第15話 ケッコンの意味
悪魔と契約したシスターが、今夜、黒夢病の患者たちを歌で目覚めさせるらしい——
噂は瞬く間に修道院からあふれだし、リンデバウムの街を激流の勢いで駆け巡った。
敬虔な信者の集う街である。それと同時に、オズクレイドの人柄が反映されたかのように華やかで愉快なことを好む人々が多い。
そんな恐ろしいシスターは街から追放してほしいと訴える者、ぜひ今夜その歌を聴かせてもらえないかと願いでる者、ザッハトッシュ修道院は祭事のような混乱を見せた。リンデバウムの花びらは、盛り上がりに歓喜するようにいつもよりも激しく降り乱れる。
そのなかを渦中の人間がふらふら出歩けるはずもなく、クラリスは夜が訪れるまで宿舎にある自室に閉じこもることとなった。
夕暮れが舞いこんでくる窓辺に肘をついて、いまだあくせく駆けまわる修道女たちを申し訳ない気持ちで見おろす。けれどどうにも自分事という実感が湧かず、こんな事態になっても司祭たちが自分を止めにくることはないのだから
部屋の角に、最後の赤い花びらが溶ける。
気配がして隣を見ると、窓ガラスに背を向けてコクヨウが立っていた。腕組みをして、つまらなそうに壁のほうを見ている。
「コクヨウ」
「ん、……あ」
目が合ったことで、自身が発現していることに気づいたらしい。
(ということは、もうじき行かなくては)
だがその前にひと時、コクヨウと過ごしたいと思った。
「あと半刻……なにか、話をしてください」
陽が沈んだとたん冷えこむ空気と共に、手指までもが冷たくなっていく。いまになって緊張が押し寄せてきたらしかった。
白い息を漏らしたクラリスの肩を抱き寄せて、コクヨウは掠れた声を耳もとに落とす。
「なにかって」
身体の芯に火を灯されたようだった。
指先どころか全身から汗が出そうになる。触れているコクヨウの体温だけではない。鼓動のたび、心臓からじわりと熱が広がる。
「な、んでも……」
「じゃ、あんたの思う『夫婦』ってなに」
「え」
「それらしくねぇって、考えてたろ」
読んでいたらしい。
クラリスは慌てて首を横にふった。
「き、気にしないでください。そもそも私たち、そういう意味の夫婦じゃないでしょう」
「そういうってどういうだよ」
「だから、契約とかではなく」
「契約の対価としてのケッコンじゃ、夫婦になったって言えねーの?」
あれ、と首を傾げる。
なにか話が食い違っている。
「契約の対価……? あなたは、契約のことを結婚と呼んでいたのではないの?」
「契約は契約だろ。あんたは人間どもを救いたいって願った。で、俺はあんたとケッコンすることを対価にそれを叶えた」
「……あなた、私と結婚したかったの?」
「ハァ? いまさらなに言ってんだよ。俺、ずっとそう言ってただろ」
たしかにそう言っていた。
むしろそれしか言わなかったから、こうして誤解が生まれる結果になったわけである。
クラリスは愕然としてコクヨウを見上げた。まつげが小刻みに震える。衝撃はなにもケッコンが結婚だったことだけではない。
(だって、それならコクヨウは私のことをその、そういう意味で好意的に思っているということで……私、気づかなかったとは言え、これまであんなに雑に彼からの告白を……)
そこでふと、新たな違和感を覚えて、柔和な垂れ眉が寄せられる。思い出すかぎりずっとコクヨウは結婚を迫りつづけてきていた。記憶の果てはクラリスが物心ついたころだ。
相手は人間ではない。彼にとっては年齢など些細なことなのかもしれない。だが長いあいだたった一人のきょうだいのように思っていた心が、勝手に裏切られたように感じてしまう。
「こ、コクヨウはいつから私のことを、その、想ってくださっていたのでしょう」
「思うってなにを」
「れ、恋愛感情を……」
きょとんと、琥珀の瞳が見ひらかれる。まるで知らない言葉を耳にしたかのように。
「ケッコンは、家族になるってことだろ」
いつも斜にかまえた言動ばかりの男が、しごく真面目な顔をしてそう言った。
「そ、そうですね……?」
「そうですね、じゃねぇよ。病めるときも健やかなるときも、ずっと一緒にいることがケッコンだろ。なんでレンアイカンジョーなんだ」
そのときようやく、クラリスはとんでもない事実に気がついた。
クラリスがそうであるように、目の前の美丈夫は、女子修道院育ちなのだった。
周囲には既婚者どころか、恋愛関係にある男女すら皆無だった。色も恋もない楚々とした生活のなか、それでもときどき、『結婚』に関わることはあった。——結婚式だ。
教会で行われる結婚式に司祭と出向いて、幾度も手伝いをした。その場にコクヨウも当然のように立ち会っていた。彼にとっての『ケッコン』は、そこで見たすべてだ。つまり血の繋がらない男女が、家族になる儀式。
それでも普通は、どこかで察するはずであった。家族になりたいという思いが、恋愛感情の延長にあることを。クラリスは、文字の読み書きを習ったときに童話で知った。お姫さまは最後、必ず王子さまと結婚するのだ。
(……コクヨウが読んでいたはずがなかったですね)
脱力したクラリスを、コクヨウが支えた。
「そう……コクヨウは、私と家族になりたかったのですね」
「俺じゃなくて、あんただろ。小せぇころ、家族がほしいってギャアギャア泣いてたじゃねぇか」
「……あなた、もしかしてそれで」
視線を避けるように、コクヨウは自身の髪の尾をもてあそぶ。
「ケッコンすんのに、くちびる、ぶつけなきゃなんねーし」
「ぶつけるって」
声を出して笑わないようにしているクラリスだが、このときは思わず喉を鳴らした。
「キスと言うのですよ」
「さすがに知ってる」
「結婚のとき以外もするということは?」
「なんのために」
改めてそう問われると、どう答えていいやらわからない。なにせ彼女も彼との一回がファーストキスだった。
しかたなく、背伸びをしてくちびるで伝える。
「……どう、でしょう」
「あー……?」
クラリスは顔をそむけて、赤くなった目もとを隠した。
一方、コクヨウは怪訝そうに眉をひそめた。気づきを得るには足りなかったらしい。
おかわりを求めて、貪欲に噛みついた。
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