<第二話> 選ばれし者、尊き者たち
少年の生まれた森を囲む深き森。
その森を今、不気味な唄声が満たしていた。
革を緩く張った太鼓よりも低く。
かと思えば、極楽鳥の鳴き声よりも高く。
「る、る、るらる、る、る、るらる」
そう、それは初めて聞く者の耳に強く弱く沁み込む、聞くものに戦慄すら覚えさせる音程。
恐ろしいことにそれは人の男衆が鳴く声である。
その歌は、新たに神に仕える者を送り出し、神にそれを知らすためのものだという。
神は『山神様』と呼称されていた。
で、少年だ。
籠に乗せられた少年の揺れる体。
訂正しよう。
少年ではなく、少年ら。
少年の隣には、不釣り合いにさっぱりした衣類に今も縋り付いている少女が一人。
黒髪。青の目。
やや、痩せている体。
彼女も普段着と違う、ハレの衣装を着せられていた。
だが、どれだけ身なりや身だしなみが良くなっても……詰まるところの、あの兄妹だった。
そして聞こえる「る、る、るらる、る、る、るらる」との独特な旋律の、背筋に冷や汗が流れかねない男衆の鳴く声。
そんな男衆の唄声を除けば、森の中はいつもより静かだ。
鶏の声も、虫の音も、獣の雄叫びも聞こえない。
野生動物は正直だ。
人間、しかも多くの集団に向かって狩りを仕掛けようなどと言う愚かな生物はいない。
しかもこの怪奇音。
獣や鳥が逃げ出さない方がどうかしている。
そして、少年たちは感じる。
籠の中だというのに、森の緑の匂いが漂う。
「る、る、るらる、る、る、るらる」
との不気味な唄を潜り抜け、少々汗臭くなったそよ風が、緑を運んで来てくれているのを。
ああ、そうとも。
人間以外、動物以外は普段の自然なのだ。
で。
「お兄ちゃん」
何度目だろうか。
小声で彼女が少年を呼ぶのは。
その小さな体は、少年と同じく痩せていて。
いつもなら小汚いボロを着て、髪の毛などガザガザであったのに。
その外見も中身も選択された、幼さが惹く美しさが際立っている。
そう。
今日に限って、村人らの手により丹念に体全身を洗われて、粗末だが小奇麗で色鮮やかな服を着せられて。
まあ、それは目の前の少女、少年の妹だけではなく、少年自身もそうなのだが。
そう。
彼らは選ばれたのだ。
不思議である。
村から不要者、とされていた兄妹が、今日に限って必要とされているのが。
揺れる籠。
外は見えない。
男衆の声の重なる聴き慣れぬ旋律はそのままに。
それは森の匂いが強くなってからと言うもの。
その唄い声に耳が鳴れたのか、違和感は小さくなり。
少年は己の首筋を流れ散る、一滴の汗を感じる。
見れば、どことなく眉を下げた少年の妹もそうだった。
形容できぬ圧迫感。
男衆の歩く音すら禁ずる森の支配者の影。
何か、いるのだ。
何か、見張っているのだ。
何か、人の気配を遠巻きに観察していて──。
と、少年らの思いは暴走する。
沈黙は神経を疲れさせる。
少年は心なし、生唾を飲み込む。
勇気を出し、話しかけていた。
「なあ、冗談だろ? 本当に、本当に俺たちをどうするんだよ!? お婆様のあの話、本当なのか?」
「……どうもしない。祈れ。それがお前たちにできる唯一の事だ。全てはお婆様が天から声を授かった。俺たちはお婆様の心に従うのみ」
「なっ……本当……だったのかよ」
「今までも、そうだったろ?」
帰ってきたのは恐ろしく低い、感情を殺した声である。
村の若衆の一人が答えてくれた。
その通り。
少年少女の兄妹は、今、森深く、神域へ向けて籠で移動中なのである。
己の運命は知っていた。
そう。問いかけるまでもない。
お婆様にじかに聞かされた。
だが、この期に及んでも、その言葉が本当か確信が持てないでいたのだ。
そう、少年はこんな言葉が聞きたかった。
例えば──『冗談だよ』と。
──だがしかし。
『山神様』に捧げられ、幸少なかった短き人としての生を終え。
今後は神の手により永遠の命を頂き。
──兄妹は神の眷属として永遠の生命を得るのだと。
年老いた『巫女』であるお婆様は言っていた。
顔も体も皺くちゃな、百二十歳は越えているのではないかと言う噂の老婆だ。
『神に身も心も捧げる──それは選ばれし者だけに許された、最大の徳の表現なのだ』と。
少年にはわからない。
もちろん、少女にもだ。
彼らにそれを教えてくれる親は、兄弟はいない。
ただ、自らの運命はなんとなくわかっていたようだ。
漠然と知っている、闇夜の静けさ、締め切った雨戸の向こうから漏れ聞く囁き。
それが全てを物語る。
そう、それは白羽の矢。
「う、嘘だろ?」
弱き者から〇〇ばれる。
兄妹の住まいである、大木の股のウロ、ささやかな茅葺の庵には矢が刺さるほどの屋根や壁板の厚みもない。
少年が朝起きて、扉代わりのカヤのムシロをどけると、燦々と照り付ける太陽に照らされて、立派な拵えの一本の白羽の矢が地面に突き立っていたのだ。
意味は知っている。
だが、それは昔の事……。
漏れ聞いていた言い伝えでは、もうそれは、過去ではなく歴史のベールの向こう。
だが、事態は残酷だった。
全ては、彼らの身内が一人もいないこと。
それが心なし、送り出す村人の心に安心感を与えていたのだ。
だから、先日までの村人は今までの扱いが嘘だったように、兄妹に対して優しかった。
村長の大きな家に生活拠点を移されたこと。
なんでも美味しいものを食べることができたこと。
ある程度のわがままを聞いてくれたこと。
「お兄ちゃん、これ美味しいよ!」
「だな!」
「それに、みんな優しいよ!」
「だな!」
「夢、じゃないよね!?」
「夢なもんか!」
「うん、うん!」
少年は笑顔で答えた。
見れば少女は涙を流しつつ、果実をほうばり、少年にあれこれと喜びの声を向けている。
そして何より、いつもの冷たい視線と、追い払うような態度を見せる村人が一人もいなくなっていたのである。
この年、不作だといいうのに兄妹の前に広げられたご馳走の数々。
兄妹二人喜んで食べて、いつのまにか寝ていて、そして今は籠の中。
兄妹が村長の家に連れていかれて三日目の早朝だった。
そう。
兄妹は揺れる籠の中で目を覚ましたのだ。
──うん、わかってる。本当は。
未だ幼く、ともすれば少し抜けている妹はともかく、師である冒険者に鍛えられた少年の方は、ある程度自覚していた。
『現状に迷ったら、疑え。そして考えろ。そして、最良の未来を掴め』
師であった、あの冒険者の言葉が蘇る。
──うん。
十数年ぶりのお婆様、すなわち巫女の託宣。
『山神様』が眷属欲しさに村人に人を要求したなど……。
──でたらめに違いないのだ。
そう。少年にはわかる。
ただ単純なことだ。
飢饉や日照りが重なり、口減らしが必要なだけなのだと。
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