恨み川

ツネキチ

思い出の田舎

 幼少期の私と両親は夏休みになるたびに祖父母の家に泊まりに行くのが毎年の恒例だった。


 祖父母の住まいはとてつもない田舎だ。歩いていける距離にコンビニはなく、夜の9時をすぎればあたりが真っ暗になり、ウシガエルの鳴き声しか聞こえないほど閑散としていた。


 都会暮らしの私には不便なところもあったが、それでも祖父母の元へ遊びに行くことを毎年楽しみにしていた。


 日中は近所に住む子供たちと虫取りや秘密基地作りに夢中になり、夜はお風呂上がりに畑で取れたスイカをお腹いっぱいになるまで食べて花火をする。


 そんな都会では絶対に味わえない田舎ならではの遊びを、夏休みの間目一杯楽しんでいた。


 その中でも私が最も好きだったのは川遊びだ。


 祖父母の家から自転車で10分ほどの距離にある大きな川。住宅地から離れた田んぼをぬけ、車一台がやっと通り抜けられる道のある雑木林の先にその川はある。


 まるで人目を避けるように存在するその川はとても美しかった。


 川幅は広く、浅い所深い所様々。水は冷たく、川底が見えるほど澄んでいた。

 

 川の中央には大きく突き出た岩があり、そこから年上のヤンチャな男の子が飛び込んでいたのをよく覚えている。


 地元の人にとっても憩いの場らしく、川遊びに訪れた子供たち、バーベキューをしにきた家族連れ、鮎釣りに訪れた釣り人で夏の時期は大きな賑わいを見せていた。


 私にとっても川遊びは楽しかった。


 比較的浅い場所で泳ぎ、川底の綺麗な石を探した。水切りで石を対岸にとどかせられるようになるまで何度も練習を重ねた。素手で鮎を捕まえようとしたこともある。


 ほぼ毎日のように川で遊んでは、びしょ濡れのまま祖父母の家に帰るのが恒例だった。


 流石に子供だけで川遊びはさせてもらえなかったため、連れて行ってくれと毎日家族にせがんではよく困らせたものだ。


 祖父母はたまにしか会えない私のお願いに弱く、ややうんざりした表情をしながらも川まで一緒に来てくれた。


 しかし、毎年ある時期だけは川へ行くことを禁じられた。

 

 それはお盆の4日間。


 その時期だけは私がどれだけ頼み込んでも頑なに首を横に振り、近づくことすら許してくれなかた。


  

 私が小学校4年生になった時のこと。


 その年も私たち家族は夏休みを利用して祖父母の家へ遊びに行った。


 しかし私には不満があった。


 父の仕事の都合で、この2年ほどお盆の時期しか祖父母の家に泊まれなかったからだ。つまり、しばらくの間川で遊ぶことができなかったのだ。


 その年もお盆の時期だけの滞在であったため、川へ行くことは禁じられた。


『なぜ川へ行っては行けないのか?』


 何度も質問したが、帰ってくる答えは毎回同じだった。


『お盆はね、ご先祖様が川の向こうから帰ってくるから、川で遊ぶと連れていかれちゃうんだよ』


 祖父母が口にするのはよくある迷信だった。


 私が考えるに迷信とは、人々が生きていくために存在する昔ながらの知恵だ。


 お盆の時期は大雨が降りやすく、川の流れが増しやすい。当然その時に子供が川に入れば溺れる可能性が高くなる。


 祖父母が口にしたこの迷信は、ご先祖様に連れていかれると子供を恐れさせることで川から遠ざけようとするために生まれたものだと私は思う。


 しかし当時の幼い私には、その迷信が子供を守るためのものだと理解できるはずもなく、幽霊やら心霊現象なんて存在しないと中途半端に大人ぶった考え方をしていたため、川で遊ばせてくれない祖父母に苛立っていた。


