8
美鈴のために自分はいったい何ができるだろう。
取材の二日目、美鈴から指標を預けてもらって以来、私はずっと考えていた。正しさを追い求め、間違いを是正したい彼女のために、私には何ができるだろう。
彼女がアルバイトとして入ってきたとき、どうせすぐに辞めてしまうだろうと思っていた。それまでにも何人かの大学生をバイトとして雇っていたが、三ヶ月も経つころには辞めてしまうのが常だった。記者という仕事はそれほどにきついのだ。そのうえ美鈴は高校生だ。よくても一ヶ月。数週間後に無断で辞めることも視野に入れていた。そうなったとしてもしょうがないと諦めてもいた。
だが美鈴は辞めなかった。一週間が経ち、一ヶ月が経ち、三ヶ月が過ぎても、美鈴はあの冷ややかな目を携えて職場に現れた。
「今日は何をしたらいいですか」
出勤と同時に編集長の元に行ってはそう訊ね、与えられた仕事をきちんとこなして時間通りに帰っていった。職場の誰かが美鈴を機械みたいだと評したことがあった。私も同意見だった。彼女の書く記事や彼女自身には、機械的な冷ややかさがあるのだ。仕事に入れ込みすぎず、人に期待しない。それが彼女の良さであるとも思っていた。
しかし半年が経つ頃にその認識は変わった。美鈴が担当した事件記事に、読者から苦情が寄せられたのだ。小学校教師が恋人を殺した事件だった。過去にも事件記事を掲載したときにはつきものだったが、その比ではなかった。彼女は犯人を好意的に見えるよう書いてしまったのだ。
松添は美鈴を呼び出し、珍しく苦い顔を向けた。
「美鈴に悪気がないのは分かってる。だが、犯人の好評はあまり書かない方がいい。たとえそれが真実だとしても、人を殺しているんだ。ある程度貶めて、読者の感情を沈めてやらないと、今みたいにこっちが火傷することになる」
そう言った松添のデスクで電話が鳴った。誰かが代わりに取ったのか、三コールで切れた。松添は溜息をついてこう続けた。
「加害者に事情があるのなんて当たり前だ。家庭環境が悪くて人を殺すやつも、人を殺したことを死ぬほど悔いてるやつも、人を殺すしかなかったやつも世の中には大勢いる。けど、被害者からしたらそんなことは関係ない。そして被害者に同情している多勢の人間からしても関係ない。加害者は絶対的な悪で裁かれるべきというのが、社会のルールだからだ。分かるな」
「はい」
「俺たちはそのルール上を歩く人の余暇をもらって、記事を読んでもらってるんだ。その人たちを不快にさせることは書かない方がいいのは分かるだろ。だから加害者を貶めて、読者の溜飲を下げ、余暇を少しでも良いものにする。もちろんマスコミという前提を忘れない程度にな。そうして利益と読者と情報の妥協点にある記事こそ良い記事だと俺は思う」
「はい」
「……誤解のないよう言っておくが、加害者に寄り添うのを悪いと言っているわけじゃない。被害者に寄り添うのと同じくらい大事なことだ。でもやっぱり、加害者の人間性を重視するのはやめておけ。そんなことしても辛いだけだろ。少し引いてみるくらいがちょうど良い距離感だ。被害者に恨まれる心配もない」
「はい」
松添はやりづらそうに笑って、「もういいぞ」と手を振った。美鈴は悩ましげに電話をかけ始めた松添に頭を下げて自分のデスクに戻った。相変わらず冷たい目で無表情を貫いていたが、彼女の肩が落ち込んでいるのを私は見逃さなかった。
この一件以降、美鈴のことを機械のようだという声は増えたが、私はそうは思わなくなった。確かに彼女は冷たいが、表面だけだ。実際はもっと人間的なのだろう。もっと彼女を知りたいと思った。関わりたいと思った。
このときにはすでに、私は美鈴の善性に千歳の面影を見ていた。
そうして今回の事件取材で関わり、彼女の悩みに触れて、人間性に触れて、境遇に触れて、この子を救えば千歳に報いることができると本気で思うようになった。美鈴を救うことは、あの日救えなかった千歳を救うことと同義だった。
そのはずだったのに――
結局、私は彼女のために何ができただろう。
