4.2
それから五分後。僕が教室に到着して時計を確認すると、時刻はちょうど八時になる頃だった。いつもより十分ほど遅い到着だが、クラス内では早い方ではある。
そんな僕よりも早く到着していた今峰は、教卓前の席に座って女子の友人達と話していた。僕は教室の後ろから入ったので、こちらを気にする様子はない。
これは……式見が到着するまでにちゃんと事情を説明しておくべきだろうか。そもそも僕がよくわからないプライドと恥ずかしさから説明を避けていたせいで、今峰との齟齬が生じている部分もある。
今峰をこれ以上失望させないためにも――真面目な僕が式見を出席させる役目を任されたと伝える。僕を真面目と称してくれる今峰なら、今更言う真実でも信じてくれる……はずだ。
「おっす、蒼一」
しかし、今峰に伝えようと決心したところを、登校してきた京本に阻まれる。隣に来て挨拶した直後、なぜかいきなり肩を組まれて動けないようにされた。
「な、なんだよいきなり」
「蒼一。今日は式見ちゃんについて大事な話がある」
「今日はじゃなくて、最近はいつもその話題だろ」
「そっちはただの雑談で、今日のは本当に大事な――」
京本が何か言い終える前に、今度は式見が教室の前の方ドアから入って来る。僕の到着から約五分後だから、ちゃんとタイミングを計ってくれていたのだろう。
でも、それより気になったのは……式見が教室へ入って来た時のクラスメイトの反応だ。
二週間ほど前は、式見曰くお節介な女子が駆け寄っていたが、最近は朝のホームルームにも出席するようになっていたので、教室に来ることは驚かれなくなった。
ただ、式見の入って来た途端、数人が式見を横目に見ながらひそひそ話を始める。
噂の対象で言えば、先に入った僕も標的にされてもおかしくなかったのに、さっき僕が教室へ入った時は、特に反応がなかった。僕が鈍感じゃなければ……式見だけがよそ者のように見られている感覚だ。
当の本人である式見はその状況を気にすることなく、かといって以前と同じように僕へ挨拶しに来ることもなく、自分の席に座ったけど――
「蒼一。話の続き、いいか?」
京本は僕に話しかけながらも目線は式見の方を見ていた。しかも普段とは違う……トイレで僕を心配してくれていた時の空気で。
「俺も直近で聞いた話なんだが……式見ちゃんについて良くない噂が流れてるらしい」
「それは……しゃぶらせ事件のことではなく?」
「いや、別に蒼一が関わってる件だけじゃなくて……なんつーか、俺が知っていた話はごく一部だったらしくて……全部は覚えてないが、とにかく色々言われてるんだよ。悪い方面にな」
「……いつからそんな話が?」
「……中学生の頃からだとよ。でも、最近また言われるようになったのは……病弱なのは嘘って疑惑が出たせいって話もある」
京本はそう言うが、病弱設定に関しては残念ながらその通りである。だけど、急に中学生の頃の噂まで引っ張って来られるのは、何だか様子がおかしい。
『……まぁ、一番嫌だった小学生時代と比べたら可愛いものだけどね』
いや……急に言われ始めたわけじゃないのか。京本が最近知っただけで、式見に対する悪い噂は元から一部で流れていたんだ。それがしゃぶらせ事件以降、知らなかった人にまで広まってしまった。今までは式見に好意的だった京本まで――
「だから、蒼一には言っておかなきゃいけないと思ってな。式見ちゃんを――守ってやれるのはお前だけだって」
「……えっ?」
「なんだよ、その意外そうな顔は」
指摘された通り僕は少し驚いていた。話の流れからして、京本も悪い噂から手のひらを返していると思っていたから。
「実際、今一番式見ちゃんと仲が良いのはお前だと俺は思ってるし、余計な噂が入る前に知らせておきたかったんだ。まぁ、周りに流されるタイプじゃないのはわかってるが、一応な」
「いや……教えてくれて助かった。ありがとう」
「おうよ。まったく、一年生の時からあんなにか弱そうだった式見ちゃんの病弱が嘘だなんて、噂にしてもあんまりだぜ」
そこそこ長い付き合いなので、京本が冗談で言っているわけじゃないと僕はわかってしまった。
けれども、今日ばかりはその純粋さを否定できない。それがあるから、京本は友達のことを思って動けているのだろうから。僕も見習わないと――
「柊くん」
その声にハッとなりながら顔を上げると、僕の席の前に――今峰が立っていた。
「ちょっと話があるのだけれど……大丈夫?」
