護衛とは、猪川の恋人のことだった。公務員だと聞いてはいたが、公務員は公務員でも、警察官だったらしい。しかも捜査一課に籍を置く現職の刑事だった。

 今日は非番だったというのに、突然の呼び出しにも快く応じてくれた。優しげな垂れ目は、あまり警察官らしくなかった。ケーキ屋や花屋で働いているといわれた方が納得できる。身長も私より低いくらいで、上背のある猪川と並ぶと、親子ほど身長差があった。

椿つばきといいます。いつも優佳とは仲良くしてくださっているみたいで、ありがとうございます」

 折り目正しく頭を下げられた。薄手のカーディガンとチノパンというラフな格好をしているのに、そこからは威厳のようなものが感じられた。隙のない立ち姿のせいかもしれない。頭から糸で吊り下げられていると錯覚するほど、椿の姿勢はきれいだった。

 私も自己紹介のため口を開きかけたところで、

「ゆう? 少しは落ち着いて」

 猪川はさっきから落ち着きなく椿の周りをうろついていた。しばらく互いの生活リズムが合わず、顔を合わせるのも久しぶりらしい。

「あとでたくさん構ってあげるから。ちゃんと紹介してくれないかしら」

「この人は鈴先輩。前に話したでしょ。私の恩人の一人」

「ああ、あなたが……」

 椿はさっきよりも深く頭を下げた。

「大体のことは優佳から聞いています。重ね重ねお礼を申し上げます。あなたがいたおかげで今の私たちがある」

「いえ、そんな大層なものでは……」

 私は顔が赤くなるのを感じながら、へどもど頭を下げた。

「それで、鈴先輩。なんでここに来たんですか。物証っていってましたけど」

「そうですね。私も詳しく聞かされていませんし、説明していただけますか。なぜあなたはここに来る必要があったのか」

 椿の口調はやわらかいのにどこか険があった。

 私はプライベートなこと(猪川に千蔭を見張ってもらっていることなど)は省いて、ここに至るまでのいきさつを説明した。

「なるほど……」

 椿は顎に手を当てた。どうやら彼女も気がついたらしい。

「なんとなく事情は分かりました……でも、今回はたまたま警察官(わたし)がいたからいいものの、いなかったらどうするつもりだったんですか」

 鋭くなった視線のせいか、事情聴取をされている気分だった。

 私は正直に答えた。

「その場合でも、きっとここに来たと思います。もちろん警察には連絡するつもりでしたが、少なくとも物証を得られるまでは一人で行動するつもりでした」

 暗に、猪川を巻き込むつもりはなかったという主張のつもりだった。だが、もし猪川がついて行くと言い出したら、どうだっただろう。自分は見過ごしたかもしれない。

 しばらく椿は私を検分するように見ていた。落ち着かない時間だったが、嬉しかった。彼女は猪川のことを本気で大切に思っているのだ。

 やがて椿はふっと息を吐いた。

「一つだけ、あなたの年上として忠告させて。あなたはもっと、あなたを大事にするべきよ。最後の最後まで自分の味方でいてくれるのは、自分だけなんだから。とりあえず、こんな危ないところに一人で来るなんて考えちゃダメ。分かった? もっと、周りを頼っていいんだからね」

 慈しむような目で微笑まれ、顔が熱くなるのを感じた。それは私自身がいつだったか、猪川に言ったのと同じ言葉だった。

 私がやっとの思いで頷くと、椿は話を戻した。

「さて、それでは行きましょうか。この中にあるんでしょう? その物証は」

 目の前には例のトンネルがぽっかりと口を開けていた。中央付近の天井に穴が空いているおかげで、トンネルの中はさほど暗くないが、不穏な雰囲気は拭えなかった。

「その前に、見ておきたいものがあります」

 私はトンネルから少し離れたところに放置されたライトバンに近づいた。ナンバープレートは外され、スモークフィルムが貼られている。車体にはうっすらと字が読めた。板金塗装会社の名前で、調べてみるとその会社は既に潰れていた。盗品だろう。

 スライド式のドアに手をかける。鍵はかかっていなかった。黒の革張りシートには大量のゴミがまき散らされ、足下には石灰のような白い粉に混じって、食べかすが散らばっていた。芳香剤を何倍も濃くしたような甘ったるい臭いもする。

