23.この世で唯一確かなこと





……六畳の一間に、キッチンがひとつのアパート。この部屋に僕は母さんと住んでいた。


「……………………」


僕は、佳奈さんとの電話を終えた後、しばらく真っ暗な画面になったスマホを見つめていた。


そして、ふうと息を吐いてから、スマホをポケットに入れた。


「……健治?どうしたの?」


畳の上に布団を敷いて横になっている母から、僕はそう尋ねられた。


「ああ、ごめん母さん、起こしてしまって。今しがた……友人と話をしてただけだよ」


「そう。もう夜遅いんだから、あんまり長くなっちゃダメよ?」


「うん、分かってる。もう終わったから大丈夫だよ」


そうして僕は、キッチンの横にある小さな冷蔵庫から、豆腐と大根、そしてネギと味噌を取り出した。それをまな板の上に置いて、お味噌汁を作る準備にかかる。


これは明日の朝の分だ。今のうちに準備しておかないと、母さんが家で食べるものが無くなってしまう。


「だから!部屋に入ってくんなっつってんだろ!このババア!!」


「わーん!!ママーー!ママーー!!」


「お!?よっしゃツモったー!リーチ一発ツモ、三色ドラ1のハネ満ー!」


ここに住む住人たちの声が、まるですぐ隣にいるかのように聞こえてくる。


母親へ怒鳴りつける不良の声、泣き叫びながらお母さんを呼ぶ子どもの声、大学生たちが麻雀を打ってはしゃぐ声……。


「今日は、学校は楽しかった?健治」


そんな喧騒の中に紛れて、母さんが僕へそう尋ねた。


「もちろん、今日も楽しかったよ」


「そう、よかったじゃない」


「今度の文化祭に向けて、劇の準備を進めていてね。今あった電話も、その劇についての相談なんだ」


「あら、健治は劇をするのね。何かの役で出るの?」


「うん、銀河鉄道の夜の、ジョバンニ役でね」


僕はトントンとネギを包丁で刻みながら、鍋にお湯をかけていた。


「……銀河鉄道の、夜ね」


母さんの声色が、少し震えていた。


僕は雰囲気が悪いことを察して、おそるおそる「どうしたの?」と訊いてみた。


「……私、銀河鉄道の夜は、嫌いなのよ」


「な、なんで?」


「“あの人”が好きだった本だから」


「……………………」


母さんの言うあの人とは……母さんの元旦那、つまり僕の父だった。


「本当に……なんであんな人と結婚してしまったのかしら。浮気する最低な男だって知っていれば、絶対に結婚なんてしなかったのに……」


「……………………」


「健治は、絶対にあんな男になっちゃダメよ。人を傷つけるような男には、絶対にね」


「……………………」


「そして、恋人はきちんとした人を選びなさい。あなたに嘘をつかず、ちゃんと誠実でいてくれる人にしなさいね」


僕は、ネギを刻んでいた手を止めて、静かに「うん」と答えた。ぐつぐつと煮え始めたお湯の音が、静かに部屋に鳴り響いていた。








……翌日。


僕はいつもの通りに、学校へと向かった。


すっかり夏の気配は消えて、秋の風が吹いている。日差しも弱くなり、日の光りに当てられても、あの痛みを感じるほどの暑さはなくなってしまった。


(文化祭本番まで、あと2日……。今日も頑張らなきゃ……!)


