躊躇

躊躇

 講義室までの道を急いでいると頭上から缶が落ちてきた。危ないなと思い見上げる。中身は入っていなかったようだが、缶は大きな音を立てた。他に数人の学生が上を見ていた。距離があり、表情はわからないが誰かが上からこちらを眺めている様子が見えた。あの人が落としたのかもしれないと私は思い、缶を無視し立ち去ることにした。


 傘は先程まで私が座っていた席の下に置かれていた。それを拾い、人の少ない講義室を見渡した。四、五人の学生がいる。彼らは講義後に退出しなかったのだろう。聞き取れないが何かを話していた。一人は顔見知りだ。目が合った彼のする会釈に合わせ、私も顔を頷かせた。室内は明るくがらんとしていた。迷ったが、私は部屋の反対側の席に移り本を開いた。待ち合わせているのではなかったが、木佐と会うのはいつも十六時頃以降のことだったからそれまで時間を潰す必要があった。本を開いたが、眠気がありすぐに閉じた。

 短い時間に思えたが、室内には私一人になっていた。壁に掛かった時計を見ると針は十五時を指そうとしている。眠気を払おうと思い立ち上がった。明かりを落とし、木佐がいるはずの店に向かう。後で気がついたのだが私は傘を忘れた。


 木佐は俯いて本を読んでいた。私が挨拶すると顔を上げ、少し笑みを浮かべ、今日は早いですねと言った。一昨日、もっと遅い時間に私が現れたことを言っているのだろう。といっても私たちは、今日会うことを約束していたのではなかった。眠くて本を読んでいられなかったのだと私は言った。


 木佐は私が昨年から所属している大所帯の文芸サークルに、今年の二月から入会した。それまで面識はなかったが、私と同じ学部でもあった。私は彼と特別気が合うのでもなかったが、行動を共にすることが最近は多くなっていた。見たところ木佐は友人や知人が多い種類の人間であり、サークルにあまり顔を出さない私とは違って他のメンバーともよく馴染み、そこを居場所の一つとしてもいるようだった。だから私は、彼がなぜ私と一緒にいようとするのかを理解しかねていた。しかし私は最近、一人きりで過ごすことに少しの苦痛を感じることがあり、だから彼に誘われればそれに付き合った。私たちのすることは大抵は、講義を時折並んで受けること、キャンパス近くにある学生向けの喫茶店で時間を過ごすことだった。


 木佐は詩を書く。それは私にはできないことであり、私にとっての彼の魅力のおそらく源泉なのだろうと思う。人に好かれ、人を好いているように見える。木佐の書いた詩を見て、なぜこのように書こうと思ったのかと尋ねたことがある。どうしてだろうと木佐は言い、慎重に選ぶようにして続けた。

「何というか、僕にはうまく言えないことがたくさんあって、その一部をこうやって書いたらうまく言えるんじゃないかと思ったから」

「うまく言えないこと」

「うん」

 たとえば、と私は尋ねた。うーん、なんだろうと彼は小声で言う。

「だから、うまく言えないんですよ。たとえばって言えたら一番いいんだろうけど」

 ああ、そうか、なるほどと私は言うしかない。

 木佐の答えは筋が通っているようにも思えたが、何も言っていないようにも思えた。私はそう伝え、木佐はなぜか笑った。ともかく木佐は詩を書き、インターネット上に公開し、私はしばしば無粋な感想を述べた。


 木佐の前に座り、卓上の箱から煙草を一本を抜き取って火を点けた。私は煙草を買ったことは一度もないが、時々木佐のものを吸う。吐き出した煙を眺めた。

「何読んでるんですか」

 木佐は表紙を私に見せた。藤色の淡い絵、人々が並んで船のオールを漕ぐ様子が描かれている本だ。

「今度、ゼミの……来年度のゼミの希望を出すんですけど、その希望する先生が書いている本を読もうと思って」

 へえと私は言う。「面白い?」

「面白いですよ。変な先生だなあとも思います」

「変と言うと?」尋ねて一口吸った。木佐の煙草は卓上で細長い灰の塊になっている。

「うーん。冷淡に聞こえる言葉遣いで、でも内容はどちらかといえば暖かいことを言っている本ですね。僕もこんなふうにやってみたいなという気がしてきます」木佐の言うことはよくわからなかった。一口吸う。

