第2話

目を覚ました彼は随分とご機嫌斜めだ。

ダイニングテーブルの向かいに座っているその青年の名は、黒宮瞬というらしい。

忍が間に合わせで貸し出したTシャツと短パンはサイズが小さすぎるとしか言いようがない。華奢な忍を簡単に見下ろすほど身長も高く、骨格もいい。

「そんなに警戒しないで。君をどうこうしようってつもりで連れ込んだんじゃないから」

「はっ……笑わせんなよ、人を意識のない間に勝手に家まで連れ込んでおいてよく言うぜ。どうせ俺が珍しくてとかそんな理由だろ」

たしかにそれはあるけれど。と内心呟いて忍は気づかれぬようにその耳を見る。

ピンと立った、狼の耳だ。昨日見たものに間違いない。

満月の夜に彼は意識を失うらしい。おそらくその間に昨日の姿になっているのだろう。

つまり。


彼は獣人だ。


(そんなものが現実に存在するなんて……)


信じ難いが、その赤い瞳も大きな犬歯も人のそれではない。それにしても記憶がないとは勿体無い。


(可愛かったのに)


つい視線を向けてしまった忍の目に、瞬がガタッと椅子を蹴飛ばして立ち上がる。



「やっぱてめぇも見てやがるのか、珍しいかよ?! 普通のやつにはこんなこと起きないもんな! 俺だってなりたくてなってるわけじゃねえんだぞ!」



出て行こうとする手首を掴む。細身で華奢な忍はこう見えて武術の達人だ。振り解けないその手に瞬が耳を伏せる。今にも噛みつきそうな彼の手首を戒めたまま、忍はその髪を撫でた。



「僕を信じてほしい。君を物珍しさで捕獲したわけでもなければどこかへ突き出すつもりもない。落ち着いて」



手首を振り解こうと無駄な足掻きをしているのがわかる。関節技の抜き方は知らないのだろう。だとしたら力技で抜けるものではない。

牙を剥いているその耳に囁く。


「kneel」


瞬が瞠目する。反射的なものなのだろうか、驚くほど簡単に、青年が腰を下ろす。

忍はニヤリとした。やはり彼はSubなのだ。自身がDomである忍には、Subを見分ける本能的なセンサーのようなものがある。瞬の見た目はかなり精悍なものだが、にじみ出るようなSubとしての香りは消せない。もちろん、だからといって契約も結んでいない瞬を無理やりに従わせようという気は忍にはなかったが。

「Good boy」

ワナワナと耳を震わせた瞬は怒り心頭と言った様子だ。そんな瞳に笑いかけ、

「じゃあまずは、獣医だね」

とリードを見せた。



「大丈夫? 瞬?」

「何がだよ」

憮然とした面持ちで隣に座る青年が答える。

いや、足。と忍は思う。平然としてはいるが、青年の足はプルプルと震えっぱなしなのだ。

大型犬らしい反応に内心クスッとしてしまう。

「はい、瞬くーん」

「!!」

診察室からかかった声に、瞬が固まる。

幸い待合室に他の患畜はいない。忍が手早くその腰のベルトにリードを繋ぐ。

「はい、行くよ。逃げないの」

頑として動かない青年をリードで引き摺りながらドアを開けた忍に、獣医──安曇という──があららぁ、と頭をかいた。



「東條さんが物好きなのは知ってたけど」

震え続けながらも苦心して診察室でおとなしくしている瞬を眺めて安曇はカルテにボールペンを走らせる。

「普通拾う? 狼犬」

まさかとは思ったが触らせてもらったところその体は紛れもなく人間ではなかった。耳も尻尾も本物だ──その尻尾は完全に足の間に丸め込まれているが。

口開けてくれる? と尋ねるとものすごい勢いで唸られる。

完全に診察嫌いの大型犬だ。

「いい子いい子。痛いことしないから口開けて。病気になってないか診るだけだから」

ライトを近づけるとますます頑なに尻尾を丸め込みつつも青年は口を開けた。

(なるほど、人間の歯じゃないな)

忍も気づいた犬歯の大きさに感心しながら手早く診る。

幸い何も症状はないようだ。歯もきれいなものである。念のためにワクチンだけ打てばいいだろう。

「ワクチン打っても平気? シュンくん」

「バカにすんなよ、それくらい平気だよガキじゃねーんだぞ」

意外にも冷静な声が帰ってきた。

「んじゃ、腕まくって」

大人しく瞬がきつそうなTシャツの腕をまくる。

「ちょっとチクっとするよ」

刺した一瞬だけピクっと引き攣ったが、青年は極大人しく処置を受けて立ち上がった。

リードを掴んで忍を見る。

「なぁ──これ外して。なんで俺を連れてくるところは普通の病院じゃなくて獣医なんだよ。そんなに俺、異常か? 異常なのはわかるけど傷つくだろ」

今にも立ち去りそうな青年の気配に、忍はしまったと密かに顔を顰めた。

自尊心を傷つけてしまったかもしれない。

だが、耳と尻尾が消えてくれないことには普通の病院に連れて行ったら彼は晒し者になってしまう。

「シュンのためだと思うけどね。その姿で普通の病院行ったらすぐに研究機関行きだろうし、東條さん的には消えるまで放置しとくにはシュンの体が心配だっただろうし」

本当はジャーキーあげるんだけどね、といいながら安曇が胸ポケットから抜き出したのは黒いボックスのタバコ。

「あげる。ご褒美。歯を見せてもらったから気づいたけど、シュン喫煙者だね?」

ぱっと青年の顔が輝いた。

「いいのか? 一昨日から吸ってねぇから物足りなくて仕方なかったんだ、悪いな。もらってくぜ」

「その代わり、東條さんの指示にはちゃんと従って。勝手に出ていかない、約束してね」

「そうだよ、瞬。君は現状外を一人で歩ける状態じゃない。僕の元にいたほうが安全だよ?」

二人がかりで確認された瞬が不貞腐れたように黙る。

なんとなくその目を見れば理解していることはわかる、と安曇はその珍しい患者を眺めた。賢い顔をしている。犬種で言うならば、シェパード。

手懐けたら可愛いだろうな、とつい思った。

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