レシピ・33「異界に残って〆うどん①」

「――海上保安庁の巡視船から、イルカの消失が確認された」


 …ショッピングモールの二階にあるショールーム。


 私の前でスマホから耳を離すのは、昨年発足された日米政府合同調査団の研究主任補佐官を務めるサオリ・へルン女史。


 彼女はそこまで話すと、先ほど他の隊員に連れられ外に出て行った井上青年の席へと目をやる。


「今回の件を入れて、異界から外に怪異に取り込まれた存在が出た例は三十七件――正直、遠野さんや千春の話を聞く限り、【空間製作委員会】の一員であった井上くんが、ここまで積極的に協力してくれるとは思っていなかったよ」


 そう語りつつ席を立つへルン女史に「…そりゃあ、二年前に私らが会った相手とは立場も環境も違うもの」と今や調査団の研究主任であり、今年の春に飛び級で大学院生となった千春が答える。


「両親の離婚から金銭面で困る前に協力を仰ぐ形でこちらが接触する…でも金塊になったはずの彼が二年前に戻った時点で生きていたとは正直思ってなかったわ――確か、金属の経年変化が二年後を示していたのが決め手だったんだよね?」


 千春の指摘に「ああ…そうだ」と、へルン女史は冷蔵庫からうどんの袋を出しつつ、そう答える。


「事前の調査で分かっていたからこそ【空間製作委員会】に入ったばかりの彼と接触し、最適な対応をすることができた――結果として彼経由で委員会についての情報も…創始者に体を貸す形で手に入れることができたからね」


「…異界で【順応】した人間の名を呼べば相手の人格を自分の身に降ろすことができる――正直ヤバい方法だよね、おじさん?」


 そう言いつつも食べ終えた椀を重ねる千春に「――まあ、一部神事で行われる【神がかり】に近いものだと私は認識しているがね」と、一応付け加えておく。


 ――自身の体に神霊しんれいを降ろす神がかり。


 古くは鈴などを鳴らしてトランス状態におちいった状態から行うものだが、ここでは相手の名を呼ぶだけで簡単に憑依された状態になってしまう。


「へルンはもとより室長のレポートにも書かれてあったし…さっきの話で創設者になった男も仲間が似たような体験をしていたそうだからね」


「――ただ、相手の精神とリンクした時間が長ければ長いほど、呼んだ当人の肉体にも負担がいくだろう。その状態で異界に長く居続ければ【順応】も進行していくだろうし、他の怪異にも狙われやすくなるからな」


 へルン女史はハサミで袋の口を開けつつ、そう付け加える。


「…まあ。そんな【順応】による情報の過密化を防ぐ役割を果たしていたのが、この異界にいる【即身仏そくしんぶつ】や【補陀落渡海ふだらくとかい】――土葬や水葬にされた、僧侶たちだとわかったのは。正直、驚きだったよ」


「そうだったのか?」


 私の驚きに「――うん、循環のプロセスとしてね」と、千春がキッチンで椀を洗いつつ、うなずいてみせる。


「この場所に人が入り込むと【異界化】が起きて【順応】し、土地と一体化する―― 一部、強い感情を持っていたものは怪異となり、外に出る願いが強いものは他の怪異と混ざりながら【エビス】のように空間に穴を開けて外へと出る」


 そう語るへルン女史に「母なる海はかえるべき場所…あの世ってイメージじゃあないもんね」と千春も白菜を切りつつ、付け加える。


「…ただ、私らが見つけた時点では【補陀落渡海】が外に向かう力が足りてなかったらしくてさ。鯨の骨を信仰とする【エビス】やへルンに取り憑いた子供達と合わさることで外に出ることができた可能性が高いって、室長が――」


 千春の説明に「なるほどな」と私は独りごちつつもの携帯コンロに点火したところで「…だが、昨年に突然隊員が私の祖母の村に押しかけて、イルカの骨を持っていったとも聞くが?」と責任者であろう千春に目を向ける。


「――うん。信仰心をエネルギーと仮定するとおじさんのお婆さんのいる地域にあった御神体の方がより確実に充電できていると考えてね」


 そんなことをしゃらりと言ってのけながら空のコンロの上に水入りの寸どう鍋を配置し、さらに鍋の置かれているコンロに白菜とプラスで切ったエノキを追加していく千春。


「案の定、寺の地下に安置されていた即身仏の前に置いた途端に合体して方々に散って行ったから。今は、異界中を泳いでいるのが確認されているよ」


「…私の祖母の地域信仰は充電のために存在したのか?」


 頭を抱える私に「――まあ。おかげで、【順応】した一部の人間の意識を外に出すことはできているからな」と、へルン女史はフォローを入れる。


「人の姿は保てずとも外に出ることは出来る――名を呼び、人の口を借りて語る過程で創始者の名前も知ることができたし…結果的に外に出たいという彼の願望も叶えることができたはずだ」


(…俺。創始者の人って、もっとすごい人だと思っていたんです)


 そのとき――ふと、私の脳裏のうりに席を立つ前の井上青年の言葉がよみがる。


(でも、あの人がここに来るまでの経緯を見ていたら、切なくて――いや、あの家に迷い込む前からの記憶のことなんですが…その、あの人が過ごした人生って)


 


 父親の経営難から離婚の決断が下され、母親に親権が移るなか金銭的な面から退学を迫られることになりかけた青年。


 大学時代から高い展望を持つも就職難にい、妥協だきょうのうちに自らの過去を踏みにじり、形だけの代表として担ぎ上げられ、人を辞めてしまった男。


(――異界に来たことを除けば二人の人生はありふれたもの…だが、そう考えてしまう私の感覚自体、間違っているのだろうか?)