主役を演じるという責任感から、僕は自分に渇を入れて、教室へと入った。


文化祭前になると、先生方も気を遣ってくれるようになる。本来なら通常授業を進めるところを、「文化祭の準備に当てていい」と言ってくださる方もいる。


そんな時はありがたく、劇の練習に勤しむ。教室で役者たちは衣装を揃え、いつものように一通り劇の流れをなぞっていく。


「ジョバンニ、あの河原は月夜だろうか?」


「いいやカムパネルラ、あれは月夜じゃない。銀河だから光るんだ」


教室の真ん中で、僕たちは銀河鉄道を演じる。もう昨日と今日だけで、何度練習したのか数え切れないほどやってきた。


佳奈さんも、銀河鉄道の夜をほとんど知らない中、彼女なりにカムパネルラを演じてくれている。




『アタシ、カムパネルラになりたい』




「……………………」


あの時の彼女の言葉が、僕の耳からずっと離れない。


佳奈さんの中でどんな意図があるのか、どうしても勘繰ってしまう。


自分の頭でどれだけ考えようが、彼女に確認しない限り答えなんか出ないのに、それでも考えずにはいられなかった。



キーンコーンカーンコーン



休憩時間になった旨のチャイムが鳴った。それに合わせて、僕らも休憩を取る。


トイレに行く者や、水を飲みに行く者、友達と談笑を始める者など、それぞれだった。


「……もうじき、白鳥座の駅だ。ボク、白鳥を見るのが大好きだ。川の遠くを飛んでいたって、ボクには見える……」


そんな中、佳奈さんは一人、台本とにらめっこをしていた。ぶつぶつと口許が動いていて、台詞を確認しているのが見てとれる。


今日はなんだか体調が優れないのか、顔色があまり良くない。瞬きを何度もしていて、時々手の甲で目を擦っている。


(大丈夫かな……?ちょっと、声をかけた方がいいだろうか?)


胸の内にそんな考えが浮かんでくるけれど、僕は結局、声をかけることはなかった。僕より先に、クラスメイトの女の子が彼女へ声をかけたからだ。


「佳奈ちゃん、大丈夫ー?なんか顔色悪くない?」


「ん……ちょっと寝不足で」


「マジー?夜中何してんの?」


「演技の練習してて……。昨日から寝てないの」


「えー!?徹夜してんの!?止めときなよ、身体壊すよー?」


「でも、文化祭まで時間もないし……。ちゃんと、カムパネルラやれるようにしたいから」


そう言って、また彼女は台本を読み始めた。


そんな彼女の姿を、僕はただ黙ったまま見つめていた。










「……………………」


この日も、劇の練習で帰りの時間はずいぶん遅くなってしまった。


街灯に照らされた仄暗い道を、僕はうつむきながら歩いている。


(佳奈さん……)


徹夜してまで演技の練習をしているなんて、思わなかった。昨夜僕へ演技のことについて電話してきたから、真剣であることは伝わっていたけど……。


(でも、身体のことも大事にしてもらいたいな。季節の変わり目だし、あんまり無理はしないでほしいな……)


そうして僕は、頭の中で彼女の身を案じていた。


そのことを自覚した時、僕は小さくため息をついた。


(ダメだなあ、もう……。気がついたら、いつもいつも佳奈さんのことばかり考えてる。彼女のことを考えない日はないってほどに、毎日毎日……)


自分で自分の優柔不断さに、嫌気がさす。


彼女を好きでいたい気持ちと、彼女から離れたい気持ちが、いつまでもぶつかり合っている。


いい加減、このモヤモヤした気持ちを張らしたい。どうにか解消したい。前を向いて歩きたい。


でも、どうしたら……?



