第9話

 オフィスに戻れたのは三時近くだった。課長は外出で今日は戻らないという。

「報告は明日だな」

 荒川は、何事もなかったかのように出る前と同じ姿勢でデスクに向かう。

 ミサちゃんのたっくん話は一時間半に及んだ。まるで独演会だった。途中で二人は何度も席を立とうとしたが、そのたびに引き留められた。

 青森の貧しい農家から東京に出てきているたっくんは、病気の祖母の入院費用をかせぐために新聞配達のアルバイトをし、苦労して大学を出てホストになったのだという。

 小学校のときに母親に死に別れ、継母にいじめられて育ったというのは、どこかで聞いた話にそっくりだが、うすら寒いことにミサちゃんはまったく気づいていない。

「すぐにあとの二人に連絡をとろう」原田は荒川に言った。「ミサちゃんは子どもたちに知らせる気なんてないぞ。握りつぶそうとしている」

 荒川がキーボードを打つ手を止めずに答えた。

「ぼくたちは一週間待つと約束した」

「そんなひまはないね」

「具体的に何が問題だと言うんだ」

「聞いてたろうが。ミサちゃんは女に戻りたがってる。たっくんに騙されているのにも気づかずにな」

「何故騙されているとわかる」

 原田は眼を丸くした。

「あの話を信じるのかよ」

「嘘だという証拠はない」

「――おれはおまえのことが信じられなくなりそうだ」

「それは何故だ」

「説明省略。どっちにしたって同じことだろうが。大好きなたっくんから『一億円くらい欲しいなあ』なんて言われたら、ミサちゃんは死に物狂いでそれに応えようとするぞ」

「君が言っているのは、彼女が子どもたちの同意書を偽造する可能性があるということか」

「その程度で済めばラッキーってことだ」

 荒川はここで手を止めた。

「同意書なしで彼女が全額を受け取れるのは、子供たちが死亡または失踪した場合くらいしか考えられない。母親が自分の子どもたちに危害を加えるというのか」

「実の親子じゃない。それに母親じゃないって。女だ」

「論理的な意見とは言えない。さっきはやや興奮状態にあったようだが、彼女だって冷静になって考えれば、誰かが代表して受け取り、その後で分けるのがもっともスムーズで合理的な解決方法だとわかるはずだ」

「おれの見立ては正反対だ」

「さらに君は一つ重要な事実を見落としている。彼女がかつて水商売をしていたということだ。今回のような状況においては、むしろ客を手玉に取る側にいたと考えられる。それなのに今はホストにだまされているというのか」

「そうだよ」

「非論理的だと思わないか」

「思わないね。女だからな」

 ま、男もだけどな、と原田が言うと、荒川はもう一度、論理的ではないとつぶやいた。

 そのとき、原田は床に自分あての電話メモを見つけた。留守中に置かれたものがデスクから落ちてしまったらしい。拾い上げてみると、原田か荒川にあてた電話だった。

 ――アオキケンゴさまからお電話がありました。折り返しお電話をお願いします――

 取り次ぎはまたしても笹口佳奈子だ。あの女が絡むと面倒が起きる。おおかた妻が連絡してくるかも知れないから保険金のことは黙っておけという伝言か何かだろう。

 ――遅えよ――

 いや、女房の嗅覚が一枚上手だったということか。

 どうしたんだと聞く荒川にメモを見せると、ためらいもなく受話器を取り上げたので、原田はあわてて制した。

「何故止める」

「電話して何て言うんだ。朝から何か進展したか。今かけたってグチの繰り返しを聞かされるだけだ。ミサちゃんもだいぶイッちゃってるが、旦那だっていい勝負だぞ」

「顧客からの電話を無視しろというのか」

「父親は部外者だ」

「別の用件かもしれない」

「馬鹿な。万一そうだとしても、一億の話にならないわけがない。とにかく待てって。おれたちがいつ外出から戻ってきたかなんて、向こうにはわかりゃしないんだから」

 荒川は少し考えた。

「電話をするなら事態が進展してからのほうがいいというのは、君の言う通りだな。ではもう少し待とう」

 へえ。あの堅物が折れやがった。おれもなかなかやるじゃないか。

「すぐに子どもたちに連絡するぞ」

「さっきも言ったが、母親に約束した間は待つべきじゃないか」

「ミサちゃんの様子を思い出せ。素直に子どもたちに話をすると思うか。あっちが約束を守るんだったら、こっちも守ってやりゃいいけどさ」

 荒川は少し考えて、

「どちらかというと否定的にならざるを得ないな」

「だろう。ミサちゃんは、何か細工をするための時間稼ぎをしようとしているだけだ。後になって子どもたちから会社に、何で早く知らせてくれなかったんだって苦情がきたらどうする。おかあちゃんにばっかり親切にするのは不公平だろう」

「たしかに現時点では、三人の受取人候補のうち一人だけが状況を強く認識している可能性が大きい。今のところ三人の権利の可能性が平等であることを考えれば、著しく不公平というわけではないが、まったく問題がないとも言えないな。わかった。先に他の受取人候補に連絡をとろう」

