、今ここにあたしたちがいるのよ」
ハゴロモはあやめ池をじっと見つめた。
「あの子たちには幸せになって欲しい。回り道せず、一直線に幸せになって欲しい。あれ? でも、一直線に目指すべき幸せってなんだろう?」
ハゴロモはしばらく考えていた。
「いいえ、違うわね。目指すべきものに向かう途中に、小さな成功や失敗の中に、その時々の幸せがあるんだわ。だってそうじゃなきゃ、あたしたちの一生は幸せに向かうための不幸な日々の積み重ねになってしまうもの」
ハゴロモはもう、あやめ池から離れようとはしなかった。
冷たい風が吹き抜けていた。
サキグロはあの山の頂に立っていた。
「オレたちは、ここから世界の果てを目指したんだ・・・」
山の向こうにはあの日と同じように平野が広がっていた。
サキグロは、遠い山並みに目を凝らした。
クロスジはカガヤキが生まれた田んぼへ行き着いただろうか。
その田んぼには、まだ水があるのだろうか。
クロモンは自分に出来る何かを見つけ出しただろうか。
ホシゾラはクロモンと幸せになれたのだろうか。
永遠に知ることの出来ない疑問が、次々と浮かんでは消えて行った。
そしてまた、サキグロの思考は振り出しに戻ってしまう。
「今も、この空のどこかに虹が出ているのだろうか・・・?」
サキグロは思う。
ほかのトンボたちがびっくりするような大冒険をした。
でも、世界の果てには行けなかった。
虹の伝説を知り、虹のふもとを探し求めた。
でも、虹のふもとは見つけられなかった。
トンボの楽園で王と呼ばれた。
でもそれは、クロモンとその仲間たちが築いた楽園だった・・・
漆黒の帝王の黒い大きな瞳がよみがえった。
『お前にしか出来ないことをやり遂げるんだ』
あの日、漆黒の帝王は聳え立つ壁に見えた。
なぜか?
今ならわかる。
やり遂げたものだけが放つオーラが、何もわからぬ若造にさえ、光り輝く無言の圧力としてビシビシ届いていたからだ。
あれからいろんなことがあった。
じきに冬が来て、オレは間もなく死ぬのだろう。
それなのに・・・
「オレはまだ、何もやり遂げていないッ!」
血を吐くようにサキグロは叫んだ。
吹き抜ける風に、サキグロの叫びはかき消された。
枝先に残る真っ赤な柿の実が、目に痛いほど鮮やかだった。
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