第33話 夜警は東側の城壁に狼が侵入可能な位置を見つける

 二人が待ち合わせ場所に行くと、昨晩に続いてマリウスが来ていた。


「ふん。お守りがないと夜の都市を一人で出歩けないのか」


 マリウスがヴァンをからかうから、エリザベートは彼女を庇うために二人の間に割って入る。


「こんばんは、マリウス。私が貴方と夜の散歩をしたかったのよ。もちろん歓迎してくれるでしょ?」


「なっ……!」


 もちろん冗談だが、からかわれていることは理解してくれたらしく、マリウスは口を噤んだ。

 ギュイ親方の店から、身をかがめながらロシュが出てくる。


「来てしまったものはしょうがない。昨日と同じ道を行くぞ。つまらない言い合いに参加しなかったヴァンには、今日もサクランボをやろう。お前だけは見どころがある」


「ありがとうございます。ロシュさん」


「さあ。行くぞ」


 ロシュがサクランボを食べながらのっそり歩きだし、三人はその後を追う。

 建築途中の東側の城壁沿いに歩いていると、エリザベートは昨晩は気にも留めなかったことが、気になった。

 エリザベートは昼間見た光景を思いだす。城壁と同様に東側の堀は完全には完成しておらず、跳ね橋を渡す位置は丸太で補強されて土が残っている。その上に、跳ね橋が降ろされた状態になっている。


「夜の間は、石を載せた荷車で城門の中を塞いでいるのね。確かにこれだと、牛や馬を連れてこないと簡単には動かせないから、夜盗の集団が潜りこむのは大変だと思うけど……。あ。石の上にバケツが置いてある。もしかしたら、荷車を動かしたら音が鳴るように、鈴でも入っているのかな?」


 夜間に試すわけにはいかない。現場管理者とは顔なじみになったので、翌日にでも聞けば教えてもらえるだろう。

 しかし、それよりも気になるのは――。


「狼だったら、荷車の下を通れるんじゃない?」


「え? この下を? ……見てみるか」


 マリウスが手燭を地面に置き、荷車の下を覗きこむ。荷車は車輪が二対あるタイプなので、車体の底が地面と水平になっている。


「俺の肘から手首くらいの高さはある。とはいえ、狼が這って進むとは思えないが……」


「俺もマリウスと同意見だ。こんな、子豚がようやく通れるような高さのところを、狼が潜るとは思えないな。そもそも狼は這えないだろう」


 ロシュは荷車の下を気にした様子もなくサクランボを口の中で転がしている。


「確かに、そうよね……。犬が這うところも見たことないし……」


 エリザベートも、狼は走って獲物に飛び掛かる生き物という印象が強いため、這って進む姿を想像できない。だが、悪魔憑きが変身した狼なら話は別だ。人間に戻って這い進めば良いのだ。けど、悪魔憑きは、招待されなければ都市内には入れない。


(北の城壁は跳ね橋が上げられるし扉が閉じるし、落とし格子も夜間は降ろされるよね? だから侵入は難しい。けど、ここだったら、ヴァンが悪魔憑きを招待したら、簡単に侵入可能……)


 疑いたくはないが、もしヴァンに命令している悪魔憑きが、アイガ・モルタスの東側と南側の城壁が建造途中であることを知っているのなら、ここを侵入経路にする可能性は十分ありうる。――とエリザベートが考えを巡らせていると、ヴァンが予期せぬことを言い始める。


「あの。この高さなら、狼は潜ると思います……」


「え? なんで?」


「犬と違って狼は山の斜面を掘って巣穴を作り、そこで出産や子育てをします。巣穴の天井は低いです。だから、這って移動します。もしここに餌があれば、狼は荷車の下を侵入すると思います」


「なるほど。都市育ちの俺達には知りえない知識だな。マリウス」


「ええ……」


「明日になったら、荷車の下に石を置くか罠を設置するように提案するか……。今日のところは……」


 ロシュは背後を振り返り、都市の北東に位置する『新しい町の塔』を見上げる。


「念のため、見張りの兵士に、狼が荷車の下を這って侵入する可能性があることを伝えておこう」


 ヴァンの意見はエリザベートの不安を大きく解消した。黙っていれば誰も気づかなかったかもしれないのに、ヴァンは自ら悪魔憑きが侵入する経路を一つ潰したのだ。


(うん。やっぱ、ヴァンは悪魔憑きとは関係ない。それとも他に侵入経路がある? 山に造るような城塞は抜け道があるって言うけど、アイガ・モルタスにはないよね? あったとしてもヴァンが知っているとは思えないし、リュシアンが対策しないはずがない)


