大丈夫なふりをした

あさの

第1話・愛について考えるには私たちは無力すぎる


 暗い部屋で影が動く。布団の中から明かりがもれる。ゴミ屋敷のような部屋で息をする女が一人。

「はにゃ~。今日もあちゅいでちゅね、ハムちゃん様」

 神原(かんばら)ゆかりはパートで生計を立てている一人暮らしの女性だ。ゴミだらけの部屋でゆかりはハムスターに話しかける。事実ゆかりには恋人も両親もいなかった。そして灰色のハムスターを飼っていた。ハムスターは家の一番いいところにケージを置いている。

「見舞いに来たよ、カムパネルラ」

 玄関の戸が勝手に開く音がする。埴上(はにうえ)が来たのだろう。彼女のためにゆかりの家の戸はいつも開いている。

「来るなら来るって言ってよ」

 ゆかりは文句を垂れるが表情は嬉しそうだ。にやけた口元に蠅がたかっている。埴上は長い髪を揺らして外履きを脱ぐ。

 埴上はゆかりの唯一の友達で、おせっかい焼きだ。今日も彼女の仕事が終わってから買い物をして駆けつけてくれたのだろう。カムパネルラというのはゆかりのことだ。文学が好きな彼女たちはお互いをお互いが一番好きな作家にゆかりのある名前で呼んでいる。ゆかりは埴上のことをKと呼んでいる。

 ゆかりは埴上のことを抱きしめ、埴上はゆかりの体臭にのけぞる。

「くさっ」

「ごめん」

「いつからお風呂入っていないの」

「うーん、三日前かな。シフトが五連休だから」

「夏にそんなことしちゃいけないよ……。さあ、お湯沸かすから入って入って」

「めんどくさいー」

 ゆかりは居間で服を脱ぎ始める。この子のデリカシーは皆無なのか? と埴上は思う。

 ゆかりの裸体が露になり、腕には生々しい傷跡。目をそらす埴上。

「何でここで全部脱ぐ? まだお風呂入れ始めたばかりだけど」

「うぃー」

 はっきりしない返事をしてゆかりは風呂場へ消えた。埴上は、彼女の傷跡を思い出す。

 天井を仰ぐとゴキブリがとまっている。

 この家は本当に汚い。掃除を始める埴上。



 ゆかりには自殺願望がある。

 彼女は今まで飛び降り、練炭、リストカット。あらゆる方法で自殺を図ってきた。

 飛び降り自殺を図って搬送された入院先の病院で、ゆかりに紹介されたソーシャルワーカーが埴上だった。当初ゆかりは一言も話さず、支援は困難と思われた。しかし、埴上が彼女の持っていた「銀河鉄道の夜」の話をすると彼女は、