「あと……ちょっと鉤括弧が多くて、所々くどいです」

 木佐は少し笑ったが、何が面白いのか私にはわからなかった。煙が妙に速く昇っているように感じた。そばに来た店員にコーヒーとパスタを注文する。

 その後木佐は私が食事を取る間、本の著者が後書きに書いていることを私に紹介した。やはりよくわからず適当な返事をしたが、本は後で買っておこうと思った。読めば得るものがあるのかもしれないと思った。実際、私はある意味で、木佐のような人物になりたいと思っているのかもしれない。それは詩を書くことでもあり、私の知らない本を読むことでもあった。私はある意味で、自分が今のようであることを恥じていた。それは友人がいないことでもあり、最近の退屈さのことでもあった。私は何か面白く、新しく、取り組むだけの価値のあることを求めているのだと思う。だがそれがどのようなものか私には見当も付かず、その上私はこのことを人に知られたくないと思っていた。私はある時、いつの間にかという仕方で価値ある人間になっていたかった。しかし何をすればよいのかが私にはわからずにいる。木佐は私とは真逆の人間だと思えた。私はおそらく木佐を羨んでおり、そしてそれを悟られないように振る舞おうとしていた。


 唐突に木佐が言った。「この後、今日の夜ってお暇ですか?」

 えーと言って私は予定を思い返した。

「何もないですけど……どうして?」

「知人がやっているお店で、勉強会みたいなことをやっているんですが、それが十九時からあって。行きませんか?」

「勉強会って、何の?」

 木佐はあまり答えにならない答えを返した。

「色々です。題材は大体その場で決まるので、今回が何になるかは行ってみないとわからないですが、この間は映画を見ました。タイトルは何だったかな……養蜂場、あの、蜂を飼う……養蜂場の話でした」

 へえ、と私は言った。私には経験のないことだった。集まって映画を見ることもなければ、「勉強会」をすることもない。

「そういうの、やったことないですが、知らない人が急に参加して大丈夫なの?」

「全然、大丈夫だと思います。初めての人でも歓迎してくれるはずです、飛び入り参加で」コーヒーが運ばれてきた。

 じゃあ行ってみます、緊張しますがと私は言った。以前なら考えられないような返事だ。どこの誰ともわからない人々のいる集まりに顔を出すのだから。だが、この変化は私にとってよいことであるように思えた。そしてこの変化自体、木佐によってもたらされたものであるように思えた。

 わずかな雨音が聞こえる気がした。窓から見える空は薄く灰色に曇っていたが、路面は先程と同じく、乾きかけたままであるように見えた。私は突然、傘を結局講義室に置いてきたことに気がついた。私はそのことを木佐に言い、再び傘を取りに戻ることにした。カップにはまだほとんど口を付けていなかったが、店員に事情を伝え、すぐ戻ると思うからそのままにしておくよう頼んだ。


 私は店を出た。曇り空が赤く染まっている。道すがら、私は先程落ち、大きな音を立てた缶がまだそこに転がっているのを見た。缶はひしゃげ、赤く照らされ、道の端に打ち捨てられていた。私は、この缶が今後雨に濡れ、汚れていくことを思った。私は缶を片付けようと思ったが、もしそうすればそれが今後誰の目にも止まらないのだと気がつき、それをやめた。一瞬、今夜、木佐に連れて行ってもらうことになった集まりで、自分が知らない人々と交流を持つことがひどく億劫に思えた。私は自分が不思議に思っていることに気がついた。なぜ、木佐は私をその集まりに誘うのだろう。それは私の想像の及ばないことだった。私は、たとえば映画を見、それに関して自分が何か有益な発言をできるとは思えなかったし、それが私の得意としないことであることもわかっていた。しかし、その感覚はすぐに薄れた。私はもう参加すると言ってしまったのだし、それに出ることが自分にとっておそらくよいことであることもわかっている。断る理由はないように思えた。


 傘は講義室になかった。今、雨は降っていないから、盗まれたのではなく、どこかに届け出られ、管理されているのだろうと思った。それを探しに行くことは面倒に思えた。今日はもうこの後、雨は降らないのではないかと思った。部屋にはやはり人がおらず、明かりも落とされていた。私は隅の席に腰掛けた。その暗さは心地よく、私は少し疲れを感じた。私は俯き目を閉じた。

 馴染めていないサークルの人々のことを思った。去年の春にサークルを訪ねた時、背の高い大柄な女性の先輩が、私を含む新入生数人に対応し、色々と説明をしてくれた。年に四回、メンバーの書いた作品を集めて会誌にすること、その内容は小説でも詩でもいいが、小説を書く人のほうが多いこと、ジャンルは何でもよいこと。部室があり、普段はいつでもそこに来てよいこと。会費は半年で四千円であり、基本的には全額が会誌作成の費用に充当されること。その時私はなぜか、その先輩が私のひどく嫌いな種類の人物であるように思えた。しかし、どうしてそう思えるのかは判然としなかった。外見や声、仕草、言葉の選び方が少しずつ私の気に障るようだった。私はそれを悟られないよう気を払わなくてはならなかった。

 初めのうち、私は彼らとうまくやっていこうとした。部室に顔を出し、会誌のバックナンバーを読んだ。しかし、先輩たちが書いた作品には面白いと思えるものが一つもなかった。私は落胆し、それらを褒め合うサークルの空気が次第に嫌になった。私のそうした態度が伝わってしまうのか、私は自分があまりこの場に歓迎されていないことを感じるようになった。実際、部室を訪れても、私と言葉を交わす者は少なかった。私は部室から遠のくようになった。それでも私は半年に一度の会費を払い、作品を提出することは一度もなかったが、会誌を受け取っていた。

