Mの食卓~~The Mounsterous Dinner~~

笛座一

~Prologue~ある美食家の死

 こんなはずではなかったのに……


 住宅街からそう離れてないある一帯で、一人の若い男が、青ざめた顔で足元を見ていた。そこに倒れているのは……いや、のが正しいか……純白のブラウスを血で汚した、一人の女の遺体だ。額には痛々しい割れ目がパックリと開いており、そこからドクドクと血液が流れている。にも関わらず、彼女は微動だにしない。息があるかもと彼女の首筋に手を当てるが、あるべき脈拍は微動すらない。

 さっきまで動いていた人間が人形さながらに静止しているその様子は、まさしく『死』そのものだ。


 自分は殺人をしてしまった。夜道に一人、彼は頭を抱えた。


 男の名は市成いちなり則也のりや

 彼は二十歳の大学生だったが、バイトと学業の両立に失敗したことが原因で退学して以来、無職だった。実家からは退学がきっかけで仕送りを打ち切られたことに加えて要領の悪さ故に低賃金のバイトしか勤められないことで、自然と生活するための貯金が減ってきていた。明日の食事すら満足に食べれるか怪しい、そんな日々を送っていたのだ。


 だから、魔が差した。


 あるバイト帰りの日に、自分の目の前にスーツを着た男がいた。若干千鳥足で歩いている。おそらく飲み会の帰りなのだろう。その男が無防備に振り回しているバッグを見て、彼は思わず後ろからソレを引ったくりをしてしまった。足に自信があったわけじゃなかったが、何も考えず、ただがむしゃらに酔っ払いから逃げることだけ考えて走った。最初、後ろから男の怒鳴り声が聞こえていたが、ある程度距離を置いたらそれも聞こえなくなっていった。安全な場所までたどり着いた途端、疲れがどっと襲い掛かる。虫に息になりながらバッグを漁ると、中からは黒皮の財布が出てきた。チラっと財布の中を見れば、少なくとも3万円以上は入っているのが見えた。

 この成功体験が、市成を変えてしまった。金に困ったら盗めばいいのだ。最初の頃にあった罪悪感はとうに消えていた。そうやって泡銭を手に入れることを繰り返していた。


 今日もそうだ。そうやって、いつものようにひったくりをしようとした。いつものことだ、失敗するはずがないと思っていたのだ。

 その結果が、このザマだ。いつものように後ろからバッグを奪おうとしたところ、それに女は抵抗した……だけなら良かったのだが、身体のバランスを崩したかと思うと、その場で転倒したのだ。顔面をアスファルト製の路面に強打して、そのまま女は動かなくなった。微動だにしない彼女を見て、目の前の女が死んだことを……そして、自分が殺人をしてしまったことを悟った。

 市成は頭を抱えた。ひったくりと殺人とでは同じ犯罪でも罪の重さが全く違う。彼には中途半端な悪意と覚悟しかなかった。まさか、こんなに簡単に人が死ぬとは思っておらず、唯々ぼーっと立っていることしかできなかった。

 しかしだ。今更死体を隠そうにも、直ぐに隠せそうな場所はない。だが、この場に長居するのは、自分の行いを第三者に目撃される恐れがある。それは避けなければならない。今やれることは、ここからすぐに離れること、そして……


「あ……財布、財布!」


 戦利品である牛革製バッグの中身を確認する、それくらいしか思いつかなかった。浅はかだと分かっていても、彼は死者への手向けより自分の保身と利益行為を優先したのだ。自分は人を殺してしまったのだ、遅かれ早かれお尋ね者として追われる身になるだろう。それまでに、あるだけの金を集めないといけない。そういう焦りが彼の中にあった。

