虫女

舶来おむすび

虫女

 先週はケースケが見た。

 今週はリョータローとショーヤが見た。

 そして昨日は、カズヒコが会って話をしたっていうんだ。

「すっげえ綺麗だし、めちゃくちゃ可愛い声で喋るんだぜ! VTuberのシナイ実在みあり八百口やおぐちウツロを足して割ったみたいな! あーあ、お前らにも見せてあげられればなあ」

 あいつの自慢話──しかも半分以上は盛ってるんだ、いつものことで──にはうんざりしたけど、クラスメイトからちやほやされているのは正直、すごく羨ましかった。

 だから、僕も決めたんだ。

 噂の『虫女』を絶対に見てやろう、って。


 *


 この円部台えんぶだい小学校で、誰が最初に虫女の話を始めたのかはよくわからない。

 ただ、梅雨が終わる頃にはあちこちから噂が聞こえ始めて、セミがうるさくなる頃には学校中がその話で持ちきりだった。一年生から六年生まで、毎日誰かしらが虫女の話題を口にしてしていたんだ。

 虫女といっても、別に虫の姿をしているわけじゃない。

 僕らみたいな年頃の子供が虫取りをしていると、いつの間にか近くにニコニコ笑う女の子が立っている。見た目は中学生か高校生ぐらいで、空色のワンピースを着ている。彼女は、何をしてくるわけでもなく、ただこっちを笑顔で眺めているだけ。そして、気づいたら消えている──実際に会った人たちは、判で押したように同じことを言ったんだ。

 難しいのが、虫女は虫取りをしたからといっていつも出てくるわけじゃないし、出てくる場所も決まってないらしい、ってことだ。雑木林で1時間粘ったけど出てこなかったって話もあれば、公園で転がっていたセミを捕まえただけで現れたって話もある。

 その謎めいた感じが、ますます僕らを夢中にさせた。たぶん、宝くじとかソシャゲのガチャみたいに「もしかしたら自分にもチャンスがあるかも」って思えるのが楽しかったんじゃないかな(僕もそのひとりだし)。

 ところが、大人たちはそうもいかなかった。この町では今のところ何も起きてないけど、隣町では虫女を探していた子供が何人かいなくなったとかで、先生たちは皆ピリピリしていた。夏休み前には「子供だけでの虫取りは禁止、必ず大人と一緒にやるように」なんて何度も言われたくらいだ。

 でもさ、そんなのバカバカしいって思うだろ?

 そういうわけで、夏休みに入った途端、虫女が出たという公園や雑木林は子供でごった返した。本気で虫女を狙うやつ……怖いもの見たさで来たやつ……男も女もいっしょくたになって、どこもかしこも子供の声で沸いていた。大人が入り込む余地なんて、そもそもどこにもなかったんだ。

 ただ、僕はその輪の中には入らなかった。ケースケたちから誘われても断った。塾の夏期講習が忙しかったせいもあるけど、それはおまけの理由。

 虫女と会った子たちから話を聞いて、ひとつ思ったことがあったんだ。


 ────虫女は、一回現れた場所にはもう出てこないんじゃないか?


 町の地図を買ってもらい、虫女が出た場所と日にちをまとめると、時間が経つほど出現場所がズレていくのがわかった。最初に目撃されたのは、隣町に一番近い公園。それから何日か後には、近所の雑木林。その次の日は、雑木林の近くにある別の公園。そうやって町を横切るように、どんどん移動しているみたいに見えたんだ。

 だからその日、僕は夏期講習が終わるとすぐ家へ帰った。ちょっと遅いおやつを食べたら、虫かごと虫取り網を持って家を出る。「なるべく早く帰ってきなさいよ」という母さんの声を背に、自転車で向かった先は、町外れの小さな神社──蚕玉こだま神社だった。

 いちばん最近で、虫女の目撃情報があったのは、この近くの公園だった。そして、公園周辺で虫取りできそうな場所は、そこぐらいしかない。僕と同じことを考えている子がいないことを祈りながら、力いっぱいペダルをこいだ。

 蚕玉神社は、森の中に作られた神社だ。たくさんの木が陽の光を遮ってしまうから、昼間でもなんだか薄暗い。そんな場所に、古いを通り越してボロい本殿がぽつんと建っている。いかにもお化けか何かが出そうな雰囲気だから、子供はもちろん、大人でもあまり近づきたがらないのだった。

