第十四話 書類に吹く風は夜想曲と共に
その建物は、昼間も少し暗く見えた。
日の光を受けつつも、どこか陰のある光景。取り残された夜が壁の隅にひそむ。
どこか澱が沈んでいるかのような、静かにどこかへ潜っているような。
その建物は、いくつもの昼と夜を越えてたたずむ。
「ハ○ーワークへようこそ!」
やや太目の中年男性が満面の笑顔でNGワードを言い放つ。
ここは冒険者ギルド。命知らずの冒険者が、まだ見ぬ景色としびれるような緊張感、そしていつか見た夢を求め集まる場所。
誰かの見た夢の残り香――その場所に新たな夢が生まれようとしている。
受付を目指し啓太は一歩を踏み出した。新たな冒険へと向かう一歩を。
「あの、すみません」
「はい、新規の冒険者の方ですね。こちらの求職申込書に必要事項を書いてください」
受付にやってきた啓太の声に、中年男性は書類とボールペンを差し出してきた。
所々に存在する時空のゆがみが世界を混沌へと導こうとしている。
だが、これまであるべくしてあり続けた秩序はこの程度では揺らがない。
世界を修正する力は受付の男性に容赦なく襲い掛かった。
「身分証明書と印鑑はお持ちですか?」
修正力は返り討ちにされた。
世界ぴんち。
『やり直しましょう』
「うん、まあ、これは予想以上にちょっとアレだったね」
「証明写真はそちらの機械で撮影でき
――(しばらくお待ちください)――
「ふふふ、いらっしゃい」
落ち着いた雰囲気の女性が優しげな笑顔を啓太に向ける。
ここは冒険者ギルド。コンティニューは計画的に。
「これかあ……」
『残りの一つは危険なので推奨しません』
妥協――それは人生を彩る様々な色彩の裏で鈍くへばりつく下地。
選ばざるをえない選択肢。
因果の果てに少年は何を見る。
「チェンジは何回まで?」
『即座にヤクザコースです』
「そうかあ……」
啓太の口からため息一つ。
目を開き前を見る。そこに冒険者ギルド受付がある。
啓太は意を決して受付に向かった。
「あの、すみません」
受付の向こうでは、黒く長い髪をふわりと揺らす女性が、やや大きめの胸を強調しながら、憂いを帯びた瞳で、なんかフーフー言いながら頬を紅潮させていた。
「ふふふ、新しく登録するのね……ここに名前を書いて」
女性が紙を取り出し啓太の前に滑らせるように置いた。
それを受け取ろうとする啓太の手と女性の手が一瞬触れ合う。
「ふぉぉぉぉぉ……」
受付の女性は奇妙な声を出しながら後ろにのけぞった。
啓太は急いで紙を自分の側に引き寄せ、近くにある羽根のペンを手に取る。
記入内容を確認していると、女性がゆっくりとこちらに復帰してきた。
啓太と女性の視線が交錯する。
そこにあったのは、獣の目。
『3秒以上視線を外すと襲い掛かってくるので注意してください』
「どういうルール。ここ冒険者ギルドだよね」
腰は出来るだけ受付から離れるように、上半身だけで書類に向かっていた啓太は確認する。
『すでに冒険は始まっているのです』
「うまい事言ってる場合じゃないと思うんだ」
捕食者の目が啓太を射抜くように見つめる。
啓太はその視線から出来るだけ逃げないように見つめ返す。
戦いは音も光もないまま続く。それはまるで書類の字をぐちゃぐちゃにするような。
『勇者よ……誤字脱字というか、何書いてるのか分からなくなっています』
「奇遇だね、俺も何書いてるか分からない」
視線は前に、書類は下に。
運と勘を頼りに書かれた字は、例えていうならば――誰も知らない前衛芸術、踊り疲れたミミズの死体、ゴミ。
『きちんと書きましょう』
「いや、マジで怖いんだけど」
『勇者よ、今こそ勇気を見せる時です』
「今見せてるけど」
『更なる勇気を……野良犬に噛まれたと思いましょう』
「却下だからね」
そう、世界は却下を選択する。あるべき理はR18を否定するのだ。
「そうだ……!」
啓太の頭に天啓ひらめく。
書類に一文字書いては視線を前に、一文字書いては視線を前に。
上下にせわしなく移動を続ける頭。受付の女性の頭も合わせて上下に動く。滑稽。
『ちょっと面白いです勇者』
「ありがとう。おぼえてろよ」
苦難の旅はようやく終わり、書類の必要事項は満たされた。
「これでどうだ!」
啓太の書類アタックが受付の女性を攻撃する。
「はい、フー、確認いたしますね、フー」
受付の女性の鼻息がヒートアップしている。犬に噛まれるまで後一歩。
啓太はじりじりと距離をとる。
間合いをとる。彼我の距離はどんなに取っても取りすぎということはない。
視線の先で、受付の女性が顔を上げた。
「はい、登録完了です! ようこそ冒険者ギルドへ! そしてめくるめく官能の日々へ!!」
「ありがとうございます!」
女性は受付を乗り越えようとして転んだ。
啓太は逃げた。外まで逃げた。
明日を、レーティングを守るために。
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