「……健治かい?」


そんな僕に、声をかける人がいた。


ふっと顔をあげると、電柱のそばに人影が立っているのが見えた。スーツ姿の男性で、僕よりも少し背が高い。


「やあ、やっぱり健治だ。ようやく会えたよ」


「……………………」


「こんな夜遅くまで、学生も大変だなあ」


「……………………」


そう言って親しげに話しかけてくる、その男の人は……。



僕の父だった。



「父、さん……」


「なあ健治、よかったら少し、時間もらえないか?」


「時間……?」


「ちょっとでいいんだ。少し、話がしたんだよ」


父さんは口許に柔らかい微笑を浮かべていた。






「……すみません、コーヒーを二つ」


近くにいた店員さんに、父さんはそう言って注文した。


僕たちは今、客の全然いない静かな喫茶店にいる。僕と父さんはお互いに向かい合って座っており、父さんは僕の顔を、僕は父さんのネクタイ付近を見つめていた。


「あれから5年か……。健治もずいぶん、大人になったな」


懐かしそうに話す父さんに対して、僕は「どうも」と軽く流した。


「百合子は、元気にしてるかい?」


「……母さんは、そうだね。ちょっと前に入院しかけたけど、最近はまた元気になってきてると思う」


「そうか、それならよかった」


「……………………」


「学校の方はどうだ?健治は昔から頭がよかったからな、きっと成績も抜群だろう?」


「……………………」


「そうだ、最近本は読んでいるか?ちょうどお前が好きそうな……」


「父さん、話ってなに?」


僕のことについてたくさん尋ねてくる父さんの言葉を、僕は強引に遮った。


父さんのことは、本当を言うと嫌いじゃない。僕が本を好きになったのも父さんの影響だし、昔はいろんな本を買ってくれてたから。


でも、浮気をして母さんを悲しませたことについては……僕は絶対に、許すつもりはなかった。だから早く話を切り上げたかったし、すぐにこの喫茶店から出たかった。


「ああ、すまないな健治。話っていうか……これをな、百合子に渡してあげてほしいんだ」


そう言って父さんが懐から出したのは、茶色い封筒だった。


「これに、手紙が入ってる。百合子への手紙だ。お前の手から、渡してやってほしい」


父さんは封筒をテーブルに置き、僕の前へと差し出した。


「……手紙?今さら母さんに、何を伝えるの?」


「……お前は、百合子からなんて聞いている?離婚の原因は」


「……………父さんの、浮気」


「そうだよな。でも、本当はそうじゃないんだ」


「え?」


「浮気はね、してないんだよ」


「……………………」


「いきなりこんなことを言われても信じられないかも知れないが、昔……俺のことを密かに好きだった女性がいてな。彼女が百合子に対して嘘をついたんだ。『自分は愛人だ、ずっと前から付き合ってる』と」


「……………………」


「もちろん、彼女は愛人でもなんでもなかったんだが、それを百合子は……信じてしまった。まあざっくり言うとそんな感じだ」


「……………………」


「百合子はもともと、思い込みが激しくて、頑固なところがあったからな。俺が何度も浮気じゃないと話しても、最後まで信じてもらえなかった。それで結局、別れることになったんだ。もちろん、俺が彼女を安心させられなかったことにも、問題がある。だから、こうするしかなかったんだ」


「……本当、なの?それ」


「ああ」


「……………………」


……僕は、にわかには信じられなかった。


母さんからずっと、父さんの浮気が原因だと何度も聞かされてきたから、とてもこの話を飲み込めなかった。


「お待たせしました、コーヒーです。ごゆっくりどうぞ」


店員さんが僕らの前にコーヒーを置いて、去っていく。


父さんはそのコーヒーに一口つけてから、また話を再開した。


「もちろん、このことを信じるか信じないかは、健治が決めるといい。俺がとやかく言うつもりはない」


「……じゃあ、この手紙には、そのことについて書いてあるの?浮気じゃないってことについて……」


「いや、その手紙に書いてあるのは、別れの挨拶だ」


「別れ?」


「父さんな、明日からドイツへ行くことになったんだ」


「……………………」


「もうおそらく、日本へは帰って来ない。だからその前に、百合子へ俺の気持ちを伝えたかったし、お前にも……一目会いたかった」


「……………………」


僕はその時、初めて真っ直ぐに父さんの顔を見た。


父さんの口許には、先程と同じように薄く笑みが浮かんでいたけれど、その目はどこか悲しそうに、哀愁を含んだ色を持っていた。


「俺もな、ずいぶん迷ったよ。今さら俺が手紙を送ったところで、何も現状は変わらないだろうし、意味なんかないってな。だから何も言わずに、ドイツへ去ろうかとも思った」


「……………………」


「でも、さ……。意味はなくていいんだ」


「なくて……いい?」


「届かないと分かっていても、本当の気持ちを伝えたい」


「……本当の、気持ちって?」


そう言われて、父さんは少し恥ずかしそうにはにかんだけれど、それでも真剣な眼差しで……僕に告げた。


「俺はな健治、お前と母さんのことを、今でも愛しているよ」


「……………………」


「それだけは、俺の中でずっと変わることはない」


「……本当に、変わらないの?僕や母さんが、父さんのことを愛してなかったとしても?」


「健治よ、この世で唯一確かなことは何か、分かるかい?」


「……ううん」


「ここさ」


父さんは、自分の胸に手を当てた。


「自分の気持ちだよ、健治」


「……………………」


「どんなに親しい人がいたとしても、その人の本心を……100%知ることはできない」


「……!」


「10年経っても100年経っても、完璧には理解し合えない。自分と他人というものには、それだけの隔たりがある。だから、完全に間違いないと言えるのは、自分の気持ちだけなんだ。でも、それでいいんだよ健治」


