19.雨音の中で
「……つまり、この問題だとオリオン座が見えているのが冬の空なので、答えはBになります」
小雨がパラパラと外で降り注ぐ中、私は健治さんとともに図書館へ来ていた。
彼は私の隣の席に座って、熱心に教えてくれていた。問題集を開いて、私が解けなかった問題について解説をしてもらっていた。
「なるほど、答えはB……と」
健治さんと私の肩と肩が密着しそうなほどに接していて、最初はそれにドギマギしていたけど、真面目に健治さんが教えてくれるお陰で、意外と私も邪念が混じることなく、勉強に集中できていた。
「星座の位置を覚えるのが、私ちょっと苦手で……。どうしたら覚えやすくなりますか?」
「うーん、そうですね。オリオン座とさそり座をまずおさえるといいですよ」
「その二つだけでいいんですか?」
「ええ、さそり座が夏、オリオン座が冬で、それぞれ真逆の季節にいるので、分かりやすいんです」
「ふむふむ」
「オリオン座とさそり座の神話を知ると、より覚えやすいかもしれません。昔、オリオンっていう凄く強い人がいて、そのことを鼻にかけていた。『俺様が一番強いんだ!誰も俺には勝てない!』っていう風に。そんなオリオンを見かねた神様が、さそりに『あやつを凝らしめてくれ』って頼んだ。それを承知したさそりは、自分の毒で見事オリオンをやっつけた。オリオンはそれ以来、さそりのことが苦手で、星座も夏のさそり座から逃げるようにして、反対側の冬の空に見えるようになりましたとさ……と、こういう話があるんです」
「へえ~、面白いですね。オリオンはさそりから逃げてるから、冬の空に見えると」
「そうそう、この神話を覚えておくと、星座の位置関係が分かりやすくなると思いますよ」
「ありがとうございます!」
私は健治さんから教わった話を、つらつらとノートに書き連ねていった。
「深雪さん、そろそろ休憩しますか?もう三時間ほど経ちますし」
「そうですね、じゃあちょっとだけ」
私はシャーペンをノートの上に置いて、「う~ん」と声をあげながら腕を上へ伸ばした。ぐーっと固まっていた背中がほぐされていく感覚があって気持ちいい。
「そう言えば深雪さんって、志望校はどちらなんでしたっけ?」
「真中高です。でも滑り止めに、私立の日新高も受けますけど」
「真中ですか!さすが深雪さん、難関高ですね」
「いえいえそんな、私なんてまだまだですよ」
「何をおっしゃるんですか、県内トップクラスの進学校なのに」
健治さんはクスクスと、柔らかく口元が綻んでいた。
「……あの、健治さん」
「はい?」
「今さらこんなこと言うのもなんですけど、敬語じゃなくて、タメ語でも大丈夫ですよ?私、年下ですし」
「タメ語、ですか?」
「はい」
個人的には、年下の私にでさえ丁寧に敬語を使ってくれるのも嬉しかったのだけど、それでももう少し距離感を詰めるためには、もっとざっくばらんに話してもらえる方がいいと思ったのだ。
「深雪さんは、嫌なお気持ちにはなりませんか?」
「まさか、そんなことあるわけないですよ」
「そうですか?」
「はい」
「……分かりました」
健治さんは、一瞬だけ切なそうな目をしたけれど、すぐにその目は閉じられてしまった。そして、またゆっくりと目を開けて、先程までと同じ穏やかな表情に戻ってから、「じゃあ、これでいいかな?」と、少し緊張を含んだ声色で話しかけてきた。
「……………………」
初めてタメ語を使われた私は、不覚にもドキッとしてしまった。やっぱり、敬語だった時よりも距離が近くに感じる。
今まで「お姉ちゃんの知り合い」止まりだったのが、ちゃんと「私の知り合い」になったような、そんな感覚。
たった少しだけの言い方の差なのに、これほどまで違うものなのか。
「深雪さん?」
「え?」
「大丈夫?どうかした?」
「は、はい……だ、大丈夫です」
「そう?なんだか緊張しているように思うんだけど。やっぱり、敬語に戻そうか?」
「いえいえ!全然そのままでお願いします!」
「そ、そう?」
やや困惑気味の健治さんだったけれど、それでも敬語に戻されることはなかった。
私はその時、健治さんとの距離が狭まったことによって、変に高ぶってしまって、思わずこんなことを口走ってしまった。
「あ、あの、健治さん」
「うん?」
「何回もお願いしちゃって恐縮なんですけど……あの、良かったら私も、敬語止めていいですか?」
「深雪さんも?」
「は、はい」
「……………………」
健治さんはきょとんとした顔で、私のことを見つめていた。し、しまった、うっかり変なこと言ってしまった……。
普通に考えたら、私が敬語を止めるっておかしな話だ。だって、健治さんは私の先輩だから敬語を止めることに筋が通るけど、私が止めるのはちょっと生意気というか、横柄すぎる。
この機会にもっと距離を縮めようと思って必死になっちゃったことが、完全に仇になった。
(ど、どうしよう……さすがに怒られるかな?いや、怒られないにしても、生意気だなとか思われちゃったかな……?)
