ヒバゴン

無月弟(無月蒼)

前編

 8月某日。俺は大学の夏休みを利用して広島県の北部にある、比婆山を訪れていた。

 島根との県境に接するこの山は、標高1264メートル。山頂付近には天然記念物のブナの木が繁っている、美しい山だ。

 だけど俺は、景色を楽しむためにここに来たわけじゃない。それじゃあいったい、何しに来たのかって?

 決まってるだろ。ヒバゴンを探すためだよ。


 ……なんて言ってるけど、ヒバゴンを知ってる人って、あんまりいないんだよなあ。

 大学の友達にもヒバゴンを探しに行くって言ったら、


「なにそれ? 珍しい植物か?」


 って言われる始末。

 植物じゃねーよ。ヒバゴンってのは比婆山で度々目撃されてるUMA。幻の類人猿だ。


 身長は150センチくらいで、小柄な大人並み。

 身体中が黒い毛で覆われていて、ギョロ目でずんぐりむっくりした体型。

 しかしこれらの情報は噂レベルのもので、その存在はハッキリ確認されているわけではない。

 いったいどんな生き物で、どんな生活を送っているのかは一切謎とされているし、そもそも本当にいるかどうかなんて、分からないんだよなあ。


 そんな存在が不確かなものを探しに、わざわざ山に登るのかって? いいだろ別に。

 幻の生き物を見つけるって、ロマンがあるじゃねーか。


 というわけで、登山の準備をしっかり整えて、俺は比婆山に挑んでいる。

 山道は険しく、歩いていると汗が背中を伝ってくる。だけどそれが、不思議と気持ちいい。元々登山は嫌いじゃないんだ。


 あーあ。大学で声をかけた連中も、来れば良かったのに。

 一緒にヒバゴンを探しに行こうって何人か誘ったんだけど、断られたんだよな。

 そんなものいるわけない。もしいたとしても見つかるわけ無いだって? それを探すのが面白いんじゃないか。


 もしも本当にヒバゴンを見つけたら、写真に撮ろう。いや、それとも取っ捕まえて、町まで連れて帰るか?

 そうすれば俺は、一躍有名人だ。


 こんなことを考えるなんて、我ながら小学生みたいだって思うけど、大発見をして有名になりたいって願望、誰にだってあるだろ?


 そんな事を考えながら、時折休憩を挟みつつ山を進んでいく。

 ただ俺が行くのは、用意された登山道じゃない。木々の繁る、道なき道だ。


 そんな所に行って、危なくないのかって? 仕方ないだろ。俺の目的は頂上まで登る事じゃなくて、ヒバゴンを見つけることなんだから。

 まさか幻の類人猿が、登山道で一休みしてるはずがないもんな。本当に見つけるつもりなら、多少の危険はやむを得ないんだよ。


 そうして覆い繁る木々の間を抜けながら、道なき道を歩いていたんだけど。

 長く伸びた草のせいで、足元が見づらくなっていたせいかな。ここで俺は、大きなミスを犯してしまったんだ。


 気づかないまま、ツルツルした石でも踏んでしまったのか。歩いていると不意に、足を滑らせてしまったのだ。


「うわっ!」


 悲鳴を上げてひっくり返る。

 そして、転んだその場所が非常に悪かった。すぐ横が崖になっていて、転んだ拍子に俺は、その崖を滑り落ちていった。


「うわあぁぁぁぁっ!?」


 急な斜面に何度も体を擦り付けながら、崖下にまっ逆さま。そして地面に叩きつけられた俺は、そのまま腹這いになって倒れた。


「痛て……痛てて……」


 痛みで声がもれる。は、早く起き上がらないと。

 だけど体に力が入らずに、立つことができない。


 だったら、助けを呼ぶか? 

 だけど声を出すのも苦しいし、第一ここは登山道から離れた山の奥。声を上げたところで、誰かに聞こえるとは思えない。

 あれ……ひょっとして俺、かなりヤバい?


 どうしよう? 早く助けを呼ばないと……いけないのに……。


 焦る気持ちとは裏腹に、落ちた時に頭でも打ったのか、徐々に意識が薄れていく。

 ああ、これは本格的にマズイかも。


 だんだんと考えることができなくなっていき、そして完全に気を失う直前……。


 誰かが俺の前に、立った気がした。



 ◇◆◇◆



 どれくらい眠っていただろう? 

 俺は不意に目を覚ましたのだけど、途端に全身に激痛が走る。

 ははっ、やっぱり痛いや。


 そして次に思ったのは、どうにも辺りが暗いということ。

 最初は、もう夜になったのかって思ったけど、頭がスッキリしてくるにつれて、違うということが分かる。

 あれ? ここって洞窟の中じゃね?


 倒れたのは、確かに外だったはずなのに。目を凝らしてみると、やっぱりここは洞窟の中のようで。

 だけどいったい、どうしてこんな所に? 誰かが運んでくれたのか?

 横になりながら疑問に思っていると……。


「ワオッ……ワオッ……」


 ん、何だ? 穴の向こうから、何かが聞こえてくるぞ?

 相変わらず体は思うように動かないから、頭だけを音のする方に向ける。

 よくよく聞くと、それは何かの動物の声みたいだ。

 ひょっとしてここは、熊の巣か? 俺は食料として連れてこられたのか!?


 怖いことを考えてしまい、恐怖で体が凍り付く。

 そうしているうちに、鳴き声はどんどん近づいてくる。


 来るな……。お願いだから来ないでくれ。

 だけど願いも空しく、そいつは俺の目の前に現れた。ただ、それは思っていたような熊じゃなかったんだ。

 現れたのは……。


「ガウッ!」

「えっ……う、うわあぁぁぁぁっ!?」


 やってきたそいつの姿を見て、思わず悲鳴を上げる。

 それは熊なんかじゃなかった。全身を黒い毛で覆われていてギョロ目。身長は150センチくらい。

 それはまさに、言い伝えにある幻の類人猿……。


「ヒ、ヒバゴン!?」


 そう。目の前に現れたのは、探し求めていたヒバゴンだったのだ。

 なんて事だ。ずっと探し求めていたヒバゴンを、こんな形で見つけるなんて。


 つーか待て。コイツは俺をどうする気だ? 

 状況から察するに、ここはコイツの巣で、俺はこのヒバゴンに連れてこられた可能性が高い。

 てことは、俺を食べる気か?

 や、やめろー! 俺は美味しくないぞー!

 確かにヒバゴンには会いたかったけど、食べられるなんてごめんだー!


 まさかこんな形で出会っちまうなんて。

 だけど恐怖にガタガタ震えている俺に、ヒバゴンは何かを差し出した。


「ガウッ」

「へ? これは……木の実?」


 ヒバゴンが出してきたのは、数々の木の実。これはひょっとして……。


「俺にこれを食べろって?」

「ガウガウ」

「そ、それじゃあ、遠慮なくいただきます……」


 実を言うと、さっきから腹ペコだったんだ。どうやらこんな状況でも、腹は減るらしい。


 そして木の実を食べる俺を、ヒバゴンはじっと見ている。


「ガハハハハッ」

「え、今ひょっとして笑った?」

「ガウッ!」


 うーん、意志疎通ができているのかいないのか。

 何にせよ確かなのはこのヒバゴン、知能は高いみたいで、しかもどうやら俺を助けようとしているらしい。

 まさか探していたヒバゴンに救われるなんてな。


「ありがとな、ヒバゴン」

「ガウッ!」


 俺の言ってる事が分かるのか、ドンと胸を叩くヒバゴン。

 そしてそれからヒバゴンとの、不思議な生活が始まった。


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