第9話 パンを買いにいくと、少年が狼に追われている場面に出くわす

 朝。鶏が卵を産んでいたので、ギュスターヴに焼いてもらい、ベーコンと一緒にパンにのせて食べた。エリザベートはギュスターヴから竈を借りたり食事を頂いたりしており、そのお礼として時折、食材を提供したり料理のレシピを紙に書きとどめたりしている。持ちつ持たれつである。

 水汲みから帰ってくると今日はマリウスがいなかったので、普段どおりギュスターヴが手を貸してくれた。昨晩、近所の者達に料理の感想を聞いて回っていたときの熱は消え、挨拶以外は口にしない寡黙な男になっている。

 それからしばらく経っても客は来なかった。

 エリザベートは今朝パンを食べきってしまったので、混雑する昼前に買いに行くことにした。

 都市民は次第に時間という概念に縛られつつあったが、アイガ・モルタスはまだ農村からの移民者が多く、自由な時間に生きている。一時課の鐘(六時頃に鳴る)が鳴ったら起きて、三時課の鐘(九時頃に鳴る)が鳴ったら働き、晩課の鐘が鳴ったら仕事を終えるような規則正しい生活はまだ都市に定着していない。決まった刻限に鳴ることから『鐘』という言葉は『時計』という意味でも使われており、人々は教会が鳴らす鐘の音を指標にしつつ、自由な時間を過ごしている。

 客が来ない理髪店の親方はなんの気兼ねもなく、パニエ(パン用の籠)を片手に出掛けた。

 パンは最も重要な日々の糧となるため、領地や都市ごとにその品質や流通量を維持する必要があり、様々な法が定められている。

 アイガ・モルタスでは庶民がパンを焼くことは禁じられていないが、パン焼き釜がどの家にもあるわけではない。人々はパン屋で購入するか、領主の館の前庭に設けられた共用の窯にパン生地を持ち込んで焼く。エリザベートの場合は選択肢が多く、隣家のギュスターヴが料理をするときについでにパン生地を焼いてもらうこともできる。

 代官から任命されたパンの品質管理人が目を光らせているのだから、何処のパン屋にいっても同じ値段で同じ種類のパンを買えるのだが、今日は大通りのパン屋の丸パンの気分だったので、そこへ向かった。ちょうど焼きたてを買えたので、帰路は上機嫌だ。

 路面は傾斜がついていて左右の端にゴミや汚物が溜まるように工夫されている。人々は中央を好んで歩くから道は中央が混み、端は空く。

 エリザベートは壁際の日陰を、足下に気をつけて、ゴミを避けながら進んだ。

 その途中、路地の中央にマリウスを見かけた。何やら考え事をしているようだ。憂えたような眼差しには妙な色気があり、黙ってさえいればいい男なのに勿体ないとエリザベートは思う。

 十六歳で親方のエリザベートが口にすれば皮肉になるから口にはできないが、十七歳でルネ親方から認められて彼の右腕にまでなったマリウスの腕前も、十分称賛に値する。女のくせに、と言われないように努力を重ねたエリザベートだからこそ、マリウスの修行の辛さも想像できるため、一定の尊敬はしている。

 だが、結婚して店を乗っ取ろうと目論む嫌な相手だ。しかし、エリザベートは礼儀として挨拶は欠かさない。


「サリュ。マリウス」


「エリザベートか。ちょうど良かった。夜警の件だが。もしあてがないなら――」


「あー! 大丈夫。大丈夫。人は出すから。うん。ん?」


 路地は商売人が客を呼びこむ声や、通りすがりの人々の会話など、様々な音に満ちている。その中に違和感を抱いてエリザベートは振り返る。


「助けを求める声が聞こえない?」


「え? そんなの……」


「……聞こえた」


 エリザベートは物売りと客の声に紛れて、確かに「助けて」という声を聞き分けた。


「適当なことを言って、誤魔化そうとしているのか?」


「反響していて聞きとりにくいけど、確かに北の方から聞こえる」


 エリザベートはマリウスを無視し、籠を胸に抱えると北へ向かって駆けだす。


「待て!」


 追いすがろうとする声を振り切って、エリザベートは小柄な体を活かして人混みをすり抜け、大通りを目指した。

 大通りへ出ると大勢の人が行き交っており、騒ぎになっている様子はなく、普段と変わらぬ賑わいを見せている。

 エリザベートは耳を澄ます。ざわめきの中に「こっちだ」「走れ」という声が聞こえた。『ガルデットの門』の外だ。城門の様子を窺うと、内側を見ている兵士がいない。平時であれば城門には二から四人の兵士がいて、一人くらいは内側を見張っている。しかし、見当たらないということは、外で何かが起きているということだ。

 エリザベートは城門の手前まで来たが、視界は狭く状況は分からない。ただ、兵士らしき声からある程度は類推できる。


「あと少しだ! 来い! 頑張れ! 走れ!」


「くそっ。少年が邪魔で弓が使えない! 避けろ避けろ!」


「下がれ狼! ここがリュシアン・ド・マルティニー様が収めるアイガ・モルタスと知ってのことか!」


 どうやら、少年が狼に追われているようだ。エリザベートは門下路に入ると、外側扉の位置まで進み外を見る。暗い隧道から飛びだして狼を追い払うことは無理でも、何か手助けくらいできないだろうかと状況を窺う。

 逃げてくる少年は一目でアイガ・モルタスの住民ではなく、貧しい農村の出身だと分かった。

 豚の皮を縫い合わせただけの簡素な服を纏い亜麻布の膝丈ズボンを穿き、靴はない。まだ若いから体は動くが、あと数年もすれば栄養失調で倒れるか、疫病にかかるかして死ぬであろう、ありふれた農民である。

 伸びるがままの髪の毛で目元が隠れて前が見えないのか、疲労によるものか、少年はふらついている。


「君! ほら、こっち! あと少し!」


 少年はエリザベートの位置まで僅か五杖まで到達しているが、疲労困憊で今にも膝から崩れそうだ。


「鉄が怖くないのか、この狼め!」


「近隣の村を襲っているのはお前か! 人を襲うことを覚えたな!」


 剣と盾で武装した二人の兵士が前に出て、少年を背に庇う。兵士は剣の切っ先を低くし、狼を威嚇する。狼は兵士の前で進んだり下がったりして注意をひき、つけいる隙を窺っているかのような動きを見せる。

 少年は水堀の上にかけられた跳ね橋に達した。しかし、足取りは不確かで進路が僅かに逸れている。このままでは橋から落ちてしまう。

 エリザベートは城門の外へ身を乗りだす。そのとき、強い風が吹いた。目に砂が入ったが、風の唸る音に負けないよう、腕を伸ばし叫ぶ。


「こっち! おいで! あと少し!」


「う、ああ……」


「ほら! こっち!」


 エリザベートは少年の手首を掴むと、勢いよく引き寄せる。

 二人の体が重なり、城門の下に入る。

 兵士二人が城門の上に向かって「矢を射てくれ」と声をかけながら後ろ足で下がってくる。

 牙の届かないところに獲物が逃れたことを理解したのか、矢の脅威を知っているのか、狼は身を翻し城壁から離れていった。

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