 新入生に渡せるよう三月に作られた号に、木佐の詩があった。詩を書くメンバーは少なく、その号には木佐の一編だけだった。私がその冊子を受け取り、会費を払う時、部室に木佐がいた。私は冊子を渡してくれた会計担当の者に、詩があるのは珍しいですねと言い、彼女は私に、それが彼のものであることを教えた。滅多にないことだったが、その時私は詩を褒め、木佐は私に礼を言った。それが最初の会話だった。私は自分が、人の書いたものを褒めることができるとは知らず、その時そのことに少し驚き、それを隠そうとした。私はその時、初めてのことだったが、誰か自分自身とは異なる人物を演じているかのようだった。それは奇妙な感覚だったが、私はその時それを気に入った。


 電話がかかってきた。木佐からだった。どこにいますかと木佐は言った。

「少し疲れたので、講義室で休んでます。すみません」

「傘、ありました?」

 それが、なかったんですと私は伝えた。木佐はコーヒーが冷めていることを言った。私はふと、もう少しの間、一人でいたいと思った。私は木佐に、すぐ戻るつもりでいたのだが、傘が遺失物として届け出られていないかをこれから確認しようと思うと伝えた。しかし、私は傘を探す気はなかった。十八時半頃に駅の東口前でと約束し、電話を切った。キャンパスを少し歩こうと思い、外に出ると、曇天は青黒くなっていた。

 私はまた、木佐がなぜ私を誘うのかを考えたが、やはりそれを想像することができなかった。しかし、木佐に付いて行ってみようとは思った。私は同じことを何度も考えていた。私にとって今日は、他に例のない、特殊な日になるのだろうと思った。それは何かを始める契機だったと今後回顧されるようになる日かもしれないと思った。私はそれを待ち望んだ。私は早くも緊張を感じ、靴底を道に擦らせながら歩いた。私はまた、缶の落ちてきた場所にいた。缶は先程のままそこにあった。私はそれを見、道の中央に向けて弱い力でそれを蹴った。缶は軽い音を立て、転がった。私は、明日ここを歩く人々の注目がこの缶に向くことを望んだ。

 学内にある書店に足を向けた。フロアのおよそ半分には資格や検定の本が置かれ、もう半分には授業で指定される教科書が置かれ、隅に小説と漫画が少しだけ置かれている。木佐が読んでいた本を探したが、それは置かれていないようだった。私は本棚を少しずつ眺め、すぐに店を出た。本を選ぶ気分ではなかった。

 駅に着くと木佐はすでにいた。傘は見つからなかったと私は言った。そうですか、まあ行きましょうと木佐は言った。


 私は歩いている。先程から木佐は無言であり、私も無言だった。ぽつりぽつりと雨が降り始めた。私たちはどちらも傘を持っていなかった。細かな雨が路面を濡らし、私たちの髪を濡らした。木佐は私を、私の知らない場所へ案内しようとしている。私はその後に従って歩き、しかし、突然、本当に最後まで付いて行くべきかどうかがわからなくなった。その強い躊躇は唐突で奇妙なものとも思えたが、やはり私にとって自然なものだとも思えた。思えば私は、以前から木佐を理解しかね、木佐の言うことを真に受けてよいのかどうかがわからずにいたからである。私の躊躇は次第に大きくなった。

 私たちは六車線の通りに出た。歩行者用の信号機が赤く点っており、私たちは髪を濡らしながらそれが変わるのを待った。「もうその辺りです。渡って次の角を曲がれば着きます」と木佐が言った。

 私は迷い、信号機の色は青に変わった。私は足を踏み出さなかった。木佐はしばらくそれに気がつかずに歩いたが、横断歩道の半ば程で私を振り返り、こちらに引き返した。「どうしたんですか」

 あの、と私は言う。

「やっぱり今日はやめておくことにします」

 え、と木佐は驚いたような声を出し、どうしてですかと私に尋ねた。本当に驚いているようにも、そうではないようにも思える声音だった。私はまともな答えを用意していなかった。

「ちょっと、雨も嫌だし、この後強くなりそうですし。帰りたいんです」

 木佐は無言で私を見た。青色が瞬き、赤色が点った。雨が私たちの髪を濡らした。再び青色が点るまで、木佐は無言であり、私も無言だった。

 木佐は道を渡った。そうして私の方へ体を向け、私を見、私が後を追って道を渡るのを待っているようだった。道を挟み、私たちは互いを見た。雨が私たちの髪を濡らした。青色が再び点滅し、赤色が点った。木佐は素っ気なく背を向け、歩いて行った。私は踵を返した。私たちの距離は次第に離れ、中間に赤い光が点っている。

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