3.5
柊家では一時間ほど食休みをすると、お風呂の時間帯になる。父さんが夜の勤務でなければ最初に入るけど、それ以外は僕・母さん・朱葉の順番で入っているようになっていた。
だが、今日は客人である式見が最初に入ることになったので――次に入る僕はシャワーだけで済ませた。というか、お風呂に入る選択肢がなかった。
こんなことを考える方が気持ち悪いと思われるだろうが、式見が入った湯の中に自分も浸かるのが色々な意味で抵抗があったから。
そんな簡素なバスタイムを終えて、お風呂場から出て来た時、朱葉が話しかけてくる。
「あっ、お兄ちゃん。式見さんは暫くリビングに待機して貰ってるから」
「わかった。でも、本当に手伝わなくて大丈夫か?」
「大丈夫。わたしだってお兄ちゃんに見られたくないものあるし」
「僕の部屋には勝手に入ってシャツを持っていくのに」
「あはは。でも、お兄ちゃんの部屋はいきなり入られて困るような状態じゃないでしょ?」
「なんでそう言えるんだよ」
「お兄ちゃんならしっかり隠してるか、スマホに保存してるかだろうし」
朱葉は何の遠慮もなくそう言ってくる。それは……僕じゃなくても男子はだいたいそうしているはずだ。いや、そもそも見られたくない物をソレ系だと思い込まれているのは遺憾である。
「それに、お兄ちゃんは式見さんの相手をしなきゃいけないからね」
「まぁ、うん……すまんな、朱葉」
「なんで謝るの? わたしもお泊りされるのは久しぶりでちょっと楽しいくらいなんだから」
朱葉は微笑みながらそう言った後、二階の自分の部屋に向かって行く。
結局、式見は朱葉の部屋に泊まることになり、朱葉は室内の片付けを始めていた。泊めることを許可したのは僕だから申し訳なさがあるけど、朱葉の方は全く気にしていないらしい。母さんに連絡を入れていた時点で、朱葉もこの流れになる予感はあったのかもしれない。
だったら僕は――朱葉の言う通り、散々僕を困らせている問題児の相手をするしかない。
「いいお湯だった?」
「……まぁ、いつも通りだ」
リビングのソファーに座ってくつろぐ式見に、僕は嘘で応える。
「そうなの? 私の後に入ったからちょっとくらいドキドキしてたかと思ってた」
「式見。伝わってないのなら直接言ってやるが、僕はちょっと怒っているんだぞ」
「……悪かったわよ。試すような聞き方して」
そう言った式見はちょっとだけ申し訳なさそうな表情だった。
だけど、さっきの丸投げにはイラっとしてしまったので、僕は簡単に許さなかった。
「僕に判断を委ねなくてもあの流れなら普通に泊まれてた」
「だから、ごめんってば」
「何が狙いなんだ」
「何か狙ってると思ってるの?」
今度は意地悪そうな表情になる式見。
それこそ、また僕を試そうとしているように感じた。
「……ミルクティーをこぼしたのはわざとだったのか」
「さぁ? ソーイチは疑ってるの?」
「……何もかも出来過ぎているから。式見の都合がいいように」
それは今日の仕打ちに対するちょっとした恨みを込めていた。
すると、式見は急に落ち着いた表情になり、
「ソーイチ、隣に座ってくれる?」
と、言ってくる。
「は? なんで……」
「ソーイチが気になってること、全部話してあげるから」
怪しく誘う式見に僕は少し警戒するけど、従わなければ話が進まないので式見から少し距離を置いてソファーに座る。
しかし、式見はわざわざ身体が当たりそうな距離まで詰めてきた。お風呂の後も変わらず僕のシャツを着ているので心臓に悪い。
ただ、式見は次にもっと心臓に悪いことを言ってくる。
「じゃあ、まずはソーイチの指を咥えさせて」
「はぁ!? からかうのもいい加減に……」
「これからの説明に必要なの。先っぽだけでもいいわよ?」
「咥える範囲の問題じゃないわ!? 家族がいる状態でそんなことできるか!」
「大丈夫よ、一瞬で終わるから。それともソーイチは指を咥えられることに何かいかがわしさを感じているの?」
式見はまるで僕が悪いかのように言ってくる。本来なら僕の言い分が正しいはずだけど――現在の式見の恰好とシチュエーションのせいで、いかがわしさを感じている罪悪感から強くい言い返せなかった。
