06
チャイムの音が耳に聞こえる。歪んだノイズが嫌悪感を催させる。馴染んだことのない音、浮ついた足元、屋上の風景。それだけで、これが夢であるということに気づいてしまった。
どんな夢であるかも、もうわかっている。鮮明にわかってしまう。
何度となく繰り返してきた光景。桜が落ちるリフレイン。幾度となく目を背けることができなかった、ただ一つの地獄を目の前にする。
この夢を見るたびに、死にたいと思ってしまうのは、未だに罪悪感が心を責め立てるからだ。
──桜が落ちる音がする。桜が落ちる音がする。すべてが、世界が、桜が、心を殺しにやってくる。
◆
「彼、大丈夫なんですか……?」
「まあ、うん。大丈夫さ」
私が養護の先生に聞くと、困ったように彼は笑った。
「人間の噛む力ってそこまででもないからね。彼にはちょっと痛い日々が続くだろうけれど、それ以上のことはないよ」
「……そうですか」
私は、そう返答するしかできなかった。自分自身、目の前の状況に対して、正しい認識をしているとはいえない。
とりあえず理解しているのは、彼が私の目の前で舌を噛み切ろうとした。そんな事実だけだ。
なぜ彼がそんなことをしてしまったのか、ということについては憶測でしか語ることはできない。
──最初に、彼から付き合う提案があったときのことを思い出す。あの時も、今日のような、今にもすべてを投げ出してしまいそうな必死な顔をしていたように思う。
──結局、屋上のあの後の流れは簡単だった。
少し頭が真っ白になって、彼の体を運ぼうとしたけれど、私だけじゃ彼を運ぶことはできなくて、そうして養護の先生を呼んだ。ほかの先生も呼びたかったけれど、そういう時に限って部活か何かで周囲には人がいない。だから、私と擁護の先生で彼の体を運んだ。
養護の先生は気が動転していた私を落ち着かせて、彼の体を一緒に運んだ時、先生はどこか察しているような顔をしていた。きっと、先生も何かを隠しているんだろうな、とそんなことを考えるべきではないのに、そんなことを反芻していた。
「……それにしても彼、またやっちゃったのか」
私が訝しい目で先生を見つめていたからかもしれない。先生は諦めたように溜め息を混じらせながら、そう呟く。
「……また、なんですか」
先生はゆっくりと頷いた。
「僕も伝言でしかないから、実際の詳細は知らない。彼もあまり話そうとするタイプではないから聞くこともできないしね」
……そうだろうな、と心の中で彼の言葉に肯定する。そして、養護教諭という立場の先生が彼を見知っていることに対しても疑問がちらついてしまう。
「彼のこと、詳しいんですね」
私がそうつぶやくと、先生はまた困ったように笑って、諦めたように「本当は話しちゃいけないんだけど」と前置きをしてから言葉を続けた。
「彼、ここに入学した頃から保健室登校だったんだよ」
そりゃあ、それなりに詳しくもなっちゃうよね、と先生はそう呟いた。
……入学の時期のことなんて、正直覚えてなんかいない。だから、彼がそんな状況だったことも知るわけがなかった。そもそも、ここ最近の関係でしか、彼とはないんだから。
「最初は何一つとして話してはくれなかったんだけど、そのうちに話してくれるようになってね。そこで唯一教えてくれたことがあったんだ」
「……なにを、ですか?」
「──いやな音が、ずっと耳から離れないんだってさ」
◇
意識がぼんやりとしている。まだ夢の中にいるみたいな、まどろんだ感覚が身体全体を浮つかせている。
こんな感覚は久しぶりだ。
いつも見る夢は悪夢しか存在しないからこそ、これが現実であるということを認識することができる。
だんだんと意識は冴えてきて、そうして目が覚める感覚がする。
──血の味が響く。鉄臭い重みのあるものが、口内にずっと響いている。その痛みが徐々に現実に寄り添い始め、正しい意味で意識を覚醒させた。
あくびが出そうになる。口を開いた瞬間に、衝動的に咳をしてしまう。そうして肺から吐き出す空気に舌が触れて、染みる感覚。うめき声を出すしかなかった。
「あ、起きた」
横から声が聞こえてくる。まぶたは思い。目を開けることに対して億劫な気持ちがあったけれど、その声の主を想像して、開かないというわけにもいかない気がする。
「…… 」
おはよう、と言いたかったけれど、舌が重くて話すことができない。感覚はあるし、実際に動かそうと思えば動かすことができるだろうが、痛みが怖くて喋ることはできない。
「しゃべらなくていいよ」
彼女はそれを察してか、そう声をかけてくれる。その気遣いというか言葉かけが申し訳なく感じて、なんとか言葉を伝えたい気持ちが膨らんだ。でも、どうしようもなくて、うなだれることしかできない。
そんな僕の様子を見かねてか、彼女は僕に何かを渡す。視界がまだはっきりしていないけれど、なんとなく渡されたものが手帳と、ペンのようなものであるということが理解できる。
視界を開いて、手帳を見る。特に何も書かれていない新品に近いようなもの。それを使っていいのかはわからないけれど、渡されたからには書かずにはいられない。
『ありがとう』
とりあえず、今はその気持ちだけを伝えたくて、そう書いて彼女に渡す。
「どういたしまして」
彼女は困ったように笑いながら、そう返してくれたのだった。
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