038:誰が生きている002

 めまいってどうして起きるのか、よく知らなかった。


 内耳が原因の場合が多いらしい。脳の異常とかも出てきて、私は怖くなってきた。


 琴宝ことほの様子には注意しているけれど、静かに呼吸しながら目を閉じている。眠っている……と思う。琴宝は普段なら二段ベッドの上で、私は琴宝の寝息すら聞いた事がない。


 たまに恐る恐る額に手を当ててみても、熱が出ているわけではない。体温は低いままで、汗もかかない。


 寝不足とかなのか、それくらいならいいけど……部屋が静か過ぎるのは、きっと染井寮そめいりょうが外の音を入れない造りになっているからだろう。廊下の物音すら聞こえない。


 あんまり静かだから、不安になるのかも知れない。けれど、琴宝が眠っている中で騒がしくするわけにもいかない。


『脈 取り方』で検索して正しい脈の測り方を調べても、不安は消えてくれない。


 春休み、入寮日からのつきあいだけど、琴宝が寝込んだ事なんて一度もない。物静かなタイプではあるけれど、いつでも元気に静かなのが琴宝だ。


 妙に心細くて、寂しくて、自分が風邪で寝込んでいる時みたいな気持ちになるのは、どうしてだろう。


 琴宝の脈が正常なのか、素人なりに計ろうとしても、逆に私の鼓動の方が早く感じる。


 どうしてこんなに不安定な気持ちになるのか、窓の外を見ても、憎々しい晴れが見えるだけだった。


 太陽の光が私の不安ごと琴宝のつらさを消し去ってくれればいいのに。


 けど、上の段の影になっている琴宝の顔に光が差さない。


 私は明るさを感じながら、一人も感じている。


 大きく切なくなるから、大切って呼ぶのかも知れない。


 音を立てないように気をつけて琴宝を見ても、そこに一つの彫刻が横たわっているみたいに見える。異変はない。胸の所の毛布が、緩やかに上下している――いや、止まった。


「ねえ」


 琴宝は、いつもより少し高い声で私に声をかけてきた。


 薄く目を開けて、目覚めたようだった。


「どうしたの?」


 私は琴宝の顔を覗き込んで、その声に答えた。


 その瞬間――琴宝は完全に目を開けた。


「命とは定められた物。けれどその定めをくじくというならば、あなたは既に神などではないのでしょう?」


 私は瞬きを二、三回。


 琴宝は何を言い出した?


 とても聞き取りやすい声は、一年ながらに映研で主演をつかむだけある。けれど、言っている事はまるで意味が分からない。


「絶える事のない痛みと苦しみが病ではなく、ただあなたの気紛れだとでも?」


 何か、そういう脚本? それを諳んじて私を驚かせようとしている?


 いや、いくら琴宝でもそれはしない。


 声は作れるかも知れないけれど、この違和感は作れない。


 


 そんな気がした。


 不意に、梟のように、琴宝は私を見た。


 大きく目を開いたその表情は、いつもの琴宝ではない。瞳に映る、私の戸惑った顔。


 。琴宝ならこの顔を見て笑う。なら、今明確に、琴宝に何かが起きている。


 でも、どうすれば――。


「神に挑んだとして、人間の儚い意思が花を手折るように折れてしまえば、その先はずっと暗闇の中にいるだけ」


 琴宝の声で、琴宝の中にいる誰かは明確な言葉を口にする。


 意味は、分からない。ただ、何か芝居がかった台詞は、私を惑わせる。


「映研の台本なら、つきあえないよ」


 私が答えを返すと、『彼女』は一度、瞬きした。


 琴宝の瞳が心配になるくらいに、瞬きが欠落していた。何か感じていた違和感は、多分これだ。


「話し相手になって頂戴」


 どこか高慢さを感じさせる調子で、けれど、断る事を許さない――まるで『なってくれるでしょう?』含意が、暗黙の合意があるような言いぶりだった。


 なるしかない。


 寮監先生を呼ぶ選択肢はあるけれど、その事が原因で琴宝に何か起きたら、私はずっと後悔する事になる。


 一人で何ができるか……ただ、この『誰か』を静めるしかない。


 黒い瞳に映りこむ、真剣な顔の私は、私自身に命じていた。


「……どんな話をしたいの?」


 まるで、悪魔と初めて話をした人間――変な喩えが頭の中に出てきた。


 一つ間違えば、とんでもない事になりかねない。


 仮にこの現象がクラスの中で起きていたら、私はきっと、誰か頼れる人に任せていた。


 けれど、二人きりの部屋の中で、誰よりも仲がいい友達に『それ』が起きてしまったら?


 ライトが照らしてくれない綱渡りで、琴宝を助けるしかない。


「………………そうね」


 琴宝の中に入り込んでいる『誰か』――とり憑かれている? 桜来ならあり得るけど、少なくとも私にそれをどうこうする手段はない。


 ただ、できる事は『それ』に琴宝を傷つけさせないようにする事だけだ。


 注意しながら、私は『誰か』の次の言葉を待った。


 琴宝がいつも仕掛けてくるからかいなら、どれだけマシか分からない。


「咲かぬ内に散っていった花々の事」


 こんなに心を搔き乱す、『今からあなたの前からいなくなります』別れを告げるような儚さを、琴宝の笑顔に浮かべないで欲しい。


 どうにかして、この人――恐らく、人だ――を琴宝から離さなければならない。


「聞くよ。しっかり話してね」


 私は、自分でも強がっているのが分かった。


 普段は意識しない表情筋が引きつって、妙な笑顔になった。きっと、琴宝が見たら大笑いする。


 笑ってくれたら、どんなにいいか分からない。


 私の目の前にいる『誰か』は、こくりと頷いただけだった。

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