 嬉しいことに、神社には誰もいなかった。境内に足を踏み入れた途端、セミの鳴き声が四方八方から襲いかかってくる。

「こんなの、取り放題じゃん」

 森を見上げながら、僕は思わずつぶやいていた。誰も来たがらない神社は、そのせいかセミの楽園と化していた。ちょっと目をこらせば、アブラゼミ、クマゼミ、ニイニイゼミ、ミンミンゼミ……ツクツクボウシもいる。

 僕は別にセミが大好きってわけじゃないし、そもそも本命は『虫女』だけど、これだけいるとやっぱりウズウズする。持ってきた虫取り網を軽く振り回しながら、手頃な木に駆け寄った。


 *


 軽い気持ちで始めたはずのセミ狩りは、気づいたら虫かごいっぱいに獲物がひしめき合うほどになっていた。一応、虫女がいないか見回しながら網を振るってはいたけど、今のところ出てきそうな気配はない。

 ポケットのスマホを取り出して、僕は思わず二度見した。なんともう6時近くになっている。母さんの雷が落ちるのは間違いなさそうだった。

 肩を落としながら帰り支度を始めたところで、背後で土を踏む音がした。もしかしてクラスメイトの誰かが来たんじゃ、と勢いよく振り向いて、僕はそのまま固まった。

 女の子。

 少し離れたところに、びっくりするほど綺麗な子が立っていた。アイドルなんか比べ物にならない。今までも、そしてこれからも、こんなに綺麗な子とはもう二度と会えないだろうって思ったくらいだった。

 年は僕より少し上で、空色のワンピースを着ている。その子がニコニコと笑いながら、僕のことをじっと見ていたんだ。

 何事もなかったかのように目をそらしたけど、心臓はどきどきし続けていた。

 虫女だ。

 何日か通うつもりだったのに、まさか初日で出てくるなんて思わなかった! 飛び上がりたい気持ちだった。

 不思議なもので、もし出てきたら話しかけようと思っていたのに、いざ本当に出てこられると、口を開く勇気はすっかりどこかへ行ってしまった。

 ────話しかけようか、いやでも逃げられたら嫌だ、ああでもカズヒコの言ってた「めちゃくちゃ可愛い声」が本当かどうかも確かめてみたい……。

 頭の中でぐるぐると同じ考えが巡り続ける。それを振り払うように虫取り網を振り回したところで、ふと、何かが網の中に飛び込んできた感触があった。

 またセミが捕れちゃったのかな、と思いながら網を手元に引き寄せて、僕は首をかしげた。

「なんだこれ」

 見たこともない虫が、中でジタバタともがいていた。

 パッと見た感じはセミに近いが、よく観察すると全然違う。だいいち、脚が八本あるから、そもそもとして昆虫ですらない。

 そいつはしきりに羽をばたつかせ、頭を左右に振っている。よく見ると、頭からはヒゲみたいな触角が何本も生えていた。そして何より、カラスのくちばしみたいに尖った口を、ひっきりなしに開けたり閉じたりしている。セミだとしても、それ以外の虫だとしても、こんな虫は今まで見たことがなかった。

 いまだにバタバタと動き続けているそれを、とりあえず虫かごに入れておこう、と掴んだところで。


「それ、ちょうだい」


 不意に、隣から声がした。

 顔を向けたすぐ横に、女の子の顔があった。虫女は、いつの間にか僕の隣までやってきていた。驚いてのけぞったが、彼女はいっこうに気にした風はなく、変わらずニコニコと笑っていた。

「な、なに?」

「それ、ちょうだい」

 甘い匂いのしそうな声が、僕の手を指さして言った。いや、本当に甘い匂いがした。今まで食べたどんなお菓子、どんな果物よりもいい匂い。

「今、捕まえたやつのこと?」

 聞くと、こくりと頷いて「それ、ちょうだい」ともう一度繰り返す。彼女が喋るたびに、とろけそうな甘い匂いがした。香りにつられて頷きそうになったとき、自分でも思いがけない別の台詞が口をついて出た。

「ねえ君、これ何の虫か知ってるの? 僕、こんなの見たことないんだ」

 知ってるなら教えてよ、とねだったのは、ほんの軽い好奇心からだった。単純に気になっただけで、深い意味は特にない。

 はたして、女の子は口を開いた。

「それ、ちょうだい」

 僕は信じられないような気持ちで女の子の顔を見つめた。

 初対面の相手に無視されるなんて、初めてのことだった。よっぽど意地悪な奴なら、唇をひんまげたりニヤニヤ笑ったりしながらやるかもしれないけど、その子は無邪気に微笑んだままだったから混乱する。