 私がシートの上の膨らんだコンビニ袋に手を伸ばすと、椿に止められた。

「触らないでください。そこは警察の領分です」

 強い語気に、大人しく手を引っ込めた。

「署の方に連絡を入れておきます」

 椿は私たちから離れて電話をした。戻ってくるのを待って、いよいよトンネルに入った。先頭は椿。その後ろを猪川が、最後に私が続く。

 薄暗いトンネルを一列になって歩いて行く。お札や鏡やお守りなど、心霊スポットらしいものがあちこちに落ちていた。これも隅野の話と一致する。

 やがて最奥部まで来た。積み上げられた瓦礫がその先を塞いでいる。天井には穴が空いており、日光が差し込んでいた。見上げると、太陽が私の目を射した。時間を確認する。十二時少し前だった。

 瓦礫の上に、蛙のキャラクターのストラップが置かれているのを見つけた。猪川は目を丸くして、

「それ、小端のプレゼントですよ。間違いないです」

 手に取り、その背面を見る。

「ほら、裏に名前が書いてあります」

 ローマ字で『SYUN』と刺繍されている。幽霊に追いかけられた隅野が落としたと言っていたものだ。

「それで? そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか」

 猪川は少し不貞腐れたように言った。

「二人で勝手に分かって、あたしだけ置いてきぼりにしないでくださいよ。大体、なんで椿は分かったの?」

「職業柄よ。この手の話は嫌になるほど耳にするの。……ゆう。これはあなたの友達のことだから聞かない方がいいわ」

 椿は眉根を寄せた。猪川は首を振った。

「違うよ。友達のことだから、ちゃんと知っておきたいんだ。お願い、椿」

 真っ直ぐな言葉に、椿はますます困った顔になった。視線が私に流される。私は少し言葉を迷わせてから口を開いた。

「猪川さんから、隅野くんの話を聞いた時点で、違和感はあったんだ」

「違和感、ですか?」

「うん。隅野くんの話には明らかにあり得ないことがあった」

「幽霊があり得ないってわけじゃないですよね」

「個人的に幽霊は信じていないけど、そうじゃない。もっと簡単に、誰でもあり得ないと言えることだよ」

 私は天井の穴を指さした。

「今、ここから太陽が見えるよね。時間は十二時前。当然太陽は見える。あと二時間もすると西に傾き始めるけど、まだまだ南の空を動いていると言っていい。一般的には南中時刻と言われる」

「そうですね」

 猪川はだからなんだと言いたげな顔をしている。

「猪川さん、中学校の理科は覚えてる? 月と太陽の動きについて」

「ええ、まあ。一般常識くらいには」

「覚えているかぎり正確に話してみて」

「……太陽の周りを地球が公転していて、地球の周りを月が公転しているんですよね。地球の公転によって季節が巡り、月の公転によって月の満ち欠けが発生し、そして地球が自転することによって朝と夜が変わります。それぞれ、地球の公転周期はだいたい一年、月は一ヶ月、自転は一日です。……それがなんですか」

 早く答えを教えろと胡乱な目が言っていたが、私は質問を重ねる。

「じゃあ月の満ち欠けについては?」

「……それも人並みですよ。太陽、月、地球の順で一直線に並ぶと、光を受けている側が見えないので新月となって、太陽、地球、月の順で一直線に並ぶと満月になります。確か満ち欠けにも順番があって新月→上弦の月→満月→下弦の月→新月というふうだったと思います」

「そうだね。合ってる」

「……」

 意地悪がしたいわけではない。ただの時間稼ぎだ。本当に自分の考えが合っているのか、穴がないか確認するための。

 そして、真実と共に現れる痛みに、覚悟を決めるための。

「じゃあ、日の出や日の入り、月の入りや月の出の相関関係については?」

「それはあんまり自信ないですね。計算問題が絡んでくるから、昔から苦手だったんですよ。でも……そうですね……普通に考えたら、地球の自転によって日が変わるわけですから、新月に近いときは、月は太陽と同じくらいの時刻に出てきて、同じくらいの時刻に沈むんじゃないですか。満月のときはその逆。夜中になってから上ってきて、明け方に沈むのが自然だと思います」

「その通り。じゃあ――」

 今までに得た情報を、余すことなく組み替え直し、精査し、ようやく腹をくくる。

「――隅野くんの話の中に、三日月が出てくるのはおかしいと思わない?」

 猪川は一瞬、意味が分からないという顔をしたが、すぐに気がついたようだ。私は決意が鈍らないよう、口早に続ける。

「猪川さんが言ったように、新月はだいたい太陽と同じくらいの時間に東から昇って、西へ沈んでいく。まあ、見えないんだけどね。ではその三日後の月はどうだろう。何時に上って何時に沈むと思う? ……あり得ないんだよ。隅野くん一行がここに来たと言った時間、深夜、三日月は絶対に見えたはずがないんだ」