 スマートフォンとコスメグッズ、タオルの他に、目当てだった財布を見つけた。バッグと同じように、こちらも市成でも知っているくらいの知名度を誇るブランド品だ。一瞬だけ市成の口角は上がるが、中身を確認して直ぐに真顔になった。財布の中には数枚のカードがあるだけだったのだ。現金はほぼない。これではバッグと財布を質屋に売り払うしかないなと市成は思った。

 クレジットカードの他に病院の診察券が複数枚、そして、運転免許証だ。


 松美家まつみや琉泉るせん


 運転免許証に記載されている、いま足元で倒れている女の名前だ。珍しい名前だなと思ったが、それに加えてどこかで聞いた覚えがあった。ただ、今の彼が彼女の名をどこで聞いたかを思い出すことはなかった。

 免許証に写っている顔を見る。亜麻色の長髪で、日本人とは思えないほど目が大きく、鼻の形も整っている。誰がどうみても美人と評する容姿だ。年齢は32歳らしいことに彼は驚いた。自分とそう歳が変わらないだろうと思っていた若い見た目の女性が、本当は一回りも年上なのだから。もしかしたら職業はモデルなのかもしれない。

 だが、一番目を引いたのは、記載されている住所だった。


 ここから歩いて5分もかからないことに気が付くのにそう時間は掛からなかった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 記載された場所にあったのは、シンプルな見た目の、2階建ての一軒家だった。深夜帯とはいえ、灯りは全くついておらず、生活音等も聞こえない。どう見ても無人だ。家族や恋人のような、同棲している相手はいないらしい。

 バッグを漁って鍵を見つけると、鍵穴へと入れる。ガチャリという音が響いて思わず辺りを見回すが、深夜だからか人はいなかった。だが、それでも侵入する姿を見られるのは得策ではないはずだ。警察だってすぐには来ないだろうが、物色するのに時間はかけられない。さっさと逃走資金を集めなくてはならないのだ。音を立てないように彼は素早く玄関へと侵入した。

 灯りなど勿論用意などしていなかった。スイッチらしきものを手探りで見つけ、早速押す。


「なんだこりゃ……」


 一階部分、市成が最初に侵入した一室は、1LDKのやや広い部屋だった。彼の目を引いたのは、部屋面積の半数以上を占めるキッチンだ。部屋のほぼど真ん中にシンクやIHヒーターといった調理設備が備え付けられており、壁沿いには冷蔵庫の他に調理器具らしきものや調味料のようなものが陳列している。その棚を見たが、みたことのあるものもあれば、全く使い方の検討がつかないものまで様々だった。彼は自分の実家のキッチンを思い出したが、それでもこの家のものの半分程度の大きさしかなかったはずだ。奇妙なことに、キッチン周りの床がリビング側の床と経年劣化の具合が違う……正確に言えば、キッチン側の床だけ真新しい。つまり、キッチンの拡張をするためにわざわざリフォームをしたというわけだ。

 キッチンの知識に疎い彼は知らないが、所謂『アイランドキッチン』と呼ばれる形式のものだった。調理場を部屋の壁から独立した位置に置くことで、キッチンを開放した状態にできるのが特徴だ。動線の確保もしやすいため、調理中に必要なモノを手に取る際にも動きやすいのも利点である。

 そんなキッチンと対照的に、リビングは必要最低限のモノしか置いていなかった。リビングにはソファやテレビすらない。テーブルと椅子が1つあるだけだった。椅子の数を考えると、やはり一人暮らしなのだろう。リビングだけ見たら最小限生活主義者ミニマリストかと思うレベルだ。高級ブランド店で買ったようなバッグを手にし、パーティーで着るような小綺麗な服装で歩いていた女が、この様な恰もで暮らしている姿は想像できなかった。尤も、この景気が悪い時代に一軒家で暮らしている時点で、金はある方だろうが。

 そうだ。金だ。自分がこの家にやってきた理由を思い出した市成は、早速、金品や換金できそうなものを探した。しかし、どこを探せばいいのか……リビングは質素過ぎる。一見しても金目のものが置いてないのは分かる。雑貨を収納する棚すらないのだ。それに比べて、物で雑多しているのはキッチンであるが、置いてある調理機器は、そもそも売り物になるのか、彼には価値がわからないものばかりだった。

