山城国の娘、蓬莱に嫁入りす

リムムント

一、求婚

明星が浮かぶ夕空の下、滑るように電車が進む。

行く先には、太陽の残光でほのかに稜線のにじむ山々、そして無数の船灯と宵闇が映る湖。

風のない黄昏の刻、ただ一度だけ警笛けいてきの音が響いた。


カタン、カタン、と小気味よい規則さだった車輪の音が少しゆるやかな間隔になる。

‥‥もうすぐ駅かなあ。

ふ、と意識が浮上した香夜かやは、寝起きの頭でぼんやりと思う。

いつの間に寝ていたのか、電車に乗ったところまでは覚えはあるが、その後の記憶がはっきりしない。冷房に当たりすぎたようで少し肌寒く、セーラー服の半袖から出た腕をさすると、香夜はゆっくり目を開けた。

車内はすでに灯りがついており、窓の外は藍色の闇が広がっているが、陽の光が残る水平線はまだ薄い橙色だ。

ぐっと一つ伸びをしてから腕時計を見た香夜は、そこでやっと、意識が完全に現実へと戻った。

驚きで思わず立ち上がり、はずみで足元のカバンと紙袋がゴロンと転がる。あわてて拾い上げ、あらためて時間を確認する。

午後七時三十分。

もう一度見直しても時間は変わらない。一駅で降りるはずだったのに、三十分近く乗りすごしたことになる。

ああ‥やってしまった‥‥。

香夜はため息をつき、ヘタるように座り項垂うなだれると、ひざにのせた紙袋の中に誕生日プレゼントの包み紙が見えた。終業式の今日、学校が終わったあとに友人の瑠海と蘭からもらったお祝いだ。

『おめでと!』

『ついに香夜も十八歳かー』

『もう結婚だって出来ちゃうわけねえ』

『まあ香夜の場合は、まず彼氏だけどね』

『ちょっとメイクしてみたら?休みの日とかでもさ』

『それでなくても香夜は年下に見えがちっていうかさあ‥』

『この前も中学生に間違われてたよね』

『そもそも私服がアレだしね‥‥まあ頑張れ!』

後半はただけなされただけのようにも思うが。誕生日のお祝いムードに、明日から夏休みだという開放感が加わり、三人で尽きることないおしゃべりに没頭した。楽しかった時間を思い出し、ホロリと笑みがこぼれる。

そうだ、もう成人なんだから慌てず大人な対応をしないと。次の駅で降りればいいんだし落ち着こう、と自分に言い聞かせる。

今日の寝過ごしも、また話のネタになるだろう。紙袋をぎゅっと抱え直し、香夜は次の駅に着くのを待った。


スピードを落とした電車は、ほどなくして駅に停車する。

プラットホームに降りた香夜を、じっとりとした熱気が包み込んだ。

なんだか暗い駅だなあ‥‥なんで駅の名前が書いてないの?人も全然いないし。

初めて降りる駅の得体のしれない雰囲気に、怖気おじけづきそうになる。

香夜は明かりを求めて、小走りで駅舎に向かった。しかし駅舎に着くと、今度は途方に暮れることになる。

時刻表もなければ、反対側のホームに出るための階段もない。人の気配がどこにも感じられず、スマホは圏外表示。駅舎には、香夜の持っているICカードは非対応の改札が一つ、ポツンとあるだけだ。

世界から切り離された空間に入り込んでしまったような間隔に、徐々に血の気が引き、足元が覚束おぼつかなくなる。

そんなパニックになりかけた香夜の耳に、チャッ、チャッ、チャッと小さな音が届いた。前方に視線を向けると、小さい何かが近づいてくるのが見える。それは改札を通り抜けて、香夜の前でピタリと止まった。

スッと伸びた鼻筋、賢さがにじみ出た黒い瞳、手足はすらりと長い。首には真っ赤な皮の首輪、ピンと立った三角の耳にくるりと巻いた尾っぽは艶のある薄茶色。

見紛みまがうことなく、柴犬だ。

か、かわいいーー!

先ほどまでの心細さは吹き飛び、香夜は心のなかで絶叫する。飼い主が見当たらないが、迷子のワンコだろうか。

柴犬は香夜を見上げ、姿勢良くお座りする。その凛々しさに内心で悶絶をしながら、香夜はしゃがんで体制を低くする。犬に恐怖心を与えずに近づくためだ。

保護できたら飼い主さんを探そう。

そう思いながら握った右手をゆっくり下から近づけると、犬は香夜の手をフンフンと書いだあと、鼻でツンとつつく。甘えたようなその仕草に、ほのぼのした気持ちでワンコを見守っていると、再び右手を鼻でついた。

ふと、握った右手の中に何かがある感触に気付き、香夜は手のひらを開く。そこには「蓬莱ほうらい行き」と書かれた切符があった。

え、なんで?

