風の聖霊 (R-15版)

春嵐

01 比羽奈見 (18)

 音楽室のピアノ。わたしの居場所の、ひとつだった。

 人よりも、優れている。そのせいなのか。どこか、生きることにんできていた。わたしを狙ってくるような男の目も。嫉妬で渦巻くような女の目も。気になることはないけど、決して綺麗なものではないと思ってしまう。

 結果として、ひとりで音楽室にいることが多くなった。先生連中も、わたしの優れている点を全面に押し出したいと思っているから行動を止めることはない。


 ピアノ。弾けるけど、上手くはない。世界的プレイヤーにはなれない。生きていくことができる程度。

 わたし。わたしは、何になりたいだろうか。ピアノプレイヤーか。他のものか。わたしは、何にでもなれる。そんなわたしが。


 死にたい。なるべく、静かに。消えていくように。それだけだった。女の目も、男の目も、気にならないところで。静かに。ゆっくりと、消えていく。それだけが願い。


 ピアノの前。


 誰か、立っている。半透明で、薄いような。女か男か。判別がつきにくい。髪が短いから、たぶん男。ここの生徒ではない。


 ピアノの前で。待っている。弾かれるのを待っているのか。わたしの、たいして上手くもない、意味のないピアノを。


 座る。彼の反応はない。生きているのかどうかすら、分からないような。


 弾いていく。ゆっくり。彼が何を求めているのか。分からない。


 窓際。


 少しだけ、風が吹いた気がした。


 彼が、唄い始める。ほんのすこし。消え去りそうな、小さな音で。


 風の音だと。思った。


 ピアノを。ゆっくりと、合わせる。

 何かを、伝えようとしている。でも、その何かには、絶対に辿り着けない。そういう音。伝わったときには。わたしのなかに、それは存在しない。


 そう。存在しない。この音も。彼の声も。


 はじめて。


 何かに、憐憫を感じたから、かもしれない。


 彼を抱き寄せる。胸に埋めてあげる。彼という存在を、少しだけでもいい。掬ってあげたい。留めてあげたい。そういう、欲動だった。


 彼は、男だった。でも、勃起してはいない。胸に顔を埋めて。わたしの胸を、ほんのすこしのちからで吸うのみ。おそらく、赤子ですらもっと強く噛むだろうに。彼の存在は、そこまで、どうしようもなく。希薄だった。


 しばらく、わたしの胸に埋まって。

 彼は、何かを伝えようとして。


 窓際から風が吹いて。


 消えた。


 ピアノの前で、胸をはだけた私が、ひとりだけ。

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