第353話 千利休死す

 西暦1596年6月(天正23年5月)。泉州佐野で千利休が亡くなった。現代においては茶聖として知られ、侘茶を完成させたという絶対的な評価だか、改変された世界線では、そこまでの存在となっていない。


 最大の理由は、史実において織田信長や羽柴秀吉が行なった御茶湯御政道を織田信孝は採り入れなかった事による。織田信孝は茶の湯に一切関心を示さず、茶会も行わない。信孝は千利休と会う事さえしなかった。


 信孝と側近たちが、茶の湯へ背を向けた結果、大名たちも追随し、熱は醒め、急速に萎む。さらに追い打ちとなったのは天正18年(西暦1590年)の堺仕置だ。


 これにより、堺の会合衆は幕府に対する反抗的組織と位置付けられ、解散させられた。また、過去における堺銭鋳造の責任も問われ、貿易都市としては完全に終焉を迎えたのである。 


 現在、堺は銃器や鉄製品、泉州や紀州の魚取引、綿糸や綿織物の取引、造船などで、再興されたが、かつての有力商人は堺から追放の憂き目にあい、各地へ散った。その大半は没落している。


 千利休は本来商人であり家業は魚の卸しや、それに付随するものだが(どのような形態かは不明)、堺仕置以降は泉州佐野で隠居していた。そのため、千利休が政治的な権力を握る事もなく、名声も限られている。


 史実では利休七哲として知られる細川忠興、蒲生氏郷、高山重友(右近)なども、茶の湯へ昏倒せず、千利休に対して、距離を置いていた。


 茶の湯は大名、公家、商人などの間で細々と行われているが、ステータス的な価値は見る影もない。その象徴が名物茶器であろう。似たような物が明国より大量に流入した事もあって、価値は暴落。バブルは弾け飛んだ。

 

 茶の湯がかつてのステータスや勢いを失う一方で喫茶文化は盛り上がり、各種の茶店は星の数ほど存在する。天秤棒の屋台に始まり、質素な茶処、少し凝った茶房、高級な茶荘や茶館、いかがわしい店の類いである水茶屋や茶楼、または茶屋など、様々な形態があり、繁盛していた。


 茶の湯がかつての輝きを失う一方で、喫茶文化の発展と進歩は著しい。煎茶、玉露、かぶせ茶、玉緑茶、番茶、焙じ茶、玄米茶、紅茶、烏龍茶、普洱茶など、多種多様な茶が出回っている。


 さらに、砂糖や豆乳入りのラテ(羅弖)が大人気の上、茶飯、飲茶、申の刻茶など次々に茶絡みのブームが起きていた。マカロン(麻果崙)などの茶菓子も発展している。菓子だけでなく、茶絡みでは、パンや煙草なども流行っていた。


 その上、茶匠や茶師などといわれる存在も登場。茶の種類や産地に精通し、美味しい淹れ方や飲み方も熟知している。今や庶民憧れの職業となっていた。


 ラテや紅茶を飲むためのポットやカップなども高級品が人気を集めている。通常の絵柄は分担作業や版を押したものなどだが、有名絵師による特注品は名物茶器程ではないにしても、芸術品として驚くような価格だ。


 いまや富有な層における茶会は高級な茶荘の離れで、絵や生け花などを愛でながら、特注カップなど使い、高級茶を飲むものだ。


 手の込んだ菓子も沢山並べられ、着飾った人たちが話しながら、楽しく飲食する。庶民や商人にとっても街なかの茶房は大事な情報交換の場だ。

 

 武士、浪人、芸人、遊女、僧侶、遊行僧、学者、商人、行商人、職人、絵師、武芸者、侠客たちにとっては自身を売り込む格好の場でもあった。


 本来の歴史における17世紀、ロンドンにおけるコーヒーハウスと同じ様な機能を備えており、欠かせない存在となっている。


 このような清濁混ぜこんだような喫茶文化は織田信長亡き後の日本を席巻した。格式や伝統において従来の茶道というべき茶の湯より下の扱いであったが、喫茶文化に革命をもたらした幸田家は茶に関する書籍を刊行。


 さらに茶師の育成やライセンス(免状)を発行するなどした結果、知識と技術は瞬く間に広まった。この時代に師弟関係もなく特殊な知識やノウハウが広まるというのは画期的である。


 ライセンスを持つ茶師たちはソムリエ・コンクール(現代でいうならば)のような競技会へ出場し、優勝するのが目標だ。権威ある茶の競技会で勝った者は茶匠などと称される。


 この茶匠が問題だ。茶匠は伝統的な茶の湯の茶人より茶そのものについて精通している。茶の品種・産地、製法、蒸らし方など体系的に学んでおり、茶人を凌駕する程だ。


 しかも、ソムリエのような表現や言い回しも駆使するため、そのへんも茶に対する並々ならぬ造詣の深さを醸し出している。権威ある競技会へ呼ばれる事も名士たちにとっては名誉となっていた。


 例えれば、街の喧嘩自慢が確固たる技術を学び、経験積んだ本物の総合格闘家とリングで対戦するようなもの。茶師の存在が一般へ浸透すると、茶の湯を馬鹿にする風潮となったのは致命的だった。


 茶人は様式美や哲学を最後の拠り所とするものの茶房・茶荘・茶館は外観・内装・調度品・女中の服装など、実に凝っている。店によってテーマやイメージがあり、こだわりに満ちていた。


 大坂では五徳が5の付く日に催す大きな申の刻茶会へ呼ばれる事は武家の女性垂涎の的となっている。将軍の御台所である竹子も参加するため、これ以上ない舞台だ。


 こうして室町時代、一世を風靡した茶の湯も完成と同時に渋い趣味へ追いやられつつあった。茶の湯に秋風が吹くなか、千利休はこの世を去ったのである。


 

◆千利休

西暦1522〜1591年。本名は田中与四郎。利休は居士号であり、諱は宗易。新田氏流里見一族と伝わる。利休の祖父は室町幕府第8代将軍足利義政の同朋衆であった。魚屋(ととや)という商家のに生まれた。今井宗久、津田宗及を含む3人は茶湯の天下三宗匠とされる。羽柴秀吉から切腹を命じられた。しかし、子孫は三千家(表・裏・武者小路)として残る。



千利休→第83話、第48話参照

堺→第74話参照

抹茶ラテ→第55話参照

煎茶→第120話参照

飲茶→第148話参照

 

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