ポカンと切符を眺めていると、犬はもう用事は済んだとでも言わんばかりに、立ち上がりさっさと改札を出ていってしまう。よくわからないが、迷子の犬をこのまま放っておくのは落ち着かない。一瞬ためらったあと、手の中にある切符を改札に入れる。

切符が投入口へ吸い込まれた直後、ピッ、と電子音が響いた。おそるおそる前に進むが、阻まれることなく改札を通り抜ける。

駅の外へ出た香夜は、犬の姿を探す。少し歩くと、茶色い犬の後ろ姿が見え、その更に先にもう一頭、黒い犬がいた。こちらも柴犬のようで、二頭は挨拶をするようにニオイを嗅ぎ合っている。

二頭の隣には飼い主であろう人影が見え、なんだ迷子じゃなかったのか、と香夜はホっと肩の力を抜いた。

ワンコのじゃれ合う姿をしばし愛でていると、人影がゆっくり香夜のほうに歩いてくる。駅舎の明かりがかろうじて届く位置まで近づいたところで、その人物は立ち止まった。

背が高く体格の良い男だった。

顔立ちは暗がりで見ても分かるくらい整っているが、アイドルように柔らかな綺麗さではなく、時代劇に出てくるような剛強ごうきょうみのある格好良さだ。なぜか和服を着ており、濃紺の着物がとても似合っている。

胸がドクドクとはげしく鳴り、香夜はぐっと服を握りしめた。

今まで自分は、恋愛には縁がないと思っていた。男の子から告白されたことはなかったし、香夜自身も異性で好きだと思った人がいなかった。

でも、それも当然かもしれない。目の前の男性が好みのタイプだとしたら、同年代では難しいだろうから。言葉が出てこず見惚れていると、男はふっと笑った。

「久しぶりだな」

絶対に初対面だと言い切れる男性から、親しげに声をかけられて香夜は混乱した。

「元気にしてたか?相変わらず小さいな。ちゃんと食ってるのか」

返事がないことを気にする様子もなく、男は喋りながら香夜の側まで近寄ってきた。その後ろには、色気の漂う美人が二人、男の背中にしなだれかかり香夜を見ている。なんだ彼女持ちだったんだ、と瞬く間にトキメキが消え去った。

似通った顔立ちの二人は、艶のある髪を腰まで垂らし、派手な色合いの和服を着ている。襟元えりもとからは、スイカかメロンかな?というくらい立派な胸が見え、同じ女でありながらその色気にうっとりする。

「香夜」

美人二人に気を取られていた香夜に、男は可笑おかしそうに声をかける。香夜は思わず「はいっ」と応える。パーソナルスペースとはなんぞや、という距離にいる男はそっと香夜の手を取った。

もっと警戒すべきなのに、なぜ拒否感なく受け入れてしまうのか分からないまま、香夜は握られた手を見る。てのひらにそっと乗せられたのは、黒地に白い花が描かれた半月形のくしだった。

意味がわからず顔を上げると、男は手を離して更に訳のわからないことを言う。

「俺の妻になってくれ」

今、自分は知らない男性から何と言われたのだろうか。言葉の意味を理解することを、頭が拒絶する。

まるでプロポーズだ。

だが初対面の人に求婚される理由はないので、プロポーズではないはずだ。もしやこの辺りの地域では、あなたの落とし物ではありませんかと聞くときに「妻になってくれ」と言うとか?そんなわけあるかい。自分に即ツッコミをする。

混乱する香夜に、新たな混乱が加わる。

「ちょっと待ってくれ!」

声の主は、暗がりから駆け寄ってきた。赤みがかった髪色、明るい格子柄こうしがらの着物、人の良さそうな柔和な雰囲気の男は、しかし顔の系統は黒髪の男と同じだ。時代劇にいそうなイケメン。ただし少し細身なので、忍者のようなイメージだ。

新たに登場した男は、呆気あっけにとられるようなセリフを吐く。

「どうか、私を生涯の伴侶に選んでほしい」

この駅に着いたときから現実感が乏しかったが、どうやら夢でも見ているらしい。友人と結婚の話をしたのが思いのほか印象に残っていたとしても、複数の人からプロポーズされるなんてどんな願望‥と香夜は乾いた笑いを漏らす。

そこに、最後の混乱がやってきた。

その頭どうしたの?と思わず聞きたくなるような、まだら模様の青色の髪。顔形は二人の男と同系統で、岩のような体と厳しい目つきは武将のような印象を与える。

男は赤い蔦柄つたがらが目を引く和服を着崩し、のんびりと歩いてくる。一歩ごとに下駄がカラン、カラン、と高い音を立てる。

「あーくだらねえ、面倒くせえなあ‥‥もらってやるから嫁に来い」

こんなに、誠意もやる気も愛情も感じないプロポースがあるだろうか。男のあまりな言い様に目眩めまいがする。

もしや流行りの、乙女ゲーム世界への転移でもしたのかと疑ったが、それなら男性のタイプもバリエーションがもう少しあるはず。メガネ男子や腹黒王子、ワンコ系従者に義弟後輩‥‥間違っても、眼前にいる髪色以外は同系統の男たちではないはずだ。

となると、やはり夢だろう。この意味不明な状況が現実であるとは、どうしても考えたくない。ただし、醒めない夢は現実と同じくらい厄介だ。

一人は真顔で、一人はニコニコと、最後の一人は退屈そうに立ったまま、香夜の言葉を待ち続けている。プロポーズの答えを言わないと、話が進まないようだ。

一つ息を吐き、香夜は返事を口にした。

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