【カエル柵】
アベ ヒサノジョウ
【カエル柵】
僕の住む町には『カエル沼』と呼ばれる小さな沼があった。子どもの頃は、その沼でよく遊んでいたが、本当の名前はどのようなものだったかはわからない。カエル沼という名前も、単純にカエルがよく獲れたから子どもたちの間で名付けられたものだった。地元を離れた今となっては、どこにあったのかさえおぼろげである。ただ、カエルの鳴き声を聞くたびに思い出す。
カエル沼の周りに住宅はなく、子どもたちの背よりも高い草木によって、隠されていた。だからその場所は、子どもにとって大きな秘密だった。大人たちには内緒の空間。
よく母親からは「気持ち悪いから絶対に行きたくないし、できれば行って欲しくないんだけれど…」と言われていた。大人たちにとって大量に湧くカエルの群れは、気持ちの悪い存在でしかなかったのかもしれない。ただ、危険性はないという理由で見過ごされていた場所なのだ。
僕が三年生の時、カエル沼を囲むように柵が建てられた。木の杭を何本も打ち込み、杭同士を太いロープで結び、簡易的なバリケードができていた。とはいえ、それは注意を促すためのパフォーマンスとしての柵らしく、子どもの体であれば余裕で通り抜けてしまえそうだった。
「なんだろう、これ」
「ここでこの前、事故があったらしいよ…」
先月、子どもがこの池に落ちて亡くなったらしい。
「カエル沼で?」
「うん。それで、柵作ったみたい」
僕はカエル沼をもう一度、見る。確かに水は濁っていて中まで見通すことはできない。それでも、中はそこまで深くないはずだ。前に一度この池に入った時は、水面は腰の辺りまでしかなかった。ずぶ濡れで家に帰り、(しかもTシャツの背中には三匹のカエルが入っていた)こっぴどく母親に怒られたため、それ以降入ることはなかったが、その記憶も二年以上も前の話。小学一年生の自分でも「浅い」という実感はあった。
「ふーん、じゃあ…今日は帰る?」
「まさか」
僕らはそのまま、そこで遊んだ。カエルは声が枯れないのかと心配になるほど、その日もよく鳴いていた。
それからしばらくして、友人が興奮気味に話しかけてきた。
「ねぇ、あのカエル柵……やばいよ」
「柵?沼のほうじゃなくて?」
「うん。そう…柵の方」
「なんで?」
僕は興奮気味の友人から、その噂話を聞いて気持ちが悪くなった。だから、ここからは端的にまとめようと思う。
なんでも、カエル沼の周りを囲むように設置された柵の杭に、カエルの後ろ足が一本ずつ切り取られ、虫ピンで張り付けられていたらしい。杭の数は二十六本。少なくとも、十三匹のカエルの脚は切られていたらしい。
「いや、それが、ね…十三匹じゃないらしい…」
「え?」
「なんかね……全部右足らしいの。だから、カエルは二十六匹」
僕は心底、寒気がした。どうしてそんなことができるのか。確かに幼少の頃、善悪の区別がつかず蟻を踏んだことはある。面白がって、追いかけ回し執拗に殺していた。とはいえ、今となっては、何となくそれが良くないことであると理解している。
だから、その話もただただ気味が悪いと思った。
「ねぇ、今日、行ってみない?」
友人が言った。
放課後、僕たち三人はカエル沼に行った。正直、自分は乗り気ではなかった。友人二人に手を引かれるようにして、渋々僕も後を追った。
沼に近づくにつれて、カエルの鳴き声が大きくなる。
「あっ」
前方を歩いていた、友人が驚きの声をあげる。
「どうしたの?」
「…柵」
もう一人の友人も指をさす。
「足だ」
僕は思わず柵の方を見た。
そこには確かに、足があった。噂通りである。しかし、それはカエルの足ではない。
「…鳥?」
丁寧に切り取られた鳥の足が、杭の中央に虫ピンで貼り付けられている。柵の全てを見渡せるわけではないが、少なくとも目に映る柵のいずれにも、細く枝のような足が生えている。
「気持ちわる……」
僕は思わず目を逸らした。友人たちの興奮もいつしか緊張に変わっていた。ゆっくりとした足取りで柵に近づき、一つ一つを凝視する。その度に「わっ」とか「え」とか短めの奇声をあげるが、僕はそれを見なかった。見たくなかった。
「カエルじゃ、ねぇじゃん」
僕からすると、そういう問題ではなかった。
