12


 『それ以来、桜が落ちる音が聞こえて仕様がない。肉が落ちる音。その音が耳にこびりついてしかたがない。


 なにか行動を選択しなければいけない。その行動を間違えてはいけない。どんなろくでもない行動だとしても、僕は世界に強いられているのだから、選択をしなければいけない。


 僕は、桜を救えなかった。だから、僕は』


 そうして、彼の筆は止まった、……いいや、止めさせた。それ以上に彼から言葉を聞くのが辛かったから。


 「──それで、私に提案したの?付き合わないか、って」


 彼は頷いた。真っすぐに私の目を射抜くように、正直さを視線に孕ませるように。


 ──私が、彼を追い詰めていたのだろうか。


 私が提案を受けなければ、彼がここにいる未来にもつながらない。だから、彼の提案を受け入れなければ、それで彼は救えたのかもしれない──、いや、それでは彼は救われない。いつまでたっても、桜という人に縛られながら生きる彼を、救われたなんて、そんなことは言えないだろう。


 ──彼を救うにはどうすればいい?身勝手な感情が心の中で渦巻いた。


 彼の中には桜がいる。その桜を殺すには、私はどうすればいいのだろう。


 ──桜を殺さなければ、彼は救うことはできない。でも、精神に生きるものを殺す術なんて、そんなものはありはしない。


 そのどれもが身勝手な感情だ。死んでいる人間に対して、勝手に生者が結論をつけることなど、本当はあってはならないことだ。


 でも、そうだとするのならば、彼が救われる世界なんて、もう存在しないことになる。だとすれば、彼の中にいる”桜”という存在を殺さなければ、彼は、彼の世界は救われない。


 ──想像する音。桜という人間が落ちる音。そんな音が耳に聞こえれば、そんなの誰だって正気を失うに決まっている。赤の他人なら乗り越えられる可能性もある。でも、彼にとっての初恋の人間がそうなってしまったのなら、自死感情を抑えることなど容易ではないはずだ。


 ここまでも推測。ここからも推測。私の想像の範疇でしか、いま世界は回っていない。


 独善的なのだ、私は。目の前にいる人間を救いたいと、身勝手な感情を叶えたくて仕方がない。献身的な人間というわけでもない。でも、目の前にいる彼を救えないのは、私にはどうしようもなく悔しくてしょうがない。


 どうすればいい。どうすればいい。


 私は──。







 彼女は僕から手帳を取り上げると、それっきり黙りこくってしまった。あまり人に話さない方がよいことを話したのだから仕方がない。いくら本当のことだったとしても、僕は彼女に話すべきではなかったのかもしれない。


 「──あの、さ」


 彼女から声が聞こえる。僕はそのまま彼女を見つめる。


 「私たち、付き合おっか」


 (……え?)


 よくわからない感情が渦巻く。


 彼女の言葉を咀嚼しても、結局その意味を捉えることはできやしない。


 彼女が何を考えているのか、僕には何もわからない。







 彼の中の桜を殺す。彼の中にいる桜を消すためには、私がそれを上書きするように存在を大きくしなければいけない。


 ──本来は、いけないことだ。


 私が大嫌いな嘘。どこまでも嫌いな嘘。好きになんてなれない嘘を目の前で紡ごうとしている。関係性を、紡ぎだそうとしている。


 「私たち、付き合おっか」


 付き合う、なんてもので片付くわけもない。それだけで彼の心が救えるわけもない。でも、私にできる手段なんて、それくらいしかない。


 あらゆる行動をとったところで、その選択が嫌な結末に向かうしかないのなら、嘘であってもそれを肯定しなければいけない。


 付き合うこに、感情はいらない。今は、そういう嘘を肯定していればいい。そうすれば、彼はいつかは私で桜の存在を上書きできるかもしれない。いつか遠い未来にそんなこともあったね、と笑える未来が来るかもしれない。


 「──ぁぁ……」


 彼が、声を出そうとして、そうしてむせる。私は取り上げた手帳を彼にまた渡して、彼はまた文字を紡いだ。


 『桜と、同じ顔をしている』


 ──そう書かれた文字を見て、私は、どうすることもできなくなった。







 嘘は、嫌いじゃない。そこに感情が含まれているのなら、それは真になる気がするから、僕は嘘をつくことが多い。それで肯定されれば、それでいいと思えるから。


 でも、目の前の言葉に感情は存在しない。どこまでいっても、昔の桜のように、昔の僕のように上辺だけの、嘘の会話しか紡げないのなら、そこに真実なんて存在しない。


 ──ああ、そうか。嘘の本質とは空虚なのだ。


 どこまでいっても空虚なのだ。がわも存在しない空洞の虚。そこには何も存在しないのだ。


 自分が吐いてきた言葉の嘘のすべてはがらんどうでしかない。だから、嘘は肯定されるべきではないのだ。


 桜が落ちる音がする。桜が落ちる音がする。そんな行動を肯定するように、桜が鈍くひどく重く落ちる音がする。でも、それを受け入れなければいけない。


 自死感情は消すことはできない。希死念慮を還元することはできない。でも、そこに嘘はない。嘘がないからこそ、それは肯定されるべき感情なのだ。


 ──『君も死ぬの?』


 桜が、落ちる桜が問いかける。


 僕にもそれができればいいと思う。でも、ここまでやってきた行動のすべては、すべて生きるためのものでしかなかった。


 嫌な行動を選択してでも、それでも生きたいと願っているから、延命処置のナイフを持ち合わせていたのだから。


 僕の罪はぬぐえない。その罪はぬぐえやしない。それは真実だから、嘘ではないのだから、肯定するべきなのだ。


 『結局、そうするんだね』


 ──ごめんよ、桜。今でも言葉を紡ぐことはできないけれど、それでも君にごめんと伝えることができたのならば、今すぐに伝えなければいけない。


 ──だからこそ、僕は正直に生きなければいけない。彼女がついた嘘を呑み込むように、自分自身の生きたいという感情を更に裏書きするように、僕は嘘を嫌って、『本当』を肯定しなければいけない。


 それは彼女にたいする裏切りでしかない。桜の死に対して目を背ける行為に近いかもしれない。


 でも、時雨の嘘に付き合うほど、僕は嘘を肯定したくないのだ。


 ──桜が落ちる音がする。桜が落ちる音がする。桜が落ちる音が止まらない。そんな行動を選択して、許されるわけがない。だから止まるわけもない。


 でも、僕はそうしなければいけないのだ。


 嘘が嫌いな彼女に嘘を吐かせた責任を、僕は取らなければいけないから。


 行動をする。行動をする。嘘を肯定せず、否定を繰り返し、本当を探す一つの始まりを、ここから始めなければいけない。


 だから、──僕は前を向かなければいけないのだ。






 そうして、──桜が落ちる音は消えた。


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