「ほ、本当に必要なんだろうな」
「うん。ちなみに咥えた後、ちょっと舐めるから」
「なん……もう好きにしろ」
「あっ、人差し指がいいわ」
「何の違いがあるんだよ……」
「小指だとなんか物足りないじゃない?」
「知らんわ!」
そう言いながらも僕は渋々式見に右手を差し出す。
「……残念。この時間でも爪は綺麗ね」
「お風呂入ったばっかりだからな(入ってないけど)」
「まぁ、いいわ。じゃあ、一応……いただきます」
何が一応なんだと思った時には式見は僕の手を引き寄せて、ゆっくりと人差し指を咥える。
三度目のそれは当然ながら慣れるものでもないし、自宅のリビングでアブノーマルな行為をしていることから今まで一番の緊張感があった。
僕が式見の唇の柔らかさや生暖かい息を感じる中、式見は舌先で僕の人差し指の先をゆっくりと舐める。
決して口には出せないが――身体には何とも言えない感覚が走った。
そして、式見が僕の人差し指を引き抜くと、微笑みながら僕を見つめる。
「……うん。もうわかってはいたけど、やっぱり間違いなかったわ」
「前も言ってたけど……どういうことなんだ?」
「それはね、ソーイチの身体が……私の好きな味ってこと」
「あ、味!?」
「いや、正確に言うと、味と匂いだけど」
正確に言われても驚くことには変わりない。僕は思わず自分の身体を嗅いでしまった。一応シャワーを浴びて髪も体も洗ったから変な匂いはしていない――と思う。
式見はそんな僕の行動にクスクスと笑いながら見てくる。ま、まさか式見は――
「人を喰らう人ならざる者だった……?」
「……ソーイチってたまに非現実的なことを喜々として言うよね」
「す、すまん」
「ううん。私はソーイチのそういうとこ好き。残念ながら私はグールでもヴァンパイアでもないけどね。ただ……普通の人と違うところはある」
さらりと何か言われた気がするが、これ以上式見の話を邪魔するのは良くないと思って僕は敢えて追及しなかった。
「前にも一回言ったんだけど、私って色んなところが敏感で、味や匂いも過剰に感じ取ってしまうところがあるの」
それは確か――式見が僕の視線を感じていた時に聞いた話だ。言われるまで忘れていたが、そういう意味で言っていたのか。
「それでね、人は匂いから相性の良い遺伝子を判断するっていう話、聞いたことない? 私はそういう理屈や考え方を信じるタイプなんだけど、これについては私自身凄く実感があってね。小さい頃から私が嫌いな匂いの人は性格や話が絶対に合わない人だったし、私が好き匂いだと思った人は気が合う人なの。そんな私があの日に流れでソーイチに接近して、指を咥えたら……私が好きな味と匂いだった」
「それは……単なる思い込み……ではなく?」
「思い込みだとしても私の実感があるなら間違ってないって言えるでしょ?」
「じゃあ、式見がその次の日から馴れ馴れしくしてきったのって……」
「うん。気が合う人だって確信があったからっていうのはある」
「いつも人の指を咥えて判断してるのか」
「ううん。それは爪の垢の話からやったことで、さすがに私も味で相性の良し悪しを判断するのは初めてだった。だから、ソーイチは私にとって初めての男」
「誤解を生む言い方だ」
「それだけじゃない。私が他人の匂いを感じてすぐに相性がいいと思ったのも……ソーイチが初めて」
二回目の言葉には真剣みがあったせいで、今度は上手く言葉を返せなかった。
式見が今までどれだけの人と関わってきたのか知らないけど、その中で僕が初めて……か。
「そ、そうか……」
「……引いちゃった?」
「……まぁ、全く引かないと言われたら嘘になるな」
だけど、式見が言うのなら間違いではないという気持ちもあった。悪い意味ではなく、式見は僕が今まで出会って来た人の中で、どこか違う空気感を持っているから。
それに、僕は自分の容姿が優れていると思っていないし、人に誇れるような特技はないという自覚もある。そんな僕に式見が近づいてくる理由が、匂いとか遺伝子とかの突拍子もない話なら逆に納得できる。
「……正直に言うとね。ソーイチの指に噛み付いた時は、暇つぶしに巻き込んでやろうって感じだった。私はクラスでの地位なんてどうでも良かったし、騒ぎを起こすことでソーイチの名前を出したアラマッキーも私に呆れて、放っておいてくれるかと思って」
「マジかよ」
「マジよ。アラマッキーに聞く前から柊蒼一ってクラスメイトが真面目で大人しそうな男子だってことは知ってたから、ちょっと巻き込んでも怒られないと思ってたし」
「いや、あの時の僕は普通に怒ってたぞ」
「うん、そこは予想外だった。こんなに主張できるタイプだったのかって。だけど、ソーイチの味と匂いがわかった上で話したら、本当に気が合いそうだと思った。だから、アラマッキーの提案にもすぐに乗ってみたの。もちろん、爪の垢を狙ってたのも本当だけど」
爪の垢の話は本当なのかよ、というツッコミを式見は待っているようだが、真剣に聞いていた僕は、そう応えるのが正解なのかわからなくなっていた。
「私の話は一旦ここまでにして……次は私がソーイチに聞きたいこと、聞いていい?」
しかし、僕が自分の考えをまとめる前に、式見は首を傾げならそう言ってくる。
「僕に……?」
「ソーイチが言える範囲だけでいいし、言うのが嫌なら断ってもいいから」
「……何が聞きたいんだ?」
「ソーイチは……自分が友達と思える人、いる?」
そう聞いた式見の表情は今までにない臆病さを含んでいた。たぶん、さっき聞こうとして引っ込めてくれたのは、このことだったのだろう。
それに対する答えは――今更、見栄を張っても仕方ない。
「――今はいないよ」
「――キョウモト君は?」
「あいつは中学からの知り合いで、席が近くになることが多いからよく話すけど……僕から友達と言える自信はないよ。でも、たぶん京本に同じ質問をしたら、あいつは僕のことを友達って言ってくれると思う」
「――じゃあ、イマミネさんは?」
「今峰こそ知り合いでしかない。というか、今は色々あったせいで、知り合いから外されている可能性もある」
淡々と説明しているつもりだけど、口にするたびに羞恥心から僕の鼓動は早くなっていく。
要するに――僕は今、自分に友達と言える存在がいないと自白しているのだ。
でも、僕はこの場を凌ぐためだけに、今言われた二人を嘘でも友達とは言えない。
僕にとって友達という言葉は凄く難しい。
京本が知り合い全員を友達と言ってくれたとしても、僕みたいに学校外ではほとんど遊ばない奴と、毎週のように遊ぶ奴が同じ友達であるはずがない。
かといって、後者を親友に格上げしてまで僕は友達という称号が欲しいわけじゃなかった。
だったら、僕は友達じゃなくて、クラスメイトや同級生、あるいは中学からの知り合いに収まっていた方がいい。
これは――僕以外にも真面目で優秀な人がいるから、僕は褒められるところがないと思っているのと同じ考え方だ。自分よりも上の存在がいると、僕は同列に並ぶのを忍びなく思ってしまう……面倒な性格だった。
だからこそ、式見にとって本題とも言える最後の質問は――僕を困らせた。
「じゃあ――さっき、ソーイチママに卵焼きをあげてる友達がいたって話は?」
「それは――」
「……本当のことを言っても大丈夫だから」
式見はそう言いながらも僕から目を逸らす。その台詞はいつも通りの式見であれば、自信たっぷりに言っていたと思うが、今の式見はどこか弱気な感じだった。
僕が言う本当のことが、自分が望まない答えである可能性を感じていたのかもしれない。
「……式見との関係を家族に説明するのは難しいから、友達と言うしかなかった」
「……そっか。そうだよね」
「ただ、それなら――卵焼きをあげた事実を話す必要はなかったんだ。弁当が学校でどんな風に食べられたかなんて普通は知るすべがないんだから。それをわざわざ母さんに言った理由は――母さんが作ったものが気に入られていることを教えたかったからというのもある」
そこまで言い切って僕は一度息を吐いて喋りを止める。
その間、式見は急かすことなく、僕の言葉を待ち続けた。
いつもこれくらい大人しかったら、余計なスタミナを使わないで済んだのだろうけど……それは式見らしくないと思う自分がいた。僕はそう思ってしまうくらいには、式見をよく見て、長く過ごしてしまったのだ。
「……でも、もう一つ理由があるとすれば――式見のことを誰かに話してみたかったんだ。余計な勘繰りをしない家族に。僕が楽しく話している――存在を」
だから、きっと式見には正真正銘の気持ちを話すべきだと思った。
そもそも僕と式見は――始まりは見張り見張られる関係で、普通のクラスメイトらしくなかった。
式見が今日初めて僕に妹がいるのを知ったように、初歩的な話題すらまだ話し切っていない。
でも――式見と過ごしたこの二週間は、僕は悪くないと思っていた。
それどころか、周りから楽しそうにしていると思われるほど、僕はこの日常を謳歌していたのだ。
普段は家族に友達のことを話せない僕が、友達という言葉を難しいと思う面倒くさい僕が、それ以外の表現が思い付かなかったくらいには――
「……私もね。ソーイチみたいに話す相手はいなかったけど……ソーイチと同じこと、思ってた」
そんな僕の言葉に対して式見は――これまで見た中で一番柔らかい表情で応える。
「でも、私は友達なんてできたことないから――その……今日は最初からソーイチの家に遊びに行くつもりで――でも、ここまでスムーズに来られて家に上げて貰えるとは思ってなくて――リビングに来た時は結構緊張してたの。だから……ミルクティーはシンプルにこぼしちゃった」
「……式見も緊張するのか」
「私のこと何だと思ってるのよ。私は……一部を除けば至って普通の十六歳と六ヶ月の美少女」
「病弱な美少女じゃなかったのか」
「それは世を忍ぶ仮の姿。ソーイチの前では……何も隠さなくていいから」
式見の素直な反応に僕は少し照れてしまう。
「だけど、万が一あるといけないと思って、今日は下着だけコンビニで買ってきて良かったわ」
「なるほど、あのコンビニ袋はそういう……って、待て待て! 何の万が一だよ!?」
「だって、男の子の家に泊まるなんて初めてだったから、ナニが起こるかわからないし」
「全然僕のこと信頼してないじゃないか!?」
「アゲハも言ってたでしょ? 男子なんてみんなスケベだって」
「それなら泊まろうとするなよ!」
僕のツッコミに式見はクスクス笑いを見せる。
せっかく純粋な気持ちになっていたのに、いつもの雰囲気に戻って……いや、これでいいのか。式見の質問に対する答えは、もう出ている。
普通ならそれをわざわざ口頭で確認し合う必要なんてないんだろうし、今の僕と式見の会話も直接的な確認はできていない。
だけど、敢えて言うなら――僕と式見はようやく友達になれた。
その事実が思ったよりも嬉しかったのか、僕の体は安堵と幸福感に包まれていた。
「ソーイチ。話はまだ終わってないわ」
だが、そんな僕とは対照的に、式見はもう一度空気を切り替えて言う。
「なんだよ。まだ聞きたいことがあるのか」
「ううん。今度はまた私から教えたいこと。でも……きっとこれはソーイチが知る必要がないと情報」
式見がわざわざそう注意したのは――恐らく知り合って最初の方に言った僕の発言のせいだ。
ここまでも十分式見のパーソナルな情報だったと思うけど、それ以上の何かが式見にはある。
「それを敢えて教えたいのか」
「うん。ソーイチには知って欲しい。だから、本当にここから先はセーブできないわ」
ふざけているようでありがたい忠告だった。現実では事実を知っても電源を落として無かったことにはできない。
それができたらどれだけ楽なんだろうか。
「式見が聞いて欲しいなら、僕は聞くよ」
ここまで聞いていた僕が言えるのは、その台詞しかなかった。でも、この時の僕は、式見を友達として認識してから最初のお願いを断りたくなかったというのもある。
「ありがと、ソーイチ」
その判断が――正解だったかどうかは別として。
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