 そして結局、私は誰にも言わず一人で川遊びに行くことを決意した。


 家族に見つからないように家を出て、自転車を漕いで川へと向かう。


 何か悪いことをしているような罪悪感と、数年ぶりに川遊びができることに嬉しさで奇妙に胸が高鳴っていた。


 しかし雑木林を抜け、川にたどり着いた時私は違和感を覚えた。恐ろしいほど静かだったからだ。


 いつもであれば雑木林を抜けた途端に子供達のはしゃぐ声が耳に飛び込んでくるのだが、その時は川の流れる音と蝉の鳴き声しか聞こえなかった。


 そして川に向かうと人が全くいないことに気づいた。子供や家族連れはおろか、釣り人の一人すらいない。


 どうしようもない胸騒ぎがした。川を独り占めして遊ぶことに憧れはあったが、ここまで人気がなく静かな川を目の当たりにすると恐怖すら感じた。


 そして気づいた。一人だけ人がいることを。


 その女性は川の中で四つん這いになって俯いていた。服を着たままであり、垂れ下がった長い髪の毛が水の流れに従ってゆらゆらと揺れていた。


 私はその人を見て川の中に何か落とし物をしたのか、もしくは転んで怪我をしたため動けなくなったのかと思った。


 近づいて声をかけようとした。しかし、その人の横顔を見て足が止まる。


 垂れた髪の隙間から覗く女性の目が、憎悪と共に川面を睨みつけていた。


 女性は拳を振り上げ、水に向かって滅茶苦茶に殴りつけた。


 ばしゃり、ばしゃりという音が響く。


 手応えのなさに苛立ちを感じたのか、女性は唸り声を上げた。人のものとは思えない、怒りに満ちたものだった。


 獣のような唸り声を上げながら立ち上がり、石を拾っては川に向かって投げ始めた。


 水切りをしているわけではなかった。まるで心の底から憎んでいる相手に何度も石をぶつけて殺そうとしているようだった。


 その後も女性は息を切らしながら暴れ続けた。


 憎悪の声を上げながら川の水を蹴り飛ばし、拳を叩きつけ、石をぶつける。そんなことを延々と繰り返した。

 

 私は立ちすくみ、息を潜めてその女性を見ることしかできなかった。


 恐ろしかった。


 川を睨みつける鬼のような女性の形相も、長い髪を振り乱しながら暴れるその姿も、怒りに満ちた叫び声も、その全てが、まるでこの世のものとは思えなかった。


 その場から一刻も早く逃げ出したかったのに、恐怖で足が動かなかった。

 

 どれくらいその場にいただろうか。おそらく10分もなかったと思うが、私には永遠に思えるほど長い時間が過ぎた。


 きっかけが何かはわからないが、その女性が私に気づいた。


 振り向き、やや驚いた表情で私を見つめてくる。


 その瞬間、金縛りが解けた私は悲鳴を上げながら川から逃げた。


 自転車を必死に漕ぎ、家にたどり着いて祖父母の顔を見た時は安心のあまり声を上げて泣いてしまった。


 泣きながら必死に川で見たものについて祖父母に説明する。


 すると、祖父は悲しげな表情を見せながら口を開いた。


 曰く、私が川で目撃したのは近所に住む女性で、10年ほど前に幼い息子を亡くしているのだという。


 その子も私と同じように川遊びが好きな子供で、よく母親にせがんであの川に遊びに行っていたそうだ。


 しかし、ある時のお盆のことだ。


 前日に雨が降った影響で、わずかながら川の流れが急になっていた。それは傍目に見ればわからないほど微細な変化で、実際に川の中に入らなければ気づかないほどのものだった。


 しかし、そのわずかな変化が命取りになった。


 いつものように川遊びに興じていた男の子が行方不明になった。母親がほんのわずか、2秒に満たないほどの短い時間目を逸らしてしまった間に、男の子は消えてしまった。


 その日は他に川で遊んでいる子供やその家族、釣り人が複数人いたにも関わらず、誰も男の子が消えたことに気づかなかった。


 息子が消えたことに気づいた母親は半狂乱になって探した。だがいくら探しても男の子は見つからなかった。


 男の子が見つかったのはその数日後。お盆が終わる時期に川の下流を漂っているところを発見された。


 冷たくなった息子を抱きしめて泣き叫ぶその様子は、目を当てられないほど痛ましかったそうだ。


 最近になってやっと普段通りの生活を送れるくらいには精神的に安定してきた。子供を失った悲しみを忘れることはできないが、それでもなんとか前を向いて生きていけるようになったという。

 

 しかし毎年お盆の4日間。子供を亡くしたその時期だけは、あの川へ行きやり場のない怒りをぶつけるそうだ。


 最愛の息子を奪った川に対して、日が登ってから沈むまで狂ったように暴れ続ける。そんなことを繰り返すうちに、お盆の時期は誰も川に寄り付かなくなった。


 祖父母がお盆に私を川へ行かせないようにしたのはそのためだ。


 その話を聞いて、私の胸には言い表せない感情が芽生えた。


 私にとってあの川は楽しい思い出しかないものだ。


 美しい川。子供達が遊べる川。人々が笑顔になる川。


 しかしあの川が容易く誰かの命を奪えてしまうなんて、考えもしなかった。


 あの時見た女性の顔。怒りと憎悪の中に、確かに悲しみがあったことを覚えている。 


 涙を流しながら狂えるその女性の姿を思い出すと、怖いような、悲しいような気持ちがごちゃ混ぜになり、綺麗な思い出がまるで嘘だったかのように思えて、私は祖父の胸の中で再び涙を流した。

 

 あれ以来、私は一度もあの川を訪れたことはない。

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