夕闇、桜が落ちる音がする。

若椿柳阿

01

 嫌な記憶が頭の中で想起されるから、僕は夏が嫌いだった。鬱陶しいと思える夏の暑さを感じると、それだけでいろんなことを思い出してしまうから、どうしてもこの季節が嫌いでしょうがない。


 きっと、それを言うのならば、僕に好きな季節なんてものは存在しないのだろうが。それを証明するように、、寒さから過去を思い出してしまうから冬も嫌いでしかなかった。


 季節の好き嫌いについて話したところで、特に盛り上がるわけでもない。それでも過去を振り返るのが嫌いな僕にとって、当然のように記憶を反芻させてくる季節は、どうにも性に合っていないような気がする。


 そんな僕を呪われているね、と軽口をたたいたやつがいた。友人というわけでもなく、知人という枠で収まるだけの間柄。そんな彼女が言った言葉を、僕は軽くあしらうことしかできなかった。たちの悪い冗談だと思いながらも、そうしてもそれを否定する材料を持ち合わせていなかったから。心のどこかで納得をしてしまう自分がいたのだろう。


 彼女の言う通り、きっと僕は呪われている。


 世界に行動を強いられ、そうして行動を選択しなければ、どうしようもないことになることを自分自身で理解している。


 ──鞄の中に仕舞い込んだナイフに触れる。折りたたんだナイフの刃先に触れて、僕はその冷たい感触を大事にしながら、夕闇を彩る世界に溶け込む。そんな夏の頃合いの話。





 行動というものには責任が大きく付きまとう。これは時間を巻き戻すことができないからこそ生まれた一つの概念だろうが、なんとなく幼い頃から、それを無意識的に理解している。


 ……なんとなくとはいいつつも、実はそれが根付いたころの記憶についてはちゃんと残っている。話したくはないことだから思い返しはしない。端的にそれほどいい思い出ではないということだ。


 世界は不幸にありふれている。


 僕の人生が不幸だなんて、そんな仰々しいことを示すわけではないけれど、過去のことを振り返って嫌な回想しか巡らないのは、人よりも少しばかり不幸に対するめぐりあわせが多いからだろう。それをどうにかできるなら幸福な人生を歩めただろうに、ここまで生きてきた経験上、それを解決する術なんて見つかりはしない。だから、不幸との折り合いを見つけながら、僕は生きていくしかないのだ。


 そんな考えに行きつくことは出来てはいるものの、結局、それで消極的な思考しか繰り返せないのだから、僕は本当にどうしようもない。


 だからこそ、きっと僕は呪われている、という自覚をしてしまったわけなのだけれど。




 ◇


 ゴミみたいな毎日だと思う。夕闇時、そろそろ月明かりが世界を照らしてくれそうな時間帯の中、たまたま一緒に居合わせた女子と談笑をしながら帰路につく。


 単純に、日直の仕事で居合わせただけの間柄だったけれど、それ故に会話の種といえるものは豊富にあった。僕も彼女も互いに互いを知らなかったから。


 彼女は恋愛の話が好きなようで、僕に対して聞いてくるのは、それに関連するような話ばかり。


 中学での恋愛遍歴はどうか、今のところの恋愛事情についてはどうか。僕の記憶をあらかた探るように彼女は質問を投げかけてきて、そうして僕は誠実に答えていく。


 気恥ずかしい気持ちはぬぐえない。そこまで経験が豊富ではないからこそ、女子と話すのは、楽しくはあるものの、結局やり場のない恥ずかしさのようなものが心に付きまとうような感覚がする。


 だいたいの質問に答え終わる。浮ついた感覚を落ち着かせながら、いよいよ彼女との帰路での分かれ道。二又に分かれる別れの場所で、互いにさよならと呼びかけながら。


 「あー、彼氏ほしいなぁ」


 そんな小声の、人に聞かせる類ではないであろう一言が耳に届いてしまったときだった。


 ──桜が落ちる音がする。


 動悸が激しくなる。視界は反転して、経っている平衡感覚がぶれる。三半規管が狂って、逆さまに立っているような錯覚を覚えそうなほどに、足がもつれる感覚。


 桜が落ちる音がする。桜が落ちる音がする。この音が耳から離れて消えてくれない。この音が耳元に響いているということは、僕は世界に行動を強いられている。そう考えずにはいられない。


 焦燥感が心のすべてを支配する。


 行動しなければいけない。


 吐き気が目の前にやってきて、喉に嗚咽が絡まる感覚がする。口元を抑えても、吐き気を抑制できるわけでもない。


 いつしか焦燥感は罪悪感へと変わり果てる。どうしようもないと自分を認識すればするほどに、自分という存在を殺したい気持ちが連なっていく。


 死にたい。死にたい。自分を殺してやりたい。誰かに殺されてしまいたい。


 ──またこれだ。また、この感覚だ。まだこんなことを繰り返している。いつまでも終わらないこの感覚を、ずっとずっと繰り返している。


 桜が落ちる音は鳴りやまない。だから、行動を選択しなければならない。そうしないと、どうしようもない衝動が正しさを求めて、自分を殺そうとする運命に肯定を繰り返し続ける。


 どんな行動を選択するべきなんだろうか。──桜が落ちる音が耳元でずっと叫び続けている。


 行動をしなければ世界は救えない。──鞄の中にあるナイフを片手で認識する。


 心配そうな彼女の表情と声が反転しながら意識に伝わる。──ナイフを開いて、冷たい刃の感触を皮膚ににじませた。


 そんな彼女に対しての行動とは。──いっそ、このナイフを胸に突き立てててしまえば楽になるだろうに。


 ──そうして出した結論。希死念慮が無意識に選んだ行動の一つ。それは──。


 「──それなら、僕と付き合わない……?」


 呼吸を乱しながら、精一杯に『発言』という行動を選択する。


 「……えっ」


 沈黙と呼吸の繰り返し。


 彼女の反応が視界に入ってくる。でも、それ以上に喉に絡みついていた嘔吐感覚が消えていく安堵が勝って、僕は何も考えることができない。


 ──桜が落ちる音は消えていく。世界はこれ以上、選択を僕に強いることはない。それについての安堵感が、どうしても喜ばしい。


 延命処置のナイフを鞄の中でゆっくりと折りたたみ、そこで状況を改めて把握する。


 思考にも余裕が生まれたことで、今ここで自分がどんな行動をとったのか、ということについての認識が及んでいく。


 (──それなら、僕と付き合わない……?)


 「……え」


 声が漏れる。


 彼女も困ったように「いや、ええと、うん」と言いながら気まずそうな顔をしている。なんとも言えない真空のような空気がその場に佇んだ。


 ……やばい、どうすればいいのだろう。


 今さら無意識的に行動を取ってしまっただなんて彼女に言えるわけもない。


 「……え、えっと、答えは今度でいいから!!」


 気まずい空気に耐えかねて、その場から逃げるようにして台詞を吐きながら走り去る。結局、そんな行動を取ることしか僕にはできない。


 後ろを振り返れば、呆気にとられた彼女の顔が目に映る。だけど、気にしてしまえば逃げた意味も消失する。彼女が視界に僕を入れることのできないくらいの距離まで同妃を続けて、遠くまではなれる。


 ある程度の場所まで辿り着いて呼吸を落ち着かせる。呼吸が落ち着けば、事態の再認識が勝手に頭の中で再現される。考えたくもないことだが仕方がない。そうして起こったことの、その現実感のなさ、自分の行動に対しての馬鹿さ加減に「えぇ……」と、どうしようもない声を喘ぐことしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る