そんな風に狼狽えていた私に向かって、健治さんは優しくこう言った。
「……大丈夫だよ、深雪さん」
「え?」
「敬語じゃなくても、大丈夫だよ」
「ほ、本当ですか?」
「ずっと敬語だと、君も疲れるよね。僕もそこを、もう少し察して配慮できたら良かったね。ごめんよ」
「い、いえいえ!そんなこと!」
「僕はタメ語でも全然構わないから、深雪さんの話しやすい喋り方をしてもらえたらいいな」
そうして、健治さんは薄く微笑を浮かべていた。
「……………………」
自分の顔が熱くなっているのが、ありありと分かる。ぽっぽっと身体中が火照るせいか、じんわりと汗を額にかいている気がする。
私は一旦一呼吸置き、ごくっと生唾を飲んでから、ゆっくりと彼へ告げた。
「……ありがとう、健治さん」
……気がつくと、もう夕方の五時をとっくに過ぎていた。この図書館の閉館時間は五時半なので、他の来観者もだんだんと帰り支度を始めていた。
「そろそろ帰ろうか、深雪さん」
「は……う、うん」
まだまだタメ語に慣れていない私は若干吃りながらも、勉強道具をリュックに入れ、それを背負って健治さんとともに図書館を後にした。
ザーーーーー……
小雨だった雨は、いよいよ本降りへと変わっていた。
図書館の屋根がある玄関の前に立ち、地面に激しく打ち付ける雨音を聞いて、健治さんはげんなりした顔で呟いた。
「しまったなあ、僕、傘を持ってきてないんだよね」
「そうなの?」
「うん、うっかりしちゃってた」
「健治さん、良かったら私の傘、入る?」
そう言って、私は背中に背負っていたリュックから折り畳み傘を取り出して、健治さんに見せた。
健治さんは「いやいやいいよ」と言って苦笑していた。
「そこまでしてもらうほどの雨じゃないから、大丈夫だよ」
「でも、風邪ひいちゃうよ?」
「君の折り畳み傘は、普通の傘より小さい。相合傘をやったら、お互い中途半端に濡れちゃうだけだよ。僕のことは気にせず、傘を使っておくれよ」
「……うーん、でも」
「全然気にしなくて大丈夫だから。ね?」
「……………………」
ザーーーーー……
……地面に溜まった水溜まりに、雨の波紋ができる様子を、私はじっと見つめていた。
(……健治さん)
私は折り畳み傘を、ぎゅっと握り締めた。
今日はずいぶん、健治さんとの距離を縮められることができたと思う。それはもう、十分すぎるほどに。だから正直言って、これ以上はやりすぎかも知れない。
1日のうちにぐいぐい距離を縮めすぎるのも、逆に鬱陶しがられてしまうと思うからだ。
……だけど、チャンスをきちんとものにしないといけないっていう考えも、私の中にはある。
ただでさえ恋愛に関してはド素人な私なんだから、多少積極的でないと成功しないことは、火を見るより明らか。
(ここが、ここが踏ん張りどころ……)
大丈夫、今日の健治さんの反応から、私に対して嫌な気持ちを抱いてるとか、そういうのはないことが分かってる。だって嫌な相手だったら、ずっと距離感を作るために敬語でいるだろうし、そもそも勉強を教えてくれるはずもない。
……ここでモタモタしてたら、お姉ちゃんに負ける。だからもう少し、もう少しだけグイグイと……
「け、健治……さん」
私は言葉を噛みながらも、頑張って彼にこう告げた。
「嫌、かな?」
「え?」
「私と相合傘するの、嫌?」
「……………………」
健治さんの目は、驚きのあまり大きく見開かれていた。その視線から思わず逃げてしまった私は、彼の足元を見ることにした。
(や、やだ……心臓が痛いくらい動いてる。ほ、本当によかったのかな?これで……)
早速今言ったことを後悔しかけた私だったけど、でも、今はそんなことを考えるのは止めよう。
そんなことを考えてしまったら、もう堪らなく苦しいだけだから。
「……………………」
カラカラに乾いている口の中に、息を吸って少し空気を入れることで、緊張を誤魔化す。
「……深雪さん」
私がさっきの言葉を告げてから、およそ1分後。ついに健治さんからの返答が来た。
なんと言われるか怖くて仕方なかった私は、ぐっと肩をすくめて身構えた。