「カムパネルラがどうして死んだのかわからない」

 と、口を開いた。

 それから、彼女たちの交流が始まった。

 文学が好きだった埴上とゆかりは話が合い、仲が深まっていった。埴上は夏目漱石が好きだったので、いつしかお互いのことをカムパネルラ、Kと呼ぶようになった。

 今までのことを思い返しながら掃除を続ける埴上。

「お湯が、熱い!」

 お風呂場からゆかりが叫ぶ。埴上が折れ戸を開けると、全裸のゆかりが駆け寄ってきた。

「やけどするんだけど?」

「自分で調節しなさいよね」

 壁の温度調節リモコンを押して温度を下げる。

「上がったら薬あるから」

 折れ戸の向こうにいるゆかりに話しかける。ゆかりは精神科の薬も自分では満足に飲めていなかった。

 掃除を再開する。

病院で出会ったゆかりと埴上は交流を続けた。それは、友達と呼べるほど親密なものになっていた。ある日、ゆかりの家でご飯を作っていたとき、


 この子のことをもっと知りたい。


 そう思った埴上はソーシャルワーカ―の職を辞して、ある企業の保険管理課に就職した。

 ゆかりとの関係をただの友達にして、一生関われるようにしたつもりだ。

「今日泊まるー?」

 お風呂から上がったゆかりが埴上に問いかける。

「ああ、そのつもりで来たけど」

「よっしゃ、昨日買ったゲームがあるから、クリアしようぜい」

「お、いいね」

「ビールも買いに行こう」

「その前に服を着て」

 全裸で牛乳を飲むゆかりに埴上はタオルを掛けた。

「てか、めっちゃきれいになったねー! ありがとう」

どういたしまして……。どうしたら三日間であの様になるのか不思議でしかないわ」

「暮らしてるとごみも出るよねー」

「出たら捨てろ」

のそのそと服を着るゆかり。

埴上は文句ばかり言っているが、実際ゆかりの世話を焼くのが好きなのだ。そして、ゆかり自身のことも好きだった。

 母親を早くに亡くして、父親も三年前に亡くしたゆかりには、埴上しかいなかった。

埴上は思う。この子を私だけの世界に閉じ込めていてはいけないと。

ゆかりには絵を描く才能と特殊な能力があった。美術科の高校を出ているゆかりは、美術大学に行くことが当然と考えられていた。本人も望んでいたらしい。しかし高校三年の夏に父が亡くなったため、ゆかりは天涯孤独の身になってしまった。その年から、ゆかりに自殺願望が芽生える。そして、彼女をさらに苦しめたのがその才能だった。彼女は、一度見たものを正確に絵で再現できる才能があった。映像記憶力が長けているのだ。だからつらい記憶も忘れられない。


埴上はいまでもゆかりと出かけて電車のホームに立つとき、手をつなぐようにしている。飛び出して行ってしまうような気がするから。ゆかりのほうはぼんやりと前を見て、手に力を入れずに、立っているのだけれど。

「着替え完了」

「髪乾かして」

「乾かしてよー」

「まったく」

 ゆかりを椅子に座らせて、ドライヤーを当てる。ああ、弟にもこうしてあげていたっけ。

 埴上には年の離れた弟がいる。

 彼は知的な障がいがあって、世話が不可欠だった。

 お風呂上がりのドライヤーや持ち物の管理などは埴上の仕事だった。今は施設に入っていて、一月に一度、会いに行っている。

 埴上のお父さんもお母さんも、私たちを平等に愛してくれた。そして、弟の存在があって自身は世話好きになったのだろうと埴上は考える。

 彼女にはそれがない。愛を一身に受けるべきときに母はなく、心を守ってほしいときに父はなかった。

 少しでも、少しでもそれを与えられたら、と埴上は思う。

 コンビニへ買い物に行く。

「ご飯も買おうよ」

「今日は自炊だよ、材料持ってきた」

「ええやん! なに?」

「鶏団子とご飯と天ぷらとみそ汁」

「えっ、最高!」

 無邪気に笑うゆかり。この顔が見たくて私はあんたの友達をやっているのだよ、と思う。

 普通の二十一歳ならば経験していること(温かい食卓、綺麗な家、話し相手になってくれる家族)を経験させてあげたいと思う。どうしてこんなにこの子が気にかかるのだろう。弟と同い年だからだろうか。

「k、何ビールがいい?」

「あたしこのカエルのやつ」

「じゃあ私はこの高いやつ」

 何気ない会話が楽しい。やっぱり気が合うから友達をやっているのか。

「アイスも買わない?」

「いいよ」

 やったあ、とアイス売り場に走っていくゆかり。

 こんな日常がいとおしかった。


 カムパネルラの様子がおかしくなったのは秋ごろのことだ。

 家に行っても鍵がかかっていたり、不在だったり、携帯で連絡がつかないこともあった。

 心配になって問いただした時のことだ。

「好きな……」

「え? なに?」

「好きな人ができました!」

 片付いた清潔なダイニングテーブルの上に沈黙が流れる。ここはkのアパートだ。

「おめでとう」

「ありがとう」

 ぱちぱちと拍手をするk。照れて頭を掻くカムパネルラ。

「どんな人なの」

 缶ビールを開けて話し始める。今日のメニューはサツマイモご飯と豚汁、アジフライだった。

「コンビニの、お客さん……」

「ほう……」

 カムパネルラはコンビニの夜勤のバイトをしている。そこによくきてチキンを買っていく若い男の子だそうだ。変なおじさんとかじゃなくてよかった。kは安心した。

「でもね、私がお客さんだったらいいんだけれど、電話番号とか、渡せないから」

 カムパネルラはそこら辺の常識はあるようだ。またkは安心した。

「可能性はどこに落ちているか分からないから。とにかくシフトはさぼらないことだね」

 アジフライの小骨を気にしながらkが提言する。

「だからね、最近さぼってないにょろ」

 サツマイモご飯のサツマイモを別皿によけながらカムパネルラが恥ずかしそうに言った。

「えらいじゃん」

「わたくしは進化しているのです」

 右のこぶしを高く掲げてカムパネルラが宣言する。

「敬い」

 kがうやうやしく一礼する。

 なにはどうあれ、ゆかりは恋をしている。喜ばしいことだ。きっと、この気持ちは生きる力になるだろう。埴上は涙がこぼれそうになった。

「進展あったら教えて」

「もち!」

 ゆかりはよけていたサツマイモを一気に口に入れた。

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