僕はそれ以来、あのカエル沼に行かなくなり、いつしかそのカエル柵の噂も聞かなくなった。その後、そういった事件性のある話も聞かなかった。その悪質なイタズラ自体が無くなったのかもしれないと僕は思っていた。
冬が来た。カエル沼から、鳴き声が消えた。そして僕は四年生になった。
「…なぁ、今日さ、久々にカエル沼に行かない?」
僕はドキリとした。久々にその名前を聞いて、胸がザワザワした。
「昨日の話……聞いてないの?」
隣にいた別の友人がすかさず口を挟む。
「昨日、五年生のカッちゃんが、カエル沼に行ったらしいんだけど、そこでまた新しい足を見たんだって………何の足だと思う?」
「何だよ……」
「猫」
僕の胃が苦しくなる。ギュッと下から上に押し上げられるような気持ち悪さがあった。得体の知れない誰かが悪意をもってそんなことをしている。そんな人間がこの町にいること自体、受け入れ難い事実だ。僕は子どもながら、その時の恐怖を今でも覚えている。
「猫……二十六匹?」
「うん…らしいけど」
「……僕、行かない」
友人二人の会話を聞いていた僕はその日、行かなかった。
それからさらに一月が経った。季節はすでに夏を先取りし、外で遊んでいると、熱を持った草木が歩くたびにまつわりつくようになった。
「なぁ!カエル沼にいかねぇ?」
七人ぐらいの友人たちと公園で遊んでいた時だった。遊具のてっぺんから大きな声で、誰かが言った。それに同調するように周りの子どもたちも口々に声を出す。
「行こう!」
「いいよ」
「なら、誰か来る前に急ごう」
行きたくない、などと言えない雰囲気ができていた。どうやら「カエル沼」という場所に対して暗澹な気持ちでいるのは自分だけのようだった。
仕方なく僕は彼らについていくことにした。
おかしい。カエル沼に行く道が、陰湿としている。最初は、自分の気持ちの問題だと思っていた。しかし近づくにつれて、奇妙な事態に気が付く。
「……カエルの鳴き声がしない…」
その事実に気がついているのは僕だけのようであった。
「ねぇ!カエルの鳴き声がしない!」
「…え?」
前方を歩いていた友人が振り返り、僕を見た。
「ああー確かに。今日はやけに静かだな」
静かどころではない。風に
「確認しに行こうぜ」
「なぁ」
さらに前方を歩く、少年がそう言った。先ほど「行こう」と言い出した子だ。
「…嫌な感じがする」
僕の中で、その不安が澱み心臓を締め付ける。
「…怖い」
ついに僕の足は止まった。あと少しでも前に進めば柵が目に入りそうな距離である。前方の子は、見えているのかもしれない。
「おい、どうしたんだよ」
「ごめん、帰る」
僕は踵を返し走り出した。後ろから「カエル沼から帰るぞ、アイツ」という、陽気な声が聞こえていたが、僕はそれを無視して走り出した。恐怖のあまり、泣き出したのはその時がはじめてだった。
彼らは、あれが柵に見えているというのか。
「高い熱を出しちゃって…」
襖が少し開いている。室内灯に照らされた自室の向こうから、光が漏れ、母親が受話器を片手に困り顔を浮かべているのが見える。
「そう…夏なのに……うん…」
どうやら、僕のことを話しているようだった。相手は祖母だろうか。
僕はその日、家に着いた直後、玄関先で崩れ落ちた。体に力が入らず、立ち上がることもできない。母親が台所から慌てた様子で出てくると、僕の体を支えてくれた。
「ちょっと、すごい熱じゃない…」
僕はそのまま母に連れられて自室で横になった。汗だらけの服を着替えるのも、手を借りなければできなかった。それから僕は深い眠りに落ちた。
「……うん…うん。そうなの、だからね…その話も、さっき聞いて……」
母の声が聞こえる。今は、夜の何時だろうか。
「うん、でも、ウチの子は帰ってきたし…」
カエル沼に向かって、逃げ出して、それから何時間経とうというのだろうか。
「嫌よ、聞けないわ…だって……」
母は誰と話しているのだろうか。
「だって…………」
途切れそうになる意識の中で、僕は聞いていた。
「だって、子どもが二十六人も行方不明なんでしょう?」
【カエル柵】 アベ ヒサノジョウ @abe_hisanozyo
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