「……やっぱり、止めておこう。相合傘は」
「……………………」
「気を遣ってくれてありがとう。でも、その折り畳み傘はどう見ても二人入れそうにない。二人とも濡れることになるよ」
「……………………」
「あの、もちろん、深雪さんのことが嫌で入りたくないとか、そういうのじゃないよ?でも、僕が入るせいで深雪さんまで濡れちゃうのは嫌だってだけで……」
「……………………」
ああ……ダメだった。
ダメだったんだ。
さっきまで膨れ上がっていた熱が、今すー……っと引いていくのが分かる。
もう、恥ずかしくて逃げ出したい。今すぐどこかに隠れたい。
(調子、のりすぎちゃったなあ……)
今日は敬語を止められて、いい気になってしまった。健治さんが優しいから、私の無理難題も受け止めてくれてただけなのに。
あー……もうどうしよう。まだ告白したわけじゃないのに、既にフラれた並みに辛い。
「……なんか、その、ごめんね?深雪さん。せっかくのご好意だったんだけど……」
「い、いや、私の方こそ、ごめんなさい……。変なこと、言っちゃって……」
「……………………」
「……………………」
お互いに気まずい空気になってしまったがために、私も健治さんも喋らなくなってしまった。
あーあ、やっぱりバカだ私。恋愛についてはド素人なんだから、もっと慎重になるべきだったんだ。
(もう、穴があったら入りたい……)
恥ずかしすぎるあまりに、私は顔すらも上げられなかった。
「あっ」
そんな時、健治さんは何かを思い付いたような声を上げた。
「深雪さん、ちょっと待っててくれる?」
「……え?」
「すぐに戻ってくるから」
そうして、健治さんはまた図書館の中へと入っていってしまった。何が何やら分からなかった私は、ただその場に立ち尽くしていた。
……健治さんは、二分ほどしてからまた私のところへと戻ってきた。そしてその手には、傘が握られていた。
「あれ?健治さんそれって……」
「うん、図書館の人から借りたんだ」
「あ……なるほど」
「最初からこうしておけば良かったね。ごめんよ深雪さん」
「う、ううん、そんなこと」
「今度、もし同じような状況で、深雪さんの持ってる傘が大きかったら、その時はお願いしようかな」
「……!うん!」
私のフォローをしてくれた健治さんはにっこりと私に微笑むと、傘を開いて「さあ行こうか」と言った。
私はこくりと頷いて、折り畳み傘を開いて、健治さんとともに外へと足を踏み出した。
傘に雨がザーザー降り注ぐ音を耳にしながら、私は健治さんへ話しかけた。
「今日はありがとう、健治さん。勉強教えてくれて」
「なんのなんの。僕なんかが役に立てたのなら、光栄だよ」
「また今度、教えてもらってもいい?」
「うん、もちろん」
次に会える約束を果たせた私は、思わずその場で小躍りしそうになった。
さっきまであんなに落ち込んでたのに、また会えるってなったらすぐ立ち直る。案外私って、単純な人間かも知れない。
ザーーーーー……
どんどんどんどん、雨は激しくなってくる。近くを走る車の音てさえ、次第に聞こえづらくなってくる。
「……………………」
私は、隣を歩く健治さんの顔を見た。
思えば、今日が今までで一番長く一緒にいたかも知れない。だって、今までは放課後の帰り道を歩いたりとか、ちょっとだけお姉ちゃんについて話し合うとか、そういうのしかなかった。だから今日、何時間も一緒にいれたのは、初めてのことなんだ。
(もっと……もっと長くいたい)
今日は一時に集合だったけど、今度は午前中から会いたい。そして、お昼とかも一緒に食べて、もっともっと長く一緒に……。
「……………………」
昂る気持ちがおさえられなかった私は、わざと声を小さくして、言った。
「健治さん、好き」
ザーーーーー……
「……ん?」
「……………………」
「ごめん深雪さん、今何か言った?」
雨音にかき消された私の声に、健治さんは反応した。
私は顔を熱くしながらも、にっこりと笑ってこう言った。
「ううん、なんでもない」
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