 長居するのは乗り気じゃないが……市成はリビングの出入口から、廊下へと顔を出す。廊下の奥にも部屋が、そして、その手前には階段がある。まだ漁るべき場所はあるのだ。2階に行けば、もしかしたらブランドグッズが保管されているかもしれないのだ。


 そう思っていたときだった。


「おやや? 誰かいらっしゃるのかしら?」


 玄関の方向から女性の呑気な声がした。

 しまった!この時間に来訪者が来ることを、市成は想定していなかった。焦った市成は廊下の奥に位置する部屋へと逃げるが、入り口に近づいてすぐに自分の過ちに気が付いた。この部屋は手洗い場だったのだ。部屋の奥には浴室もあったが、今はそんなことはどうでもよかった。リビングへと戻った彼は今度はキッチンに勝手口がないか探したが……なかった。どうやら、この家には勝手口が備え付けられていないらしい。

 モタモタとしているうちに、ガチャリと玄関が開けられた音がすると、来訪者が家に入ってきた。カチリという音がしたと同時に、暗闇に包まれていた玄関に明かりが点る。そして、光は来訪者をしっかりと照らした。


「……もしかして、貴方ですかぁ? わたくしのバックを盗んだのは」


 来訪者の顔を見て、市成は我が目を疑った。


 そこにいたのは、自分が殺してしまったはずの女性だった。


 名前は、松美家まつみや琉泉るせんというはずだ。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 松美家の着ている服は、彼女自身の血によって赤黒く汚れていた。だが、それにも関わらず目の前にいる琉泉の顔には、傷が全くついていない。だが、額から鼻、口元にかけて薄っすらと赤い線が見えることで、彼が見た光景そのものは幻想なんかじゃなかったことがわかる。

 彼は自分が彼女にした仕打ちを思い出した。それと同時に、が脳裏に映し出された。額に大きな傷が開き、そこからドクドクと血が流れ、動かなくなっていたはずの彼女。人形のように動かなくなり、鼓動が停止した松美家琉泉の死体……


「あ……あ、あんたは……」


 死んだはずだ。殺したはずだ。なのに、何故目の前にいる?

 本体ならばここにいるはずのない死者に対して、市成は狼狽える態度しかできなかった。どうしたらいい?そもそもどうして死者がのこのこと帰宅しているのだ?ここは穏便に帰ってもらうか?いや、そもそも、ここは彼女の家だ。

 脳内でパニックになってる市成を尻目に、琉泉は靴を室内履きへと履き替ると、市成の傍へとトコトコと歩いてくる。


「どうして貴方がここにいるのかは知りませんが、今なら『バッグの窃盗』だけで済ませますわ。勿論、警察には連絡はさせて頂きますが……」


 さあ、返してくださいませ?と琉泉は市成に詰め寄るが、彼は後ずさりをする。今彼の頭の中を埋め尽くしているのは、自分の殺した死者が自分に詰め寄っているという事実だった。