 もしかしてセミの鳴き声で聞こえなかったのかな、と思って「だから、何の虫なのか教えてってば」と繰り返したが、答えは同じだった。

「それ、ちょうだい」

 無視。

 いやそれ以前に、彼女はさっきから同じ言葉しか話していない。

 気づいた途端、腹が立つより先に、気持ち悪さが芽生えた。背中が嫌な汗でべたつきはじめる。胸の中がモヤモヤして、呼吸が浅くなる。一歩、二歩、後ずさりながら叫んだ。

「何の虫か教えないなら、あげねーよ!」


「じゃあ、もらうね」


 背後から声がした。

 勢いよく振り向いた先に、虫女がいた。

 あれ、と思いもう一度振り返る。先程まで話してた相手は、変わらずそこにいる。

 僕を挟むようにして、全く同じ姿をしたものが2人いる。

 首筋が一気に冷たくなった。わあ、とかぎゃあ、とか叫んだ気がする。とにかくここにいてはいけないと、自転車の方へまっすぐに走って、しかしその手前で急停止した。

 向かう先で僕を待つ、空色のワンピースが全部で3つ。

 引き返そうと振り向けば、空色のワンピースが4つ、5つ。

 にっちもさっちもいかなくなって、誰もいない横方向へ走った。掴んでいたあの虫は、ひとまず両手に閉じ込めた。手の中で暴れる感触を感じながら、本殿の脇をすり抜ける。足は、神社の奥に広がる森の中へと向かっていた。

 薄暗い森の中、どれだけ走っても、たくさんの足音がぴったりとついてくる。後ろをちらちらと振り向くたび、虫女たちの数は増えていった。

「なんでだよ、なんでこの虫が欲しいんだ!」

「食べるの」

 やけくそで張り上げた声に、返ってきた答えはとてもシンプルだった。

「邪魔だから、食べるの」

「食べないと、食べられるから」

「よかった、この町でも見つけられて」

 そう答える虫女たちの顔が、少しずつ変わっていく。

 まず、口が裂けた。唇の端が両耳の付け根まで伸びて、開いた口の中ではギザギザの歯があっちこっちから生えている。

 両目は、大きく見開かれていた。僕を見つめる無数の目が、ぎらぎらと星みたいに光って追いかけてくる。

 そして、髪をかき分けるように生えてくるのは、二本の角。

「うっそだろ」

 思わず口に出た。全力で前を向いた。後ろはもう絶対に振り向きたくなかった。だってそんなの、昔話か漫画の中にしか存在しないはずじゃないか!

「ねえ、すごくおいしそう」

 囁くような声が、風に乗って僕の耳に届いた。振り返らずに走っているのに、不思議と背後の光景が目に浮かんだ。角の生えた頭が、そろって首を縦に振り、ニコニコと笑っているさまが。

「お腹が空いたから、君もほしいな」

「その虫と一緒に」

「『シンチュウ』と一緒に」

「すごくおいしそう」

「子供はおいしいんだよ」

「こないだも、ちょっとだけ食べたもんね」

「だって、お腹が空いてたんだもん」

「『シンチュウ』も一緒に食べてやった」

「とってもおいしかったよね」

 僕は、担任の話を思い出していた。隣町で、虫女を探していた子供たちが何人かいなくなったという、あの話を。

 口の中がからからに乾いていた。これが夢ならよかったのに、と心の底から願った。虫女なんてどうでもよかったじゃないか、と過去の僕に泣きながら怒鳴りたい気持ちでいっぱいだった。

「だから、ねえ」

「それ、ちょうだい」

「それ、ちょうだい」

「早くしないと、私たちが食べられちゃう」

ゆうべが来る前に駆除するの」

「君と一緒に、それ、ちょうだい」

 暗い森の中、あちこちから追いかけてくる声の群れは、セミの鳴き声もかき消して、ワンワンと僕の耳でこだましていた。少しずつ暗くなる森の中、声から逃げるように足を動かし続けていると、急に目の前が明るくなる。

 僕は、つんのめるようにして立ち止まった。

 森を抜けた先の足下には、何もなかった。あったのは、地面がむき出しになった急斜面だけ。あと何歩か踏み込んでいたら、今ごろ滑り落ちていたかもしれない。

 苦しいくらい弾む息を整えながら、だらだらと流れる汗を、シャツの袖に頬をこすりつけるようにして拭いた。顔を上げると、灰色の空が広がっている。遠くに見える地平線に、太陽がどんどん近づいて、白色から黄色に、そしてオレンジ色になろうとしている。