「……………………」


「お前や百合子が、俺のことをどう思っていても、構わない。俺がお前たちを愛しているのは、俺だけが知る、俺だけの真実だ」


「……………………」


「それでいい。それ以外は信じられなくていい。そんな風に、最近思うようになってね」


「父さん……」


「ドイツに行くことになったからかな、お前たちともう会えないってことを深く理解したからこそ、こんな気持ちにたどり着けた気がするよ」


父さんはまた、コーヒーを口にした。もうその一口で、全部飲み干してしまっていた。


「そうそう、健治。お前にこれをあげようと思ってな」


そう言って父さんが僕に渡してきたのは、「宮沢賢治 詩集」と書かれた文庫本だった。


「あっ!この本……!ずっと僕、これ欲しくて……!」


「そうか、よかったよかった。お前昔から、宮沢賢治が好きだったものなあ。喜んでもらえて何よりだよ」


「……………………」


「俺からあげられる、最後の本になる。だから、大事にしてくれると嬉しい」


「……………………」


「さてと、すまなかったな、時間を取らせて」


父さんは机の上に千円札を置いてから、席を立った。


「そろそろ俺は、お暇するとしよう」


「……………………」


「元気でな、健治。母さんと、いつまでも仲良くな」


そう言って、少しだけ手を振ってから、父さんはくるりと僕へ背中を向けてしまった。


……僕は、僕は、いろんなことを言いたかった。


でも、それを具体的に言語化することは、僕にはできなかった。何を言っても意味がないように思えたし、僕の気持ちを全部伝えるには、時間が足りなさすぎた。


ただただ、胸いっぱいに、途方もない寂しさが広がるばかりだった。


「……と、父さん!」


なんとか口を開いた僕は、考えなしに父さんのことを呼んだ。


父さんは顔だけをこちらに向けて、「どうした?」と答えた。


「……僕、僕、今度……学校の文化祭で、劇をするんだ。銀河鉄道の夜を、劇で演じるんだ」


「ほお、銀河鉄道か。いいチョイスじゃないか」


「僕……僕ね、ジョバンニなんだよ。ジョバンニを演じるんだよ」


「そうか、いいな。実にお前らしい」


「……………………」


「頑張れよ、文化祭。お前ならきっと、上手くいくさ」


「…………うん」


僕がそう答えると、父さんはにっこりと優しく微笑んで、店から去っていった。


父さんが座っていた席には、ぽつんとひとつ、空のコーヒーカップがあるばかりだった。










「……………………」


肌寒い夜風が吹き抜ける中、僕は家へと向かっていた。


手には父さんからもらった本と、母さん宛の手紙がある。




『どんなに親しい人がいたとしても、その人の本心を……100%知ることはできない』


『でも、それでいいんだよ健治』


『お前や百合子が、俺のことをどう思っていても、構わない。俺がお前たちを愛しているのは、俺だけが知る、俺だけの真実だ』




(……父さん)


僕は、父さんのことを許せたかどうかは、まだ分からない。


ただ、父さんからの言葉は、ずっと胸の奥に響いていた。


その言葉は、今まさに……僕にとって一番大事なメッセージだったように思う。


「……………………」


ふっと目を瞑ると、その奥に佳奈さんの面影が映った。


「……ただいま」


家へ帰りつくと、母さんはいつもの通り、布団をかぶって横になっていた。


「ああ、お帰り健治」


弱々しく笑う母さんの顔を、僕はぼんやりと見つめていた。


「……ねえ、母さん。郵便が来てたよ」


「郵便?」


「父さん、から」


「……………………」


父さんの名前を出した瞬間、母さんの表情が一瞬にして真顔になった。


「母さん宛の手紙だけど……読む?」


「……………………」


母さんは僕へ背中を向けて、抑揚のない声でこう告げた。




「捨てなさい」




……僕は、頭の中にお父さんの顔を思い浮かべていた。あの切なそうに笑う、父さんの顔を。


それを思い出していると、なんだか言い様のない気持ちに包まれて、堪らなくなった。


僕は母さんへは何も言わぬまま、父さんから貰った本に封筒を挟んで、本棚へしまった。












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