 隅野の話の中で、確かに三日月が見えたと言っていた。そして、トンネルの天井部の穴から、月光が差し込んでいるとも。

 そんなことはあり得ない。

「なんでそんな嘘を。隅野がここに来たのは間違いないじゃないですか」

 猪川は瓦礫の上に鎮座するストラップを指さした。

「そうだね。彼は間違いなくこの場所に来たんだろう。ストラップだけじゃない。天井部分に穴が空いていることも、瓦礫で道が封鎖されていることも、ゴミやお札やお守りが散乱していることも、外に乗り捨てられたライトバンも、すべて隅野くんの話と相違ない。

 だから、彼は、時間を誤魔化そうとしていたんだよ」

「時間を?」

「アパートの住人の証言にもあったように、隅野くんは小端さんがバイトで不在にしているときだけ遊びに出かけていた。たぶん肝試しの日もその予定だったんだろう。三日月が出ている時間に肝試しをして、小端さんより先に帰るつもりだった。でもなにかしらアクシデントが起きて、朝帰りになってしまい、言い訳のためにやむなく時間をずらして帳尻を合わせた」

「アクシデント……?」

「若者が人気のないところに悪友と集まって開催する、時間を忘れるほど刺激的な犯罪行為。そして彼に幽霊が取り憑いたと思わせるほど強い副作用を伴うもの」

 猪川は息を呑んだ。

「――薬物だよ」


「隠したかったアクシデントは、たぶん、薬物の使いすぎで意識を飛ばしてしまったことじゃないかな。昼間に肝試しをして、夜に薬物を使って気持ちよく帰る。本来はその予定だった。でも想定外に意識を飛ばしてしまい、気がついたら朝になっていった。だから朝帰りの理由をでっち上げるために、隅野くんは時間をずらして、夜中に肝試しをしたら幽霊に襲われたと話したんだ。多少話の辻褄が合わなくても、幽霊のせいなら誤魔化すこともできる。そう考えたんじゃないかな」

 幽霊は誰にも確固とした説明はできない曖昧な存在だ。私がここまで積み上げてきた推理だって、「幽霊が何とかした」と言われたら揺らいでしまう。だから隅野は幽霊を使ったのだろう。

「もちろん現時点では推測に過ぎない。でもほぼ確実に、彼は薬物に手を染めている。突然の奇声や奇行、幻覚や幻聴、情緒不安定、食欲増大に喉の渇き、そしてライトバンに残された白い粉やビニール袋、臭いを誤魔化すように撒かれた甘ったるい芳香剤の香り。どれも薬物に繋がる証拠だ。話に出てきたぬいぐるみもそうかもしれない」

「なんで、薬物なんて、そんなものに……」

 猪川は救いを求めるように、椿に目を遣った。

「若者が薬物を使う理由のほとんどが刺激を求めてのことよ。あとは仲間内の集団心理や将来の不安から逃げたくて手を出す人もいるみたい。……これは単なる想像だけど、隅野くんは小端さんに外出を秘密にしていたんだよね。日常的に喧嘩をしている様子でもあった。そして小端さんは妊娠している。だからじゃないかな」

「だから? そんな、そんなことで? 恋人が妊娠していて、満足に外に出かけられなくて、そんな理由で薬物を? うそ、ですよね……」

 泣き出しそうな目が、私にすがりついてくる。いつもの痛みが親しい顔で近づいてくる。

 こんなことなら言わなければよかった。彼女たちが、子どもを欲していることは知っていたのに。

 それでも私は、椿の単なる想像を肯定することしかできない。

「……他にも理由は考えられる。例えば、隅野くんは一緒に肝試しに行った人たちを悪友と言っていたけど、それは嘘かもしれない。思えば話のなかで、彼はずっと指示される側の人間だったし、戦利品まで持って帰らされている。ストラップを置いていったのだって、もしかしたら命令されたのかもしれない。そう考えることはできる。仲間内での立場が下だった隅野くんが、周囲からの誘いを断り切れず手を染めたと。でも、手を出すまでの過程に、小端さんとの不和が関係ないとは言い切れない」

 猪川は痛みに耐えるように顔を伏せた。その目元に光るものが見えた。椿が慰めようと伸ばした手をゆるく拒否して、苦しげに言った。

「このこと、小端は知ってるんですか。隅野が薬物に手を出してるって」

「……知らないと思う。幽霊の仕業だと信じ切ってるんじゃないかな」

「そうですか……」

 猪川は今度こそ恋人の手を掴んだ。でもそれは甘えじゃなかった。

「椿、ごめん。今から小端の家に行きたい。送って。説得しなくちゃ」

「……私は仕事で薬物常習者を見たことがある。ひどいものだったよ。他人の事なのに、言葉が出なかった。ゆう。それが友達の事になるんだ。今よりつらい思いをすることになる。それでもいいの?」