 彼は声を振り絞って叫ぶ。


「く……来るなあ!」

「落ち着いてくださいませ。確かに警察に捕まるのは怖いかもしれませんが、窃盗程度でしたらそこまで大きい罪には……」

「そういう話じゃない!」


 琉泉から距離を置こうとして、市成は足を滑らせる。姿勢を崩し、臀部を廊下に強打した。勿論激痛が走るが、今はそれよりも恐怖の方が勝っていた。


「あんたは……なんで生きてるんだ!」


 言った。言ってしまった。

 市成は自分が禁句を口に出してしまったことに気が付いた。それを口にしてしまったら、認めないといけないのだ。


 自分が松美家琉泉を殺したことを。


 そして、自分の目の前に死者がいることを。


「ああ……もしかして」


 市成のリアクションを見て、琉泉はようやく合点がいったという表情になる。


「わたくし、貴方に殺されてしまいました?」

「は……はい……」


 市成の告白を聞き、あら~困りましたわ……気が付きませんでしたわ……と琉泉は頬に片手を当てる。その困り顔はまるで『バッグを盗まれたこと』や『自宅に不法侵入されたこと』が『自分が殺されたこと』と同じことであるかのようだった。いや、この顔は最早『今日の晩御飯が決まらない』表情と同じだと言っても過言ではないだろう。

という状況よりも、琉泉の異様さに、市成は恐怖した。何故この女は自分が殺されたのにこんな呑気でいられるのか?それはまるで、彼女にとって『死』が日常茶飯事であるかのようだった。


「えーっと……」


 琉泉は、座り込んだ状態の市成と目の高さを合わせるように姿勢を屈める。


「わかりました。こうしましょう。貴方はわたくしを殺したことを上で、自首してください」

「……え?」

「わたくしとのことは忘れてもらわないと困まりますの。ほら、死んだ人間が生きかえったなんて風潮されるのはその……迷惑ですし」

「忘れろって……」


 忘れられるわけない。自分がはっきりを死んだのを確認した女が生き返っている。そんな強烈なことを、忘れるわけがない。


「む……無理だ!あんたはあのとき死んだ!俺が殺した!死んだのだって確認したんだぞ!なのに……なんで、生きてるんだよ!」

「ふむ……仕方ないですわ……」


 琉泉は市成へと自分の身体を近づける。そのときになって初めて、彼女から漂う香水の匂いに混じって血の匂いがすることに気が付いた。服に染み込んだ琉泉自身の血の匂いだ。

 ふと、その血の匂いを嗅いだときだ。市成は自分がめまいを起こしていることに気が付いた。まるでアルコールで酔ったかのようなふらつきに似ているが、彼は今日は素面のはずだった。

 何故、途端に……?

 その答えがでることは、なかった。


「貴方に命じます」


 琉泉の大きな瞳が丁度市成の視線と重なる。


「今日あったことはくださいませ?」


 その言葉を聞いた途端、市成の視界は完全に暗転した。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 窃盗、住居侵入容疑で身柄を拘束されたその男の証言は奇妙だった。


 バッグを盗まれた上に自宅に侵入されたとの通報の後、直ぐに松美家邸へとパトカーが向かった。現場についた彼らを迎えたのは、通報主の松美家琉泉と、玄関で横たわっている容疑者の男だった。

 これは明日以降面倒になるぞ……と彼らは思った、何故なら、松美家琉泉といえば、テレビ番組や情報サイトでも度々見かけるくらいには著名な『美食家』だからだ。著名人が盗難被害を受けた挙句、自宅にまで押しかけられたのだ。マスコミが挙って報道をするだろう。

 だが、容疑者が目を覚ましてからは、別の厄介な問題が発生した。男は記憶喪失になっていた。正確に言えば『バッグを盗んだこと』『住居へ侵入したこと』は認めたものの、『松美家琉泉と言う女性のことなど知らない』と言うのだ。松美家琉泉の顔を見せても、初めて見た、こんな女は知らない、と繰り返すだけだった。そもそも、何故この男が松美家邸で倒れていたのか、その理由もわからないままだった。


「わたくしは確かにバッグを盗みました。ですが、彼女が誰なのか、わからないんです。全く覚えていないんです」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 この広い世界には所謂と呼ばれる存在がいる。


 人の世界に紛れている、人ならざる超常的な存在達。

 あるものは社会の陰に、あるものは日向を堂々と生きている。


 松美家琉泉まつみやるせん


『不死』と『服従』の能力を持つこのの場合は、後者だ。


 彼女の正体を知るものはこの世にはいない。


 少なくとも、今のところは。

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