歯車と蝿の虚実

朧(oboro)

歯車と蝿の虚実

 視界の端で黒い虫が飛び回る。

 ぬるい水道水を飲み干して最後の煙草に火をつけた。


 芥川龍之介は存在しない歯車で名文を書いたが、俺は文豪ではないし見えるものも視界を埋め尽くすほどに回る半透明の歯車なんて文学的なものには程遠い。

 初めて飛蚊症ひぶんしょうの症状が出た時は無いものが見えることにぎょっとして眼科に駆け込んだが壮年の医者は、あなたくらいの年齢になるとよくあることですよ、と「加齢による飛蚊症について」と大きく書かれた薄っぺらいリーフレットを半笑いでよこしただけだった。俺くらいの年齢ってのはなんだ、馬鹿にしやがって、と瞬間的な怒りが湧き上がったが34歳というのは言われてみればそれなりの年齢ではあるし実際のところ頭痛や腰痛も新卒の頃より酷くなっていた。ああこれが中年というものか、体にガタが来る年齢に俺もなったのか、と徐々に納得しかけていたある日の朝、俺は布団から起き上がれなくなった。


 ガタは心にも来ていた。


 あれよあれよと言う間に鬱病の診断がくだり仕事ができなくなり俺は会社をクビになった。俺みたいな底辺の人間を雇う会社は休職だの労災だのの話ができるようなマトモなところではなかったということだ。もちろん労基や弁護士に泣きつけばどうにかできたのだろうが、何もかもがどうでもよかった。諾々と退職の手続きをして粛々と引き継ぎをしてミジカイアイダデシタガオセワニナリマシタと全部を終わりにした。クビが決まった後にジタバタしたところで疲れるだけで得るものは無い。クビも人生5度目となれば慣れてくるものだ。


 ローテーブルの灰皿に灰を落とす。

 煙草を吸っている間は視界の虫どもは少し減る、気がしていた。


 どうにも人間社会に向いていないのだろう、どの仕事もなかなか続かなかった。自分なりに必死になってはいるし全く結果が出ない訳でもないのだが、費やした時間の割に成果が低いと言われれば反論の言葉がない。要領が悪いというのか不器用というのか、考えてみれば学生時代のアルバイトですらどれもこれも長続きしなかった。正社員として安定した収入を得るなど高望みがすぎるのかもしれない。これは学生時代に唯一続いたアルバイトことコンビニの深夜シフトに帰るべきか。深夜勤は常に人が足りないので舌打ちされたりため息をかれたりはしたがクビになることはなかった。もうそれしか無いのか。煙を吐くついでにローテーブルの対面にイマジナリーギャルのリナちゃんを座らせる。

「なあ、リナちゃんはどう思う?」

「知らんし」

 リナちゃんは何年か前に「心にギャルを飼うと人生が楽になる」と聞いた俺が頭の中に住まわせ始めた非実在女子高生だ。想像上の友達をイマジナリーフレンドと呼ぶなら想像の中にしかいないリナちゃんはイマジナリーギャルと呼ぶのがふさわしい、というわけである。俺の想像が十割で作られているため、日焼けした肌とハイブリーチの金髪ロングに殺傷力の高そうなネイルアートを施した長い爪でストラップがジャラジャラついたガラケーにいつもせわしなく何かを入力している。もちろんパンツの見えそうなミニスカートにルーズソックスだ。どう考えても現代のギャルでないのは分かっているが、俺にとってのギャルとはこういうものなので仕方がない。

「つかオッサンの学生時代っていつなん」

「大学卒業が……11年前?」

「マジウケる」

 低音の平板アクセントで言い放つリナちゃんはガラケーから視線を上げようともせず無表情だ。「クラスの中心になっている派手めの女子」にいい思い出の一切無い俺が描き出したイメージなのでリナちゃんは俺に冷たい。友達フレンドには決してなれない。たぶん頭に住まわせていても人生は楽になっていない。

「でも確かになあ」

 十年一昔とも言ったものだし、最近はコンビニも外国籍の店員がほとんどだ。もしかすると深夜勤は人が足りないというのも一昔前の感覚なのかもしれない。深夜勤ならクビにだけはなるまいなどと甘いことを考えている俺なんか舌打ちされてため息を吐かれたうえでクビになる可能性すら考えられる。コンビニの深夜勤をクビになる34歳、言葉にするとなかなかおつらい。

「つかなにイソーローなのにタバコ吸ってんの」

「だって家主も煙草吸うし……」

「せめて換気扇の下かベランダで吸えし」

「俺は気にしないからいいよ」

 この暑い中スーツを着込んでご丁寧にネクタイまで締めている家主こと夏目が俺の隣に座りながらにこにこと言った。


 夏目は実在成人男性だ。俺が新卒で最初に入った会社の同期で、こんな俺と10年以上も付き合いを続けてくれた奇特な男だった。同期の中で真っ先に首を切られた俺を気の毒がってたびたび連絡をよこしてくれて、俺がクビになるたび自分も安月給だろうに飯を奢ってくれて、今回のクビでは家賃滞納でアパートを追い出された俺を自分の部屋に居候までさせてくれた。それも俺から頼んだわけではなく、なんかほっとけないんだよ、と向こうから申し出てくれたのだ。俺は逆立ちしたって他人にここまでのことはできないし、三回生まれ変わったってこの恩を返し切れる気がしない。それでも夏目はいいよいいよとにこにこ笑うばかりだった。