 原田は聞いていて疲れた。――やっぱり面倒くせえ、こいつ。

「子どもたちはまともだといいがな」


 その夜、自宅マンション近くのショットバーに立ち寄った。バーテンの寡黙さと、かける音楽の趣味が気に入っている。酒屋直営の店だけあって旨い酒が安い。

 カウンターでウィスキーを飲んでいると、背後のテーブル席の若いカップルが同窓会の話をしていた。それでふと思い出した。三年くらい前に開かれた高校の同窓会で、中学の教師をやっているやつと殴りあいになりかけたことがある。

「人生をなめるな」

 そいつは涙声で原田に突っかかってきた。元委員長が間に入り、あやういところで事なきを得たが、場はしばし騒然となった。

 聞けばそいつは両親が入院し、担任しているクラスから自殺未遂が出、家庭では奥さんとむずかしいことになっているという。クラス会はそいつにとって、本当に久しぶりの息抜きの場だったのだ。教師の給料じゃな、と誰かがつぶやいていた。

 あのとき、原田は外資系の証券会社にいた。二十代の終わり頃。仕事は順調だった。自分ではまったく覚えていないが、何か尊大なことを言ったのだろう。それが気に障ったのか。気まずくなった会場から、原田は一人逃げるように引きあげた。

 ――別に馬鹿にしたわけじゃない――

 知らなかったんだ。仕事の場ではないので少しだけ油断した。他人の心理に鈍感で営業マンが務まるものか。そんなこともわからないのか。なのに、その場の全員の視線が原田を非難していた。

 ――チャラチャラしたやつが、懸命に生きている善人の不幸を嗤うな――

 帰りの電車の中で何度も思い返し、顔から火が出た。舌打ちをし、周囲の乗客たちから奇異な目で見られて、さらに感情のやり場をなくした。席を蹴ってきたことが自分の非を認めたようで悔しかった。かといって、今さら引き返すこともできなかった。あいつら。何もわかっていないくせに。やつが不幸なのはおれのせいじゃない。

 ――同窓会なんて二度と行くものか――

 思えばむかしからそうだった。原田幹夫はお調子者で、他人の痛みがわからないやつ。子どもの頃から周囲にはそういう目で見られてきた。決してそんなつもりはなかったのに。

 きっかけは小学校四年生か五年生のときだ。授業中にはしゃぎすぎて、つい口が過ぎてしまった。たった一度、どんなことを言ったのかさえ覚えていない。それを聞いた女子の誰かが泣き出した。クラスじゅうが原田を糾弾した。

 そのときから、原田は無神経でおちゃらけなやつだというレッテルを貼られてしまったのだ。

 どう考えても自分はそんなタイプではない。むしろ内向的なほうだろう。大勢より一人でいるほうがずいぶんと気が楽だった。おどけているように見えたとすれば、他人の顔色が気になっていたからだ。周囲の誰かが不機嫌そうにしていると、自分のせいに思えてしかたがなかったからだ。

 あの日、クラスの団結した非難にさらされ、

 ――わざとじゃないんだ――

 そう弁解することもできないほど狼狽してしまった。あのときの教室の空気は今も覚えている。天井がぐわんと歪み、黒板が自分に倒れかかってくるような気がした。そんな状態で、泣いた子に謝ることなどできなかった。気がつくと先生まで原田をからかうようなことを言っていた。ニヤニヤと笑いながら……。

 ――あの子だって、ぼくが運動会のリレーで転んだときにひどい言葉でからかったじゃないか。あっちにいるあいつだって、ぼくの絵が下手だって馬鹿にしたじゃないか――

 後でそういう反論が胸のうちに湧いてきたが、もはやタイミングは逃がしていた。後から口にする勇気もなかった。言えないことがまた自分の心を重くした。

 それをきっかけに仲間外れにされた――りしたわけではない。当の女子も翌日にはケロリと登校していた。ショックを受けたのは自分だけだったという事実は衝撃的だった。他のみんなにとっては、本当にちょっとからかってみただけのことだったのだろう。

 あのときから周囲は何かにつけ、原田はおちゃらけだからなあ、と言うようになった。言われるたびに原田の胸はかすかにきしんだ。そうじゃないのにと思いながら、顔ではあいまいに笑っていた。そうする以外にどうしたらいいかわからなかった。そのうち胸のきしみにも慣れてしまった。

 そしてこう考えるようになった。いつも一緒にいるのに、クラスメートたちは誰一人、自分のことをわかってくれていなかった。だったら自分だって他人のことは何一つわかっていないに違いない。他人とはわからないものなのだ、これが孤独というもので、人は孤独なのだ……。そして心の中で少しずつ、他人と距離を置くようになった。

 奇妙なことに、原田の性格が明るく、社交的になっていったのもこの頃からだった。言われてひどく傷ついたはずの「おちゃらけで軽薄なやつ」に実際になっていったのだ。それが意識的だったのか無意識だったのか、今となっては自分でもよくわからない。

 おかげで交友関係が豊かでにぎやかな中学、高校生活を送った。大学では軟派なテニスサークルで運営の中心的役割を務めた。顔が広く、軽いが面倒見のいいやつと評された。

 社会に出てからは、その軽薄さを仕事上の武器として使っている。営業技術というメッキをほどこして。

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