美鈴は今、暗がりでも分かるほど目に涙を溜めて、私を見つめていた。
「話がある」
と言った彼女が取り出したのは一枚の写真だった。声のない話は、それで終わった。
この子は解き明かしてしまったのだ。彼らを許してやらなかったのだ。だから私に断罪の声なき言葉が向けられている。
彼女とはそういう約束だった。
始まりも終わりも一枚の写真だった。
始まりはあの囲繞地で撮った、いじめっ子の後ろ姿だけを収めた写真。これがなかったら、そもそも殺すことはなかった。私はその写真から神田真央の個人情報や行動パターンを調べ上げたのだ。足がつくため探偵は雇えず、仕事との両立も大変だったが、努力次第では何とかなるものだ。千歳が繁忙期になると、「酒と余暇を犠牲にしてできないことはない」とよく言っていたのを思い出した。
ここまで来ればあとは簡単だった。一人になる時間帯、無防備に歩いているところを後ろから襲い、気を失わせ、あの囲繞地まで運んで殺した。
わざわざ緑の紐を使って、服を脱がし、写真まで撮ったのは思い知らせたかったからだ。自分が人にしていたのはどういうことか、美鈴がどれだけ苦しんでいたか、死んでなお辱めを受けることがどういうことか、私がどれだけ恨んでいるか、それを教えてやりたかった。神田真央の奥に見える、千歳を殺した男の、さらに奥に潜む、この世界の間違った人間すべてに、私の殺意を見せつけてやりたかった。
「こんばんは。いい夜だね。月刊明鏡の記者さん」
囲繞地を出たところで声をかけられた。女性の声だ。外灯がない上、月の見えない夜で、顔は見えなかった。だがこんな時間にここにいるということは、私が何をしていたのか、既に知っているということだ。
私は護身用に持っていた折りたたみナイフを鞄の中で握りしめた。
「誰ですか」
「そんな警戒しないでよ。自己紹介から始めようか。わたしは轟木可憐。轟木理智の姉だよ。前に弟が世話になったね」
「なんでここが……」
「尾行している人間って、自分が尾行されることにとことん疎いよね。あなたがここ最近何をやっていたか、わたしはあなたよりも詳しい自信があるよ。改めてよろしく」
可憐は手を差し出してきた。だが私が反応しないのを見ると引っ込めて、深い溜息をついた。
「……面倒くさいな。話が無駄に長引くの、嫌いなんだよ。本題から入っていい? 私は〈ハーメルンの笛吹き男〉として、今までの四人の子どもを殺してきた。あなたが今殺した女の子を、わたしがやったってことにしてあげるから協力しなさい」
私は握っていたナイフすら取り出せなかった。
「いま、なんて……?」
「一回で理解しなよ。話が長引くの嫌いなんだってば。要点だけ説明しようか。〈ハーメルンの笛吹き男〉事件は、私の弟も少しだけ関わってる。もし警察にバレたら弟も当然捕まる。それを阻止するために協力しなさい。具体的には、あなたの後輩の記者の子を、わたしが捕まるまで弟に近づけないで」
「な……」
「なんで、とか分かりきったことは聞かないでね。あの子は理智を疑ってる。だから近づけたくない。それだけだよ。あなたに拒否権はある。でも拒否するメリットはあまりないと思う。どうかな」
私は少し迷い、すぐに頷いた。殺人犯が自ら捕まり、私の罪まで被るというのだ。協力者の一人くらい見逃しても問題はない。
「分かった、協力する。あなたが捕まるまで美鈴を見張っておく。でもそんな簡単にあなたが罪を被れるものなの? 年は離れてるし、遺体の状況だってずいぶん違う。それに美鈴とか関係なく、理智さんが協力しているのがバレることだって……」
「質問が多いな。簡単に解決できるよ」
可憐は煩わしそうに言って、裏路地に足を向けた。私も後に続く。
「この子か。なかなかかわいらしい子だね」
囲繞地に倒れた神田真央を見て、可憐は言った。可憐がもし男だったらとも思ったが、目の前でしているのを見たくはない。
「変なこと考えてるでしょ」
可憐は見透かすように笑って、