「俺も部屋で吸うからねえ」

 しかし夏目はとうに加熱式に切り替えていたので紙巻の俺よりヤニやにおいは少なかったはずだ。いや煙を吐くのは同じなんだからもしかすると大した違いはないのか。

「どっちにしろ加齢臭にヤニ臭はシャレにならんべ」

「うるせぇ」

 煙を吹きかけてリナちゃんを消す。考えてみれば夏目フレンドがいるのだからリナちゃんはもういい。もういらない。それにこの部屋に漂っているのは加齢臭などではない。


 風呂に入るというのはあれでなかなか重労働なのだと俺はこのところ思い知っている。風呂だけではない、歯を磨くのも、飯を食うのもそうだ。あれらは実のところ小さな決断の連続である。風呂に入ると決める、立ち上がる、服を脱いで洗濯カゴに入れる、風呂場に入る、お湯の温度をみる、頭を洗う、など、など、など――それら全てに「今からこの行動を行う」という決断が伴うのだ。普通に生きていれば意識することすらないこの小さな決断が精神を病んだ俺にはひどく重かった。風呂に入ろうと思ってから立ち上がるまではおろか、服を脱いでから風呂場に入るまでにさえ時間がかかることもある。そうして決断に疲れるうち、しまいには風呂に入ろうと考えることすら嫌になってくる。しかし髪は脂でべたつき自分の体から悪臭がし始める中で「風呂に入らない」こともまた決断であり、どちらにせよ思考力はどんどんと削られていく。ジリ貧のどん詰まりだ。


 こうしている今だって結局、死ぬという決断ができなかったから生きているだけにすぎない。


 フィルタぎりぎりまで燃え進んだ煙草を揉み消し、次を吸おうと箱を手に取ったがからだった。そういえば最後の一本だと思った覚えがある。一縷の望みをかけて灰皿をかき分けるがどの吸殻もほとんどフィルタしか残っていなかった。金がないのは分かっていることなので吸えるだけ吸うのはもう癖になっている。

「煙草もいいけど、病院は行ったの」

 隣に座る夏目が言う。無職になっただけで鬱病が治るはずもなく、医者からはしばらく通うよう言われていた。出された薬はとうに飲みきったが、今や煙草を買う小銭も捻出できない人間に病院代や薬代が払えるはずもない。できる返事は沈黙だけだ。

「だめだよ、ちゃんとお医者さんに診てもらわないと」

 お金なら俺が出すって言ってるじゃない、と続くのが定番のやり取りだった。

 住居費食費光熱費その他もろもろ生活に必要な出費の一切を支払っていない寄生虫の身でどの口がそんなことをと我ながら思うが、夏目から現金を受け取るのには抵抗があった。血の繋がりも何もない人間にそこまでされては立つ瀬がないという申し訳なさと、やはり、それはあまりに自分がみじめだという思いが僅かにあった。

 10年以上同じ仕事を続けた夏目と、同期でも真っ先に首を切られた俺。地味でも堅実に生き続けた夏目と、なにひとつ上手くいかない俺。損得勘定も何もなく放っておけないというだけで援助の手を差し出せた夏目と、温情に縋るばかりのくせをして劣等感をこじらせる俺。

 同じ年齢、同じ性別、同じ人間のはずなのにこうまで違うものかと見せつけられるようで苦しかった。手の中で煙草の空き箱がひしゃげていく。

 飽きるほど繰り返したやり取りだ、この後に続く言葉はいつも一言一句変わらない。

「そうじゃないと」

 そうじゃないと、

「俺みたいに」

 俺みたいに、

「死んじゃうからね」


 ――死んじゃうからね。


 隣に座るイマジナリーの夏目から視線を外して背後のベッドを振り返る。

 現実の夏目の死体に蝿がたかっていた。


 夏目は突然死んだ。時間の感覚を失っている俺が昼過ぎに目を覚ましたら夏目がベッドにいて、仕事はいいのかと聞こうとしたら冷たくなっていた。

 予兆ならあった。夏目はこのところ寝る間もないほど無茶な勤務時間で働いていた。夏目は真面目で良い奴だが、結局のところだ。俺を雇うようなまともじゃない会社に入社してしまい、困っている人間を放っておけないお人好しの夏目は辞めることもできずにまともじゃない働き方――働かされ方――をするしかできなかったのだ。


 夏目は死ぬ数日前から頭痛と肩こりが酷いとぼやいていた。

「肩こりは心臓発作の前触れとか言うぞ」

 病院に行けよ、と続けようとしたがお前も行くなら行くよと言われる可能性がよぎって呑み込んでしまった。呑み込んで、そして寝てしまった。

 病院に行けと言っていれば、眠らずに何か異変に気づいていれば、冷たくなった夏目を前に俺はほとんど恐慌状態だった。もう生きていていい理由がない、台所で包丁を手に取って、喉を切ろうとして、でも見つけた人がもしも夏目が俺を殺したと思ってしまったらどうしようと包丁を投げ捨てて、

「どうしようリナちゃん」

「知らんし」

 イマジナリーギャルのリナちゃんは俺に冷たい。

「……夏目、どうしよう。どうしたらいい」

 俺はその場にイマジナリー夏目フレンドを作り出した。俺の記憶の中にいる夏目をそこにいるかのように描き出した。

「なんか、ほっとけないんだよ。気にしないで。いつまでもうちにいていいから」

 そうだ、夏目は、にこにこしてそう言ったんだ、だから、俺はここにいればいい。それでいい。もう何も考えたくなかった。決断にはもう疲れていた。


 部屋には腐臭が漂い、夏目にむらがる蝿は日に日に増えてきている。

 そのうち、芥川の見ていた半透明の歯車のように、俺の視野の半ばを塞ぐようになるのかもしれない。芥川の歯車は非実在で、俺の蝿は実在だけれども。


 視界の端で黒い虫が飛び回る。

 火をつけるべき煙草は、もう無い。

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