「うん。逃げていたって、意味がないから」

 目をこすって、涙を振り払う。

「二人がどんなになってもあたしの友達だ。友達くらい助けられなかったら、未来の自分にも今の椿にも、助けてくれた恩人にも胸を張れない」

「そう。じゃあもう何も言わないわ」

 椿は穏やかに微笑んだ。猪川が私に向き直る。

「隅野とも小端とも、何の関係もないのに、不躾な頼みだとは思います。でも、鈴先輩も協力してくれませんか。お願いします」

 強い目が向けられる。

 どうして千蔭といい、猪川といい、ここまで真っ直ぐにいられるのだろう。真っ直ぐに、私を信じてくるのだろう。椿の言葉が頭の中で繰り返される。『あなたはもっと、あなたを大事にするべき』。でもそれは私には当てはまらない。自分を大事にしていいのは、大事にされていいのは、罪のない人間だけだ。殺人者の私に、そんな資格はない。

 当然、人を好きになる資格だって、好きになられる資格だってなかった。どうして忘れていたんだろう。

 猪川の煌めきから目を逸らし、その反対に落ちた影に目をこらすため、私は深く頷いた。

 この事件が最後だ。これが終わったら、もう彼らの前から消えよう。

 それがきっと最善だ。


     *


 そういえば、言いそびれていた。

「猪川さん。千蔭くんに連絡してもらえないかな」

 助手席に座る猪川が怪訝そうに振り向いた。

「千蔭に? なぜですか」

「千蔭くんも、小端さんのこと調べていたみたいなんだ。もう解決したから大丈夫だって言ってあげて」

「どうして自分で連絡しないんですか」

 一応、連絡先は知っている。でも、連絡を取ったことはついぞなかった。他人のような友人。自分で発したその言葉が、呪いのように私の指を重くしていた。

 そして今日が終われば、私たちは本当に他人になる。連絡先だって、消してしまう。

「私は、彼に好いてもらえるような人間じゃないんだよ」

 絞り出すようにそれだけ言った。猪川は一瞬目を見開いて、すぐ呆れたように首を振った。

「……この際だからもう言いますけど、私、鈴先輩に頼まれたように、千蔭にも先輩の近況を報告していたんです。いわばダブルスパイってやつですね」

 思わぬ事実に驚いたが、責めることはできない。それに、そのくらいは予想してしかるべきだった。

「千蔭も、先輩と同じようなこと言ってずいぶん悩んでいましたよ。僕は鈴先輩を好きになっていい人間じゃない、って。どんだけ仲良しなんですか」

 いつだったか猪川が、私が千蔭に引くかもしれないと言っていたのを思い出した。それと、千蔭が自身の好意を責めるのと、関係があるのだろうか?

 私が黙っているのをどう解釈したのか、猪川はふっと鼻を鳴らした。

「……意気地なし。まあいいです。でも約束してくださいね。小端の件が終わったら、絶対に二人で話し合ってください。逃げるなんて、許しませんから」

 私の反応を待たず、スマートフォンを耳に当てた。すべて見透かされているような気がした。それでも私の決断は変わらない。これ以上、誰かを損なう前に消えなければ。今ならまだ傷は浅く済む。

 ここが引き際だ。

「え?」

 しばらくスマートフォンを耳に当てたり、離したりを繰り返していた猪川が、そんな声を上げ、呆然とスマートフォンを眺めた。その顔には緊張が走っていた。

「どうしたの?」

「何回かけても出なくて、やっと出たと思ったら、すぐに切られました」

「操作ミスじゃないの」

「切れる直前、変な音が聞こえたんだよ。あれは……なんて言うか……、そう。火の音。たき火とかで聞く、バチッて弾けるような……」

 そのとき電話が鳴った。猪川が急いでスマートフォンを耳に当てるが、違ったらしい。椿は片手でハンドルを支えながら、

「ごめん、私のだ。多分上から。さっきの、ライトバンの件だと思う。スピーカーにしてくれる?」

 ポケットから無骨なスマートフォンを取り出して猪川に渡した。

 スピーカーから流れた声は、妙に切迫していた。

『非番の日に悪いが、今から言う住所に向かってくれ。さっき言ってた心霊スポットの件と関係あるかもしれない。隅野とかいう男の家で火事があったそうだ』

 そうして告げられた住所は、間違いなく小端たちのアパートだった。

 エンジンが唸りを上げ、車は一気に加速した。

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