 夕方に、なろうとしている。

「ああ今すぐそれをよこせェッ!」

 焦ったような声がものすごいスピードで突っ込んできたのは、まさにその時だった。

 文字通り鬼の形相になった虫女のひとりが、片手で僕の肩を掴みながら、もう片手で僕の両手から虫をほじくり出そうとした。その勢いに押され、後ろに大きく何歩か下がったところで、踏んだはずの地面がなくなった。

 胃が、ふわりと持ち上がった感覚がある。

 あ、と思う間もなく、僕は宙に放り出された。

 全身から、そして手から力が抜ける。あの虫が、指の隙間から這い出るのが見えた。のびのびと羽を広げて、僕の手を離れ、虫女の方へ飛び上がっていく。すっかりオレンジ色になった夕陽の光が、力強く羽ばたいた虫を──『シンチュウ』を照らした途端。

 目の前で、あの小さな虫がみるみるうちに成長を始めた。いや、膨れ上がったと言ったほうがいいかもしれない。あのカラスのくちばしみたいな口は、あっという間に僕の身長よりも大きくなって、僕に掴みかかった虫女をひといきに呑み込んでしまった。

 気づけば、僕は虫の背中にすくい上げられていた。『シンチュウ』は、いまやものすごく大きく──僕を5人くらい乗せられそうなサイズになっていた。

 巨大な虫は、僕を乗せたまままっすぐに飛んで、鬼たちへと食らいついた。あの急斜面の上から、覗き込むようにこちらを伺っていたモノたちへと。

 きゃあきゃあと上がる悲鳴は、女の子のそれに似ていた。巨大な虫は、あちこちの木をなぎ倒しながら、鬼をむしゃむしゃと平らげていく。踏み潰して、噛み砕いて、飲み込んでいく。まるで、そうするのが仕事みたいに。

 ひっきりなしに開いては閉まる、くちばしにも似たあの口からは、空色のスカートが何十枚も見え隠れしていた。


 *


 悲鳴がすっかり聞こえなくなってからも、僕は呆然とその背に座り込んでいた。目の前で起こった夢みたいな出来事が、どうしても信じられなかった。

 不意に『シンチュウ』は空を見上げた。つるつるの背中は、頭から尾に向かって滑り下りるばかりの滑り台みたいになって、僕を地面にぽんと落とした。あの虫はしばらくの間、じっと僕を見つめていたが、やがて神社の本殿の方へ、のそのそと歩き出した。

 僕は、虫が消えた方をずっと眺めていた。蚕玉神社の神主さんが、すっかり木のなぎ倒されてしまった森を見つけ、こわごわと森の中にやってきて僕を発見するまで、そのまま座り込んでいたんだ。

「なんだなんだ、どこの子だ!? こんな時間にこんなところにいちゃ駄目だろう、早く帰りなさい!」

 僕を半ば引きずるようにして森から出る最中、おじさんは説教ついでにあれこれと質問してきた。だいたいは「あの森で一体何があったのか、ほとんどなぎ倒されてしまった木はどうしてああなったのか」ということだったけど、僕はひたすら「わからない」と言い張った。

 森を出て、スマホを見ると7時を回っていた。母さんに電話すると、ものすごい勢いで泣きながら怒られた。母さんが迎えに来るまでの間、おじさんは自販機で買ったジュースを飲ませてくれた。

「虫女とかいう変な噂も立ってるしな、気をつけなきゃ駄目だぞ」

 その噂はもうこれ以上広まらないんじゃないかな、と思ったが、僕は何も言わなかった。さっきの出来事も、もしかしたら僕の見た夢だったかもしれないと、ほんの少し思っていたから。

 でも、次の日から公園に行く子供の数は極端に減った。外から子供の声が聞こえることもなくなり、町はもとの静けさを取り戻した。

 夏休みの途中、リョータローとショータに誘われて、ケースケの家に遊びに行った。虫女と『シンチュウ』の不思議な話をしようとすると、三人にものすごく変な顔をされた。

「なあ、その虫女って何?」



 神虫しんちゅう……天虫の変化と云へども、かたちもっぱら蝉に似れり。幼体は二寸余、成体は五尺余と云ふ。……諸々の刹鬼を食とす。あしたに三千、ゆうべに三百の鬼をとりて食らふ……

(『紙本着色辟邪草紙』より)

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虫女 舶来おむすび @Smierch

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