登校中に会った時とは違って穏やかな雰囲気で。いや、しゃぶらせ事件が起こる前だと、僕と話す時の今峰はこれが普通だったのだが……先ほどとの違いに僕はなぜか胸騒ぎがした。
「う、うん。大丈夫」
「それじゃあ……中央テラスに行きましょう」
二年生の教室がある二階から一階の中央テラスまでは一分程度で着くけど、朝からそこで油を売る二年生はあまり多くない。三年生が眠気覚ましに外の空気を吸うために出る程度だ。
だから、わざわざテラスまで行くのは……教室で誰かに聞かれたくない話だと予想できる。
式見のことは気になるが、今峰への説明責任がある僕は頷いて付いて行く。あわよくば、今峰の話が終わった後に、今までの釈明ができるかもしれないという期待も持ちながら。
「柊くん。まずは……今まで変な態度を取ってごめんなさい」
テラスに着いて開口一番に今峰は謝罪する。
「な、なんで今峰が謝るんだ。悪いのは僕の方なのに」
「ううん。柊くんが悪いだなんて全然思っていなかったの。私は最初から柊くんが式見さんに巻き込まれているのはわかっていたし。それなのに、感情が整理できないまま柊くんに八つ当たりするような感じになってしまって……本当にごめんなさい」
確かに今峰は最初にそう言ってくれたけど……突然の話に僕は誤解されていなかった嬉しさよりも困惑する気持ちの方が勝っていた。
「全然気にしてないよ。それよりも僕も事情を説明してなかったから、そのことは謝りたい。ごめん、今峰」
僕は頭を五秒間ほど下げて謝る。
「やっぱり真面目だね、柊くんは。その言葉は受け取っておくけれど……本題はそこじゃないの。もしかしたらさっき京本くんから聞いたかもしれないけれど……式見さんの噂について」
「あ、ああ。聞いたよ。どうしてそんなひど――」
「柊くん、式見さんとはもう関わらない方がいいわ」
「えっ……?」
今峰は僕に一歩迫りながら真剣な表情で言う。
「柊くんから式見さんについて初めて聞かれた時、実は言葉をだいぶ濁してしまったの。その時点では私も噂程度にしか聞いていなかったし、式見さんともそれほど関りは深くないから、言うべきじゃないと思った。でも……こんなにも長い期間、柊くんを巻き込むようなことになるなら、最初からちゃんと言っておけば良かった」
「い、今峰……? 何を言って――」
「式見恵香は病気と嘘を付いて授業をサボりながら、校内で隠れて色々しているって。未成年なのに煙草を吸ったり、無暗に物を壊したり……あげくは不良や悪い大人と繋がりあるって言われてる。元天才少女か何か知らないけれど……そんな人に真面目な柊くんが振り回されるのは可哀想だよ」
口調は穏やかなのに勢いに任せて喋った今峰からは、静かな怒りを感じた。
「違うよ、今峰。それは噂に尾ひれが付いただけで、式見は……」
「柊くんは人が良いから騙されているの。そうじゃなければ柊くんが――」
「今峰!!!」
僕が少し大きめの声を出すと、今峰はようやく止まってくれた。これ以上喋らせてしまったら……今峰は僕が聞く必要のない言葉を、今峰の口から聞きたくなかった言葉を言っていたかもしれない。
「……ありがとう。僕のことを心配してくれて。確かに……式見は病弱とは言えないし、今まで授業をサボっているのも本当だ。だけど、それ以外の悪い噂は、式見は絶対にしていないよ。それだけは断言できる」
「で、でも、実際に柊くんは式見さんに絡まれたせいで迷惑をかけられて……」
「確かにあの日、式見に噛み付かれた直後はそうだった。でも、それから色々話した僕にはわかる……式見は悪い奴じゃないって」
「柊くん……」
「だから……僕のことはもう心配しない欲しい」
なるべく柔らかい口調で言おうと心がけたけど、受け取った今峰がどう思ったかはわからない。実質的には今峰に対する拒否だったから。
僕には……今峰が式見のことを必要以上に悪く思わせようと言っている風に聞こえてしまった。
それが僕は悲しくて、悔しくて、残念で――少し失望してしまった。今峰が京本と同じような言葉をかけてくれると、勝手に信じていた僕が悪いのだが。
だけど、今峰が僕を心配する気持ちは本物だから、僕はお礼を言って、今峰がもう干渉しないで欲しいと言うしかなかった。
「戻ろう、今峰。もう始業の時間だ」
僕の呼びかけに今峰は黙って首を縦に振ると、そのまま少しだけ距離を置いて教室に戻って行った。
やはり式見との距離が近づくと――今峰との距離が遠のいてしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます