<第四話> 深い森の中で


森の木々から零れ落ちる陽光。

それはより黄金に。そしてより赤みを帯び始めて。

そんな陽光が木の根と草に覆われた大地を照らす。


ややあって、獣の遠吠えが聞こえ始める。

それは少年も良く知る獣。

狼。

夜の眷属が自分の領域を誇示して声を上げ始めているのだ。

野生の牙を、人類は未だ恐れている。




そんな声が森の開けた場所に鎮座する、いわゆる『聖なる岩』と大人が呼ぶ大岩に縄で縛りつけられているロランの耳にも聞こえる。

少年ロランはうつむいていた。

疲れたのだ、身を大木の幹に拘束している縄をほどくのに。


もごもごと聞き辛い、すすり泣きが聞こえる。

ロランの妹の、アリアだ。


くそ。

くそったれの畜生。

ロランは思い、吐き捨てようとするが声が出なかった。

猿ぐつわである。

もう十分足掻いた。

感じる味は最悪だ。

まだボウフラの浮く泥水の方がマシである。


ロランは思う。そして自分の横に縛られている、妹のアリアを見る。

アリアは青白い顔で、口に猿ぐつわを嚙まされて。

ロランの野生に輝く目と違い、光を失った目をしている。

身動き一つしないのは、アリアも縄をどうにかしようと動こうとし、一向に変わらぬ現状に絶望していたためだろう。

もう、疲れたのかもしれない。


そして、兄であるロランも疲れていた。


そう。その結果はどうか。

そんなことは決まっている。


兄妹両名とも、縄が深く食い込んで取れず、半ば命をあきらめていたのだ。

だが、零れ落ちる陽光がロランに活力を与える。

もう終わりだと思う反面、この兄は希望の光を捨てきれないのだ。


くそ。


またしてもロランは思う。

俺がめげてどうする、と。

俺がアリアを助けないでどうするんだ、と。

そう、兄妹ともどもこの逆境から抜け出すんだ、最後の時まで足掻くんだ、まだ、まだ終わってないのだと言い聞かせ。


『山神様とその眷属』はもういない。

ロランの師であった冒険者の男は確かに『殲滅し、滅ぼした』と言っていたからだ。

彼らの実力の片鱗をロランは知っているし、なにより彼ら冒険者らは輝いて見えた。


そして幼かったロランに刻まれている記憶では、彼らは強く、嘘などつかない英雄であること。


これが絶対の思いである。

彼らは『山神様』、つまり伝説の白狼の一族を全て屠ったに違いないのだと。


「ぐむむ」


ロランは今一度、自らの体を縛る戒めをどうにかすべく、力の限り体を動かす。

妹アリアの縄も同じく、ロランは早く縄をどうにかしてあげたいと思い身を揺する。

だが、もがけばもがくほどその縄は、深く食い込み離れなくなっていく。

アリアも兄に倣うも、すぐに動きを止めた。

そして再びすすり泣く。


なんという縛めの硬さか。

そして縄をうった村人の技の優れていることよ。


もがけばもがくほど締まる。


──畜生、ちくしょう、このバカ野郎!


と、ロランは思うも二人ともに打つ手なし。

不幸なことに、あの冒険者も縄抜けの方法など教えてはくれなかった。


ただ、なんとなくわかる。

いや、バカでも気づく。

尖った石か、鋼の角を縄に押し付け、繰り返し動かすとよいだけなのだ!


──もちろん、両手両足が拘束されてなければ、ロランはいち早くそうしたであろう。


だが、縄は手に足に、そしてもちろん胴に。

しっかりと結ばれている。


だから体ごと揺すぶって、縄を角に当てて何とか切ろうともがく。



で。


そんな時だ、先の獣じみた──まさに獣そのものかもしれないが──声が聞こえたのは。

またしても獣の遠吠え。

今度は先ほどと違い、より大きく。


──そう。


危機は近づいているのだ。


ロランは息をのむ。

アリアが泣き止み目を見開く。


バカな、とロランは思った。

山神は、山神様はその眷属と共に滅びたはずなのに!



空の赤みが強まる。

珍しくも雲一つない空。

そしてその空はだんだんと暗くなり……。


万事休す。

森の支配者が変わる。辺りが暗くなってゆく。

人の時間が終わり、森の住人、獣たちの時間がもうすぐやってくる。

目を光らせて、彼ら森の生き物たちは餌を探しては徘徊するのだ。



──そして。


地面が、大地が何度も揺れ始めた。

小刻みに、リズミカルにだ。


なんだかとても重いものが近づいてくるような、木々を押しのけ枯葉を踏みしめ下草を踏みつける、そんな音に不安を覚える。


ロランの頭をよぎったのは巨大なる獣。

しかし、狂える山神様は彼ら、あの冒険者たちがその眷属もろとも滅ぼしたのではなかったのか。


──獣は縄張りをもつ──少年は、村の狩人から聞いた言葉を思い出す。


ならば、山神様の抜けた縄張りを奪った、森でも力ある獣か化け物……容易に予想は立った。



そんな中、一陣の風がロランの鼻をくぐる。

ロランは身を固くする。


間違いない。獣の匂い。

近づいてくるもの。存在。

それは臭い、とても臭い野獣の匂いだ。


正面。

ロランは目を見開く。


太い幹を持つ木の陰から飛び出してきたもの。

それはロランの体の三倍はありそうな銀の色の狼だ。


獣が唸る。

それは地獄からの使者、冥界への案内人の声。


「Grrrrrr……」


殺される。

ロランは思った。

それは狼である。巨大な見上げるほど巨大な狼。

兄妹は見る。

その獣の細部まで。

銀の、まさしく山神様の系譜。

もしくはその存在が残したもの。

実に美しい、その神性は。


冒険者たちの、討ち洩らし。


ありえない。

ロランは思うも、事実は曲げられない。

絶体絶命の危機には変わりないのだ。


そう。

今、そんなことはどうでもいい。

ほら、奴が四肢を沈める。

今にも動けぬ身のロランに跳びかかろうと。


ロランは思う。アリアは思う。

死ぬ、死ぬ、死ぬ、食い殺されると。

兄妹は思った。


「うんぐうんぐ!?」


ロランの耳を打つ、アリアの切羽詰まった曇り声。


「んー! んー! んん、んん、んー!!」


そして狂ったように折り返す、兄ロランの声。

兄妹の、ロランの周りの時間が止まる。

そしてゆっくりと流れ始めたかと思うと、目前の巨狼が咆哮を上げ地面を蹴った。


ロランはとっさに目をつむる。

アリアのくぐもった悲鳴が聞こえる。


『もうダメだ』


とロランは思う。

ロランはたまらず目をしっかり閉じた。

もう、嫌なものは見たくないと。

そう。

ごめんアリア。

そしてどうか、痛い時間が短くて済みますように、と。


風切り音が続いた。

一回、二回。


狼が三段跳びでもしたのだろう……と、ロランは命の危険を前に、なぜか呑気なことを思う。


また風切り音。

一回、二回。


今度は先ほどよりより近い。

しかし、獣臭い息も、鉄錆の苦みも、体を引きちがれる激痛も、いつまでたっても兄妹に襲い掛かることはなく。

ロランは覚悟して待つ。

しかし待てども待てども痛みは来ない。

ああ、噛みつかたのに痛みを感じることすらなく俺は死んだのか。


──?


ロランは異変を感じる。

そして、風きり音の後に甲高い悲鳴が上がる。

ロランのものでも、アリアのものでもない。


獣臭い。血の匂い。

ロランの鼻が瞬時に応じた。


そして間髪入れず、それ以上の疑問を挟む暇もなく、ロランは聞いた。


──キャイン!


との狼の悲鳴を。


──キャン、キャウン……。


と。

信じられぬ音。


そしてガサガサ、ガサと、どんどん静まりゆく獣の森を駆ける音。


おかしい。

何が起こっている?


ロランの頭が回転し始める。

考えろ、考えろ。

それには情報だ。

そうとも、きっと自分たちを取り巻く状況に変化があったのだと。


ロランはうっすらと目を開いた。

まずは、視覚である。


そう、そんな彼、ロランの目に映ったのは──。

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