『新しい町の塔』の眼前まで来たエリザベートは西へと延びる北側城壁を見上げる。

 考え事に意識を取られていたエリザベートは、前の三人が立ち止まったことに気づくのが遅れて、ヴァンの背中にぶつかりそうになった。


「あ。ごめん」


「いえ」


「お前達はここで待っていろ。四人で行ってもしょうがない。俺が行ってくる」


 ロシュが一人で城壁の階段を上っていく。『新しい町の塔』の屋上へ出るには、城壁の上から中に入る必要がある。

 しばらくしてロシュが戻ってくると、エリザベート達は夜警を再開した。

 南側城壁に沿って歩き、前日のようにロシュが豚飼いの家の前でサクランボを投げ捨てていると、織物組合の夜警がやってきてすれ違った。

 しばらく進み南西の角を右に曲がろうとしたとき、遠くから狼の遠吠えが聞こえてくる。反響するから城壁の傍を歩いていると音の発生源が分かりにくいが、それは北から降ってきたように思えた。


「昨日より近い気がするけど、気のせいよね? 川の向こうだよね……」


「……以前、ボクが暮らしていた村に狼が来たことがあったんです」


「うん」


「そのときは、こんなふうに吠えていませんでした。ある夜に豚が急に騒ぎ始めて……。次の朝、近くの家の鶏が食べられていたことが分かりました」


「そっか……。確かに狼だって、襲撃するときは静かにするか……」


 西側の城壁を北に向かって歩いていると、今度は肉屋組合の夜警と遭遇する。彼らは前日と同じように大きな肉斬り包丁と、太い棍棒で武装していた。

 ロシュが前日よりも打ち解けた様子で彼らに挨拶し、すれ違う。そのときエリザベートは違和感を抱いた。歩を僅かに強めてヴァンの隣に並ぶと、恋人に甘えるようにして彼の右腕に抱きつく。

 そして、ヴァンの右手首をそっと掴んで押して手燭を動かし、二人が肉屋組合の男達とすれ違う一瞬、肉斬り包丁を照らす。


(まさかとは思ったけど、血……ね)


 エリザベートは努めて声を出さない。


(彼らが何処かで事件を犯していたとしたら、包丁の血を指摘するのはまずい。私達を殺そうとするかもしれない。それに、人を斬りつけていたのなら、悲鳴が聞こえていてもおかしくない。けど、狼の声以外は聞こえなかった。包丁の血は、仕事で使って洗っていないだけ? 気になるけど、今の私は悪魔憑きの件だけで頭はいっぱいいっぱい。明日の朝、騒ぎになっていたらリュシアンに教えるか……)


 そう結論づけて、エリザベートは肉斬り包丁については追及しないことに決めた。

 その後、彼女達は夜警を続けて北側城壁を東へ向かい、ギュイ親方の店の近くまで戻ってきたところで解散した。

 家への方向が同じなので途中まではマリウスも同じだ。三人は大通りを西へと進む。

 大勢の人と音で賑わう昼間と異なり、辺りは暗く静まり返っている。壁に囲まれた都市の底では風も吹かず、埃が舞うこともなくしんとしている。

 マリウスが不意に立ち止まる。

 ヴァンが足を止めるから、エリザベートも同じようにする。


「……マリウス? どうしたの? 暗くて怖くなっちゃった?」


「……昼間、城壁の工事現場で労働者の骨折を治療したな?」


 夜でなければ耳から零れ落ちてしまいそうに、低く小さい声だった。


「ええ。そうよ。雑な処置がしてあったから、放っておけなかったの」


「そうか……。だが、次からはしない方がいい」


「なんでよ」


 城壁は内側から射手が弓で外を狙うときに使用する射撃場が用意されており、人が向かいあって座れるようになっている。長話をするつもりなのか、マリウスがそこに移動して腰掛ける。

 手燭が照らす狭い穴の中で、マリウスの顔は歪んでいるように見えた。


「私は長話をするつもりはないわよ」


「いいから聞け」


「立ったまま聞くから、どうぞ。怪我人の治療をしたらいけない理由を教えて」


「……それは」


「……ほら。早く言いなさいよ。腰を据えておきながら、だんまり?」


「……」


「どうせ分かるわよ。あんたが言いたいことも、言いにくくしている理由も」


「……ッ。だったら」


「答えはシンプル。お断り」


「違う。お前は誤解をしている」


「じゃあね。ヴァン。帰ろ」


 エリザベートは踵を返し、ヴァンの左手を握る。


「い、いいんですか?」


「いいのよ」


「マリウスさんは大事なことを話そうとしている気がします」


「ほら。暗いよ。ヴァン。来て。灯りを持っているのは貴方だけなんだから」


「は、はい」


 エリザベートが率先して暗がりに向かえば、手燭を持っているヴァンはついてくるしかない。

 一度振り返ると、マリウスの持つ手燭の灯りは動いていない。

 十分に距離が開いたからエリザベートは自分の考えをヴァンに伝えようかと思ったが、やめた。自分の勤務先が同業者から、乗っ取り目的の嫌がらせを受けているなんて、言いづらいからだ。

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