第62話 異世界ファンタジーと弱者男性
今日は仕事が休みで執筆もオフ。
一字も書いてない。
先日ツイッターを見ていたら
「異世界ファンタジーは弱者男性のポルノ」
という投稿があった。
それを見て「おれの評価とぜんぜんちがうな」と思った。
いわゆる純文学作品で引きこもりやニートを主人公にしたものはあまりない。
自分が知っているのは夏目漱石の『それから』とドストエフスキーの『地下室の手記』ぐらいだ。
漱石の『それから』は大学を出た二十代後半の青年代助が主人公。
ときは明治時代、帝国大学を出たら出世まちがいなしで、さらに当時の帝大生は今の大学生とちがってスーパーエリートというよりスーパースターである。
いったん大学に入学したらその名前が新聞に大きく出て、田舎の辺鄙な村の老人にまで自分の名前を覚えられるほど。
しかし代助は自ら出世街道を降りるといい年をして定職に就かず、親の金で一日中ぶらぶらして過ごし、やがて親友の妻と恋仲になる。
今でも批判されそうなキャラだが、代助が自分を揶揄していった「高等遊民」は明治の流行語になる。
代助の存在と生活が、富国強兵イケイケドンドンだった明治の人々に刺さったのだ。
ドストエフスキーの『地下室の手記』はタイトルでわかるように地下室にこもった引きこもりが主人公。
しかも若者ではなく、今日本でもよく話題になる中年の引きこもりである。
こういうところはさすがドストエフスキーと思う。
さらにいうと主人公が「自分を嫌っている知り合いのパーティーにのこのこついて行って延々からかわれる」場面が約五十ページ続き(!)、売春宿で主人公が売春婦に説教する場面がやはり延々数十ページ続く。
さらにその地獄のような風俗説教場面で読者が感動してしまう、これはおそろしい小説でもある。
ニートも引きこもりも二十一世紀になって突然生まれたわけではない。
今なら「弱者男性」とレッテルを張られるような人々は、昔から世界中にたくさんいた。
しかしその存在をみんな無視した。
無視しなかったのは夏目漱石とドストエフスキーの二人だけ。
二十一世紀になってインターネットが発達し、それに歩調を合わせるように異世界ファンタジーというジャンルが生まれた。
人々がずっと無視してきたニートや引きこもりに初めてスポットライトを当てたジャンルの誕生である。
音楽でいうとビートルズやローリングストーンズを生んだロックンロールに匹敵するジャンル、それが異世界ファンタジーだと自分は評価している。
今では信じがたいが二十世紀の半ばまで世界は「大人と子ども」のみで構成されていた。
「若者」はいなかった、というか無視されるか軽んじられてきた。
ビートルズやストーンズが登場して世界は若者を無視できなくなった。
異世界ファンタジーもそれに似た役目を果たした。
ニートや引きこもりの存在はそれなりに知られていたが、彼らを主役に据えた異世界ファンタジーの隆盛がなかったら、彼らに対する差別や偏見は今より進んだと思う。
『無職転生』でもっとも感動的なのは前世で生涯引きこもりだった主人公が、転生した異世界で、生まれて初めて一歩外の世界に足を踏み出す場面。
主人公は「やっと自分の足で外の世界に出られた」と感動するが、その感動はかつて生まれて初めてエレキギターをかき鳴らしたジョンやポールが覚えたであろう感動と、なんら変わりはない。
ポルノをバカにするわけではないが、その感動はポルノと呼ばれるものとはだいぶ性質がちがうと自分は思う。
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