 追加された白菜やキノコ。

 じりじりと、沸騰していく鍋。


 ――そう、世の中は鍋と一緒だ。


 あらゆる人間が集められ、世間の荒波や上からの重圧という熱を常に加えられ、しんなりとぐったりと日々を諦めたように過ごしていく。


 それが昔の私の姿であり、世間的に見てもそれが普通と思っていたが…


「私、聞いたんだけど。井上くんさ委員会のあったあの大学から別の大学に編入を希望するらしいね」


 千春が鍋の様子をうかがいながら、そう続ける。


「当時は、誰もいない部室で委員会のメールを受け取って、そのときから自分が選ばれた人間だと思っていたそうだけど―― その時には視野が狭まっていたって、これからは経済とか政治とか勉強して、世の中のことを知るつもりだって」


「…それは、良い選択かもしれないね」


 水入り鍋の底に浮かぶ小さな泡。

 その様子を眺めつつ、へルン女史はしみじみ答える。


「世間を知る中で本当に自身のしたいことを見つけ、それに邁進まいしんする。そこに早い遅いは存在しない――千春の両親にも当てはまることだ」


「…あの日は、ひどかったなあ」


 そんな女史の一言に、ため息をつく千春。


「家に帰れば、洗濯ものは放りっぱなし。ゴミ出しも無ければ、台所には作ったと思しき袋乾麺ふくろかんめんのクズが散らばってて。どの鍋の底も黒焦げで…ああ、思い出すだけで泣けてくるわ」


「――で、泣きながら連絡してきた千春にこちらもすぐに駆けつけて、しばらくは家族ごとこちらの用意したホテルで生活」と、話を続けるへルン女史。


「そのあいだに千春くんから聞いた内容をもとに、ご両親の仕事内容と就業時間について詳しく調査をさせてもらって…」


「…結局。両親とも私らと同じ、へルンのところに務めることになったと」


 へルン女史に相槌あいづちを打つ形で、千春は大きなため息をつく。


「毎日、共働きで夜遅くまで残業して…なのに、二人合わせて一月生活水準ギリギリの給与なのはおかしいって、おまけに私まで公正取引委員の人にもっと早く連絡するようにと叱られちゃったもの!」


 天に向かってえる千春に「まあまあ。これ以降は二人を雇った役場と工場には監査が入ることになったから」と、なだめるへルン女史。


「そのうえで海洋学者を目指していた千春のお父様には【エビス】の行方を追う海洋調査隊の一員として。お母様には司書の資格を活かした、異界関連の書籍を保管する部門についてもらって――正直、こちらも助かっているからね」


「…ならいいんだけどさ」と、唇を尖らせつつも「そいやさ。おじさんも二年前は大変だったって聞くけど?」と鍋を弱火にしつつ、こちらを見る千春。


「え、いや。こちらは特に」


 私は思わず視線を逸らすも「――そうそう。正直、どちらの処理も大変だったんだよ」と、へルン女史が付け加える。


「何しろ、当時の証言では帰還した日の翌日に公民館に関わる人間…町内会長やセンター長を含めた緊急会議に呼び出されて、今までの勤務態度や仕事の遅延ちえんをなじられた挙句あげく主任パートから助手バイトへの格下げと減俸げんぽうを言い渡されたそうだから」


「え、それヒドくね?」


 声を上げる千春に「まあ、こちらも無断欠勤をしたことは確かだったし…」と弁明べんめいしようとするも「――いや、福祉の大坪さんから聞いたよ」とへルン女史。


「その話がおかしいと大坪さん経由でこちらに話が来て、フタを開ければ雇われた時点で単身で生活できるような給与でもなかったうえに、貯金も切り崩していたし――挙句、労基ギリギリの超過勤務にも関わらず年休も手付かずで…」


 そこまで話すと、千春も顔負けなほどに大きなため息をつくへルン女史。


「福祉の担当も昨年は二人だったのに一人減らされた上で回していたそうだし。よくこの仕事量で倒れなかったと大坪さんは驚いていたからね――すぐに溜まった休みを清算して、こちらの職員として雇わせてもらったよ」


「――そのうえで空いた人員には労基を通した調査員を派遣して、適切な給与の見直しと必要な人数を職場に配置するよう上に提示した…と?」


 千春の質問に「…そうだね。まあ、実際にそうなるのは、もっと先の話になるだろうが」と上を向くへルン女史。


「そも、役場も中小企業も金銭的に余裕がないところが多いからね。そこから国の補助にこぎつけるまで段階が必要だし、その間まで、システム自体を改善する余地がどれだけあるか…母の口添えがあるとはいえ、時間のかかる話だろうね」


「時間と言えば…へルン。そろそろ、うどんを入れる?」


「ん、そうしようか」


 そうして沸騰した鍋にうどんを入れつつ「…そうそう。では、安全管理部長を担当している遠野さん」とやや冗談めかし、へルン女史はこちらに顔を向ける。


「今日だね。私がいなくなる日は?」


 それに「…ああ」と私は答え、うどんのタイマーを三分にセットする。


「――今回は、それを確認することを踏まえての再会だ」

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