ボールペンのインクはただの水だった

危機ロマロ

インクの色は

 学校で有名になっている都市伝説。『白いボールペン』。どこかの文具屋にそのボールペンはあって、そのペンで書いた願い事は必ず叶うらしい。


 白いボールペンは、持っている人が少ない分珍しく見える。けれど文具屋に行けばいくらでもあるわけで、見分けがつくかもわからない。


 そんなことは、僕には関係なかった。例え店の白色のボールペンの在庫を枯らしてでも手に入れてやる。


 僕の願いは一つだった。その願いを叶えられるのなら、犯罪にだって手を染められる。それだけの覚悟。


 春の訪れを告げる桜に、僕は独り寂寥感に浸ってしまう。年が重なるに連れて、記憶が遠くなっていくようで。


 生暖かい風に吹かれつつ、近所の文具屋に入り、真っ先にボールペン売り場に足を運んだ。


 白色のボールペンは比較的少ない。なんとなくわからないものかと、ぼんやりと並んだボールペンを見比べてみる。


 すると、一つだけ異質な色が見えた。


 ここのボールペンは、ご老人方が営む小さな店であるため、ペンの種類も少ない。そのため白いボールペンともなると二種類しかない。


 二種類ともグリップのゴムの色で何色のペンがわかるようになっており、そのペンも確かに白色のゴムが付けられていた。


 まるで他のペンがそれを隠すかのように壁となって並び、台の奥の奥にあるため取りずらかった。


 異質なそれは、インクが真っ赤だった。


 確かに白いボールペンのはずなのに、透明なプラスチックに透けて見える、真っ赤な血のような色。


 軽い立ち眩みを覚え、数歩その場から下がる。そして近くの試し書き用のメモ帳に波線を引く。その色は、確かに赤色だった。


「これ、何色のボールペン何ですか?」


 レジで本を読んでいた店員の老婆にそう聞くと、「白色だよ?」と心底不思議そうに答えられた。



 ペンを購入し、家の自室でノートにペンを走らせる。これがもし本物なら、願いが叶うのならと、ただ祈って。


 赤い筆跡でノートの中央に書かれた言葉。僕は一度、その誰にも言ってこなかったその願いを口にした。


峯岸凛音みねぎしりおんが、帰ってきますように。」


 なんとも非現実な願いだ。わかっていても頭のどこかでは希望を探してしまう。仕方がないだろう。それが残された者の、絶望からの逃げ道なのだから。


 すると、赤い文字のインクがどろどろと流れ始めた。そしてノートからも流れ出て、僕の足元は血溜まりのように埋め尽くされた。


 困惑する僕を置いて、インクは僕の体を伝って全身に纏わり付く。振り払う気力もなくただ動けずにいた。



 峯岸凛音との関係は特殊なものだった。


 八歳僕を置いて再婚相手と家を出ていった母。父は行方知れず。引き取られた親戚の家の一人娘が凛音だった。


 避けていたわけではないが、互いになんとなく不干渉を保っていた。最低限の会話で日常生活を送り、七年が経った。


 突然僕に相談があると言い、部屋に連れ込まれた。そして、自分の心の内を語った。


「私は家を出る。だからその手伝いをしてほしい。」


 彼女は家出を計画していた。何が理由なのかも知らない。あくまで僕が聞かされたのは親の銀行通帳を盗んできてほしいという頼まれごとだけだった。


 日頃の生活態度の良さから、全面的な信頼を置かれていた僕には、通帳を盗み出すことくらいお安い御用だった。


 そして、彼女は家出をした。


 玄関まで見送ったとき、まるで重りがとれたように晴れやかな表情をしていた。


 でも、まだ帰っていていない。仲が良かったわけでもないのに、なぜだろう。なぜこうも彼女の帰りを心待ちにしているのだろう。


 はっと意識を取り戻すと、僕はノートの前にペンを持って突っ立っていた。ノートには先程書いた文字が変わらなくあり、インクは乾ききっていた。


 一階のリビングで父はテレビを見ている。階段の途中から「ねえ」と声を投げ掛けたが無視される。聞こえなかったわけではないのだろう。


 話しかけてくれるなと言うように、父はテレビの音量を上げた。いつもこうだ。まるで僕をいない者のように扱う。


 いつからか変わらない父の対応。心に重くのしかかるものがある。明確に「嫌い」と言われたわけでもないのに。


 そして、思い付いた。右手のペンを強く握り締め、もう一度部屋に戻る。


 そして、ノートのページの空いたところに、なんとも言えない感情のまま願いを殴り書きした。


