第17話 漁師と雑談し、それから葦を買う
石造家屋が並ぶ区画を抜けると路地も石畳から未舗装に変わり、木造家屋が並ぶ区画になる。木の板を壁にし天井には葦が吹いてあり窓はなく、出入り口にドアはなく動物の皮を垂らしている。南に行くほど港で働く荷揚げ人や、漁師達の住居が増えてくるため、街の雰囲気が変わっていく。
しばらく進むと、小屋に三方を囲まれた空き地に、大声で笑いながら魚を焼いている男の集団がいた。いずれも歳は三十前後。腕はヴァンの太ももよりも太く、筋骨隆々の上半身を風に晒している。
そのうちの何人かがエリザベートに気づくと、髭面を向けてくる。
「サリュ。私の小さなエリザベート。今日は良い日だったかい?」
「サリュ。お髭が素敵なジャン。ええ、おかげさまで良い日だったわ。貴方達はどう?」
「もちろん毎日最高さ。今日これからのことはまだ分からないがね!」
「私に会えたから、今日は大漁よ」
「違いない! 我らの守護聖人、聖ペトロと聖エリザベートのおかげで今日も大漁だ!」
陽は沈み始めているが、彼らの仕事はこれからだ。葦を束ねて球にした物に獣油を染みこませ、それを船頭に吊り下げて火をつけ、灯りに集まってきた魚を網で獲るランパオという漁法を用いるため、彼らは陽が暮れてから漁に出る。
「羨ましいわ。一目見ただけで胸が高鳴るような美人に会えるのは貴方達だけの特権なのよ。だって、私は私に会えないもの」
「そりゃそうだ! 私の愛しのお嬢さん。後ろをつけている見知らぬやつがいるぞ。大丈夫か。追い払ってやるぞ」
「遠慮するわ。彼、うちで働くことになった徒弟のヴァンよ」
「へえ。そうかい。ヴァン。よろしくな!」
ジャンが髭面を向けると、ヴァンは目を丸くして小さく素早く何度も頷いた。
「は、はい」
「あ。そうだ。海の近くまでは来ないと思うけど、最近、都市の近くで人を襲う狼が出るから、夜は気をつけなさいよ」
「はっはっはっ。狼なんざ、俺達にかかればひとひねりさ」
ジャンは筋骨逞しい腕を、ポンと叩く。漁師仲間達も体つきを見せつけるように身じろぐ。
負けじとエリザベートは腕をポンと叩くが、漁師とは比べるまでもなく、細くて白い。
「代金は魚でいいから、あんた達全員うちに髭を剃りに来なさいよ。そのモジャモジャを見ていると腕が疼いてしょうがないわ。赤ちゃんの肌みたいにツルッツルにしてあげる」
エリザベートはカミソリを持ったフリをして、ジャンの顎に手を伸ばす。ジャンは手で顎髭を隠して仰け反る。
「目がイッちまってやがる。おい、新人徒弟のヴァン。俺からのアドバイスだ。親方の技は見て盗むもんだが、こいつの髭に対する執着だけは盗むな」
「は、はい」
「どういう意味よ。剃らせてよ」
「いくらお嬢でも馬鹿言っちゃいけねえぞ。髭を剃ったら海風で顔が灼けらあ」
エリザベートはふざけてかんしゃくを起こし地団駄を踏む。
「ああっ、もう、みんな、それなんだから。漁師は潮風を防ぐために髭が必要。農夫は熱い陽差しから顔を護るために髭が必要。羊飼いは寒さから身を護るために髭が必要。騎士は兜に顎が触れる不快感を減らすために髭が必要。修道士は司祭と区別するために髭が必要……。なんなの男って。みんな髭々って。剃らせなさいよ。私にお仕事させてよ!」
エリザベートが悲しげに嘆くと、漁師達がどっと笑いだす。
「ああ、もう、じゃあね。怪我したときもうちにいらっしゃいね。まあ、来たら勝手に髭を剃るから、怪我だけはしないように」
エリザベートは手をひらひらと振って歩き去る。
少し進んでからエリザベートは背後のヴァンに話しかける。
「さて。今の漁師達が特殊だってことは分かる?」
「いえ、あまり……。気のよさそうな人達ばかりでした」
「女の私を侮ったような態度じゃなかったでしょ?」
「はい。それは分かります」
「けどね、大多数は違うの。さっきの私みたいな態度をとったら、女のくせに生意気だって怒鳴るの。今の漁師達は、以前クラゲの毒で死にかけていたところを私が治療してあげたの。だから私のことを、女だからと言う理由で見下さずに、対等に見てくれる。ふふっ。クラゲの毒に犯された男をメデューサみたいに美しい女が助けたのね」
「はい」
エリザベートはクラゲ(méduse)と、美女と伝えられるメデューサ(Méduse)の発音が同じだから、韻を踏んだ冗談を言ったのだが、ヴァンには通じない。彼女は海洋生物のクラゲも、ギリシャ神話の怪物も知らない。
「私の知的ユーモアが通じないなんて、手強いわね……」
「……?」
「まあ、いいわ」
エリザベートは周囲をキョロキョロと見てから、声を小さくする。
