第17話 頬の怪我

「クラウス! 来てくださったのですね」


 私の顔を見たクラウスの顔が険しくなる。


「怪我をしたのか?」

「ほんの少しだけ。でもそんな大した怪我では……あっ」


 クラウスは、私を庇うようして抱き寄せた。


「お、俺は何もしていない! こいつが勝手に……」


 父の焦った声が、だんだんと小さくなっていく。廊下の方から聞こえる声が大きくなったからだ。


「一体何の騒ぎだ」

「誰が暴れているって?」

「王家主催のパーティーで、なんて下品なの?」

「どこだ? 警備に知らせないと」


 騒ぎの元を探している人々の声が、父を黙らせた。

 クラウスはそんな父の態度をあざ笑うかのように、大きめの声でこう言った。


「子爵、皆の前で本当のことをお話しましょうか?」

「なんだと?」

「あなたとカレンの関係について。リドリー家でのカレンの扱いについて。公表すれば、どんな目で見られるでしょう? 子爵としての地位が危うくなるかもしれませんね?」

「くっ……」


 父は顔をしかめて言葉を詰まらせた。そして私を恨めしそうに睨めつける。


「ひっ……」


 そんな父を見た時、私は悲鳴を上げそうになった。父の顔に驚いたわけではない。

 父の心臓のあたりから、黒いもやのようなものが出ていたからだ。ドロドロとしたそれは、二手に分かれてクラウスの心臓と私のブローチに吸い込まれている。


(これが、クラウス達が言っていた負の感情のエネルギーなの……?)


 恐ろしい光景に思わず逃げ出そうとしたが、クラウスに抱き寄せられているせいで動けない。

 縋るようにクラウスを見ると、金色の瞳がギラギラと光っていた。


「今、大人しく引き下がれば、リドリー家のことは秘密のままにしましょう。どうですか?」

「ふんっ! 若造が調子に乗りやがって。俺はまだこいつの結婚を認めたわけじゃない。いくら成人したって、親の承認がなければ無効にできるんだぞ!」


 父が吐き捨てた途端、黒い靄がより一層濃くなった。よく見ると、それらは母や姉からも出ていた。

 見ているだけで気持ちが悪くなってくる。


(この人達、見えていないの? 自分達からおぞましい物が出ているのに。でも、何故か目が離せない……)


 父がヒートアップすればするほど、クラウスの瞳の光は増していく。その一方でクラウスの口調はずっと冷静だった。


「確かにそうですね。あなたには我々の結婚を無効にする力がある。では、どうすればカレンとの結婚に許可をいただけますか?」

「決まってるだろう? 金だ! 結婚の許可がほしければ金をよこすんだな!」


 父のその言葉を聞いたクラウスは、心底面白そうに喉を鳴らして笑った。


「ふっ、ご自分の立場を理解されていないみたいですね。あまり愚かなことばかり言っていると、全てを失いますよ。……さて、そろそろこの部屋にも人が集まってくる頃ですね」


 その言葉と同時に、部屋の扉が開かれた。

 そしてあっという間に何人もの人達が部屋に入ってきた。


「侯爵! 騒ぎがあったのはここですか?」

「お騒がせして申し訳ありません。どうやら野犬が入り込んだようです。もう追い払いましたからご心配なく」


 皆にそれらしく説明するクラウスの瞳は、もう光ってはいなかった。

 とにかくもう安心だと知った野次馬達は、ガヤガヤと安堵の声や警備に対する非難の声をあげたりしている。


「流石クラウス様ね」

「警備はどうなっているんだ?」

「野犬ですって、恐ろしい……」

「まぁ! カレン様が怪我をしているわ」

 

 気がつくと、また大勢の人に囲まれていた。


(人が多すぎる……あの人達は?)


 あの三人の姿を探したが、すでに人混みに紛れてしまったようだ。

 クラウスなら目で追えただろうが、わざと逃したのだろう。


「クラウス、この状況どうしますか?」


 他の人に聞こえないようコソコソと伺うと、クラウスがこちらを見て(任せろ)と口の動きだけで伝えてきた。

 そして皆に向かってこう言ったのだ。


「皆様、妻の手当がありますので、私達はこれで失礼いたします。後は皆様でお楽しみください。後日、披露宴の招待状をお送りします」


 では失礼、と言いながらクラウスは私を抱きかかえた。


「えっ……?」


 突然のことに戸惑ったけれど、クラウスが足早に進んでいくので、落ちないように大人しくするしかなかった。


――――――――――




 人気のないところまで来ると、クラウスが立ち止まった。


「三秒間、目を閉じろ」

「あ、はい」


 言われるがままに目を閉じて三秒数えると、もう屋敷まで戻ってきていた。私の部屋だ。

 ここ数日で見慣れた部屋に、安心感を覚えた。


「クラウス、あの……ありがとうございました。えっと、降ろしていただけますか?」

「あぁ」


 床に降ろされた途端、ブローチからティルが飛び出してきた。


「カレン! 怪我は大丈夫?」


 どうやらこのブローチには、本当にティルが入っていたようだ。


「ちょっと腫れただけです。数日で治まりますよ」


 心配そうな顔でこちらを見ているティルを安心させるように、軽く微笑んで見せた。


 頬は触れるとまだ少し痛かったが、口内が切れた訳でもない。

 父には何度か殴られたことがあるから、どのくらいで治るかよく分かっていた。

 

「見せてみろ」

「あっ、痛っ……いです。放してください、クラウス」


 クラウスが急に私の腕を引っ張って、顔を掴んだ。

 軽く抗議したにもかかわらず、クラウスは手を放すどころか、もう片方の手を私の頬に当てた。


 触れられた部分が、じんわりと温かくなっていく。


(一体なんなの? でも、温かい……)


 クラウスはしばらく手を当てていたが、不意にパッと離した。

 解放された私の頬は、痛みも腫れも引いていた。


「あ……治してくれたのですね。ありがとうございます」

「あぁ」


 素っ気ない返事だけれど、気遣ってくれているのが分かる。

 黒い靄を吸い込んでいたクラウスは怖かったけれど、今のクラウスは夫の顔をしているように思った。

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