「父さんが、会話してくれますように。」


 先程のようにインクが暴走することはなかった。赤色の文字をまじまじと見つめ、なぜ赤いのかという疑問の解決に頭を働かせる。



 すると、視界が暗転し、真っ白になった。


 さすがに慌てていると、僕の前に誰かが現れた。真っ赤なインクに覆われたようで、姿は見えない。


「誰?」


 尋ねると、それは絶妙な間をおいて語り始めた。どこかで聞いたことのある声だった。


「白いボールペンに赤いインクだなんて、あべこべだよね。」

「は?」

「まあ、いいよ。君の願いを叶えるチャンスは、今ここにある。」

「ここに······?」

「そう。君は今からボールペンのインクを入れ換えるんだよ。」


 ろくに何も理解できないまま、話を続けられる。


「白いボールペンには、白いインクを。当たり前だろ?」

「一体何が······?」

「君は今から二年ほど前、義兄弟だった子を殺した。」

「義兄弟?凛音のことなら······、」

「違う。峯岸凛音ではなく、峯岸とおるだ。」


 峯岸、透?僕のことか?何が、どういう、殺し、凛音は、


「君は母親の過激な教育方針から逃げるために、家出をしたんだろ?」

「何を、言って、」

「母親は勉強がうまくいっていないと、暴力を振るった。人に見えないところにね。」

「高校生になり、君の行動範囲は広がった。そして三週間に渡る家出の後、通報をうけていた警察に捕まった。」


 僕、が、家出して、母さん、どこ、暴力止めて、あぁぁぁ、


「君が家に戻ると、真っ先に母親が抱きついていたね。心配したって涙を流しながら。」

「······」

「でも、君は見ちゃったね。母親のすぐ後ろのそれを。」


 あぁぁぁぁぁ、わか、らない、もう何も、


「それで、母親は逮捕。だから今家にいないんだよね。」

「もう知らない、わからないでは逃げれないよ。」

「君が見たものを思いだしな。」

「同時にその時の自分もね。」

「さあ、早く。」


 頭が冴え渡った。同時に見たくもない現実を理解した。まるで腐った皮が剥ぎ取られるように、真新しくもないいつも通りに戻ってきた。


「私は、峯岸凛音。峯岸透は死んだ。」



 あの日私が見たもの。それは透の死体だったんだ。私がいなくなったことに怒り狂ったのだろう。母さんは透を殺した。


 その日から私は全てから逃げようとした。だから、自分を覆い隠す仮面を用意した。それが透だった。


「おめでとう。」


 そう言って、それのインクは落ちていき、素顔が露になった。


「久し振り、透。」


 やはり、その正体は透だった。自分だった人間の声は忘れない。


「君は、仮初めの僕という人格のインクを捨てて、正しい色のインクに移された。」


 私は正直、正しい色なのかはわからない。外面に合った色が正しいとは思えない。


「私は、何色のインクかな?」

「さあ。それは自分で決めないと。覆い隠されていたあなたはやっと自由になったんだから。」


 へらりと笑って、私に背を向ける。ふらふらと歩いていくその背中からは、孤独すら感じられなかった。


 そして、私は思わず呟いた。


「綺麗な色だったよ。ありがとう。」


 目を覚ませばそこは、なんの代わり映えもない、いつも通りがそのにあった。



 一階に下がり、テレビからスマホに目を移した父に話しかける。


「父さん、凛音だよ。」


 そう言うと、先程とはまるで違う反応を示す。目があったのはいつぶりだろうか。


「透とはお別れしてきた。」


 すると、本当に小さな声で、「······そうか。」と返っていた。やっと会話ができていた。


 少し嬉しくなって、弾む足取りで階段を上り、自室に戻る。先程からこれの繰り返しな気もする。


 白いボールペンを探した。ノートに書かれていたはずの赤い文字ももうない。消えてしまったのだろうか。


 すると、足元でカンカラリと音がした。


 白色のゴムグリップ。確かにあのボールペンだった。


 中のインクの色が見えない。白色に戻ると踏んでいたが、そうではないのか。


 試しにペンをノックして、ノートにある文字を書く。そこでやっと気付いた。そして、なぜだか涙が頰を伝った。


「なんだ。ただの水か。」

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