「これから行くお店は、商売だから女の私にも丁寧な態度で接してくれるけど、笑顔のまま高めの値段を提示してくるの。女は頭に干し草が詰まっているから多少ふっかけても分からないだろう、女はバカだから数字なんて理解できないだろう、女は文句を言えないから値段を吊り上げてやろう、ぼったくっても文句を言うときに後ろ盾になる男なんていないだろう……そんな理由かしらね。とにかく、私が買うと損をするの。だから、ヴァン。男の出番」
「は、はい。分かりました。舐められないように買えばいいんですね」
「そのとおり。予算は十ドゥニエで一梱の葦を買います。両腕で抱えるのが大変なくらいの束を、二つ。いい? もし店員が、こう指を曲げてきたら――」
エリザベートは両手の親指を重ねて、指を曲げたり伸ばしたりする様子をヴァンに見せる。左手の親指と人差し指の先をくっつけて輪を作ると、左の残る指をすべて真っ直ぐ立てた。
「これが十を意味する形。この形以外はすべて首を横に振る。いい? 指がしっかり伸びていることを確認して、曲がっていたら別の数字を意味するから」
「わ、分かりました」
「この形だからね? しっかり覚えたね? もし最初から十より小さい数字を相手が提示してきたら、私が割りこむから。よし、行くよ」
「はい。頑張ります」
南側の城壁は一部未完成だが、大小五つの城門は既に完成している。港で働く者の利便性が考慮されており、四方を囲む城壁で最も門が多い。その中で東端に位置する『粉の塔』の近くに、木造の商店がある。広めの店先に、壁はないが屋根で護られた場があり、そこに太さや長さで仕分けられた葦が山のように積まれている。
売り場には店員と三人の客がいる。店舗正面の城壁では下働きの若い男が葦を城壁に立てかけ、石の境を目盛りにして長さで仕分けている。
葦は都市の周囲に広く点在する沼地から採れるが、乾燥させた物を購入するのが一般的だ。
アイガ・モルタスにとって葦は生活のあらゆる場で利用する重要な資源だ。建築材として使われるのはもちろん、寝具や家畜の餌としても用いられる。かつてラングドックで活躍した吟遊詩人達も、葦で作られた笛を演奏した。
エリザベートは人の良さそうな二十歳くらいの店員に声を掛ける。
「サリュ。葦屋のジャン」
「サリュ。理髪店のエリザベート」
先程の漁師と同じ名前のジャンだが別人である。有名な王や聖人にあやかった名前をつけるため同名の者は多い。アイガ・モルタスの修道院に行けば、修道士の三人に一人がヨハネだ。同名の者は、アンリ・ド・トゥールーズのように、ド・地名とつけて、出身地で他人と区別する。最近では名前のあとに職業名を付ける者も増えつつある。
エリザベートは同行者の二の腕を肘で突く。
「初めまして。トゥールーズ理髪外科医院で働くことになった男、ヴァン・ド・トゥールーズです。よろしくお願いします」
「おう。よろしくな。俺は見てのとおり、ここで葦を売っているジャンだ」
エリザベートは一歩下がってヴァンの視界から消えた。あとは信じて任せる。
「寝床用に二抱えほどください」
「あいよ。なら短くて柔らかいのがいいな。ほら。この辺りの束だ。触って確かめてみな」
「はい」
エリザベートはヴァンが葦を触っている間、彼の様子を眺めていた。不意に、他の客の会話が聞こえてくる。
「今日も人を襲う狼が出たそうだ。北の門のすぐ前まで来たらしい」
「人を襲うだって? 三年前に騒ぎになった人狼ではないのか?」
「隣の領主の土地では狼の群れが村を襲って住民を皆殺しにして食ってしまったという噂もあるが……」
「住民を皆殺し? それは悪魔憑きではないか? 悪魔憑きは月の光を浴びると人狼に変身すると言うぞ」
「だが、悪魔憑きならば信仰心の厚い者が暮らす街には入れないと聞く。アイガ・モルタスは安全だ」
「しかし、異端教徒が中から招けば、悪魔憑きは都市に入れるとも聞いたぞ」
夜間は城門を閉ざすから狼が侵入できるはずがない。しかし、それでも市民の間には少しずつ恐怖が広まっているようだ。
(三年前の騒ぎって私と漁師達のことよねえ……。あいつら、夜中の漁に出掛けるとき人狼に見間違えられないように、今度無理矢理にでも髭を剃っちゃお……)
エリザベートが可愛らしい陰謀を企てていると、ヴァンが笑顔で顔を向けてきた。
どうやら、十ドゥニエで十分な葦が買えたようだ。
それは喜ばしいことだがエリザベートは内心で「私が買いに来たときは十五ドゥニエだったじゃない」と呟いた。
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