「そんなことしなくても、罪を被るのは簡単だ。こうやってしまえば……」
言いながら、神田真央の首に巻き付いた紐を掴んで、軽く横に引いた。
「ほら、これでこの子を殺したのがわたしってことになる。力のいれ具合で指紋の状況も変わるだろうから、またやり直す必要があるけど、上手くいくだろう。念のためこの子の爪も切っておこうか。わたしがなんの準備もせず絞め殺したのに、皮膚片が残っていないのは不自然だから」
言うが早いか、神田の爪を丁寧に切り揃え、やすりまでかけた。切られた爪は残さず紙に包まれ、可憐のポケットにしまわれた。
「さて後は遺体の状況だけど、これが私が適当な理由をつけるよ。いわゆる狂人の論理ってやつだね。〈ハーメルンの笛吹き男〉はそもそもそういう存在なんだから、きっと怪しまれることもないよ。どうかな」
「問題ないわ」
「良かった、安心したよ。ちなみにあなたが殺した瞬間の写真はわたしの手元にあるから、言い逃れはできないよ。確認する?」
「結構よ」
可憐は憎らしいほど完璧だった。
「そう、じゃああとはよろしくね。あまり積極的に自首しても疑われるから……そうだな……たぶん警察は保身のためにこの子を〈ハーメルンの笛吹き男〉の仕業だって発表すると思う。そのタイミングっていうのはどうかな。その日の終わりまで弟が無事だったら自首するよ」
「分かった」
「もし発表がなかったら、こっちのタイミングに任せてよ。遅くとも十二月上旬中には自首する。約束だ」
差し出された小指に、私は緊張も迷いなく、自分の小指を巻き付けた。
私が差し出された写真の説明をし終えるころには、美鈴はもう憚ることなく泣いていた。
「……今回は、大丈夫だと思っていたんです。正解も間違いもまだはっきりとは分からないけど、それでもこれだけは正さなくちゃいけないって。絶対に間違ってないって、これこそが正しいんだって、そう思って自首を勧めに行きました。それなのに、こんな……」
美鈴にすればやりきれないだろう。正しいことをしたのに、その余波で私の罪をも暴き、逮捕される状況を作り上げてしまったのだ。もし美鈴が謎を解かなければ、解いても理智を見逃していれば、私の罪が暴かれることはなかった。彼女は自分の手で、先輩を破滅に追いやったのだ。
だが私はまったく悲観していなかった。恨んでもいなかった。彼女はやはり正しいことをしてくれた。いっそ清々しく、晴れやかな気持ちですらあった。
「美鈴ちゃん、顔を上げて」
美鈴がふらふらと顔を持ち上げ、真っ赤な目で私を見た。
「あなたに指標を預けてもらったとき、本音を言えば、そんな絶対的なもの見つかるわけがないって思ってた。世の中には慈善事業をしながら娘を殺す母親もいるし、恋人を殺した人格者だっている。確か林田さんも言ってたよね。誠実な弁護士が裏では女衒の真似事をしていたこともあるって。正しい人間が間違ったことをする例も、間違った人間が正しいことをする例も、世界にはありふれてる」
不意に、千歳が最後の酒の席で発した言葉を思い出した。「この世に正しい事なんてない」。私はずっとあの言葉に縛られ、呪われ、支えられ生きてきた。
「でも、気づいたんだよ。世の中には絶対的に間違った立場に立つ人間がいるように、正しい立場の人間がいることに。それがあなたよ、美鈴ちゃん。あなたは常に正しかった。今は間違ったことばかりだと思っているかもしれないけど、私の件にしても、轟木姉弟の件にしても、あなたはずっと正しかったわ」
一種の賭けでもあったのだ。もし美鈴が理智を見逃していたら、私は確かに助かるかもしれない。だがそれは正しさの放棄と同義だ。もしそうなっていたら、私自ら理智を告発し、自分も捕まっていただろう。同時に美鈴に失望していたに違いない。そして千歳の言葉にさらに囚われるようになったはずだ。
「あなたが正しい人だって確認できてよかった。あの子に何か言われた? 大丈夫。あなたのおかげで犯罪者を三人も捕まえられるのよ。私が決めてあげる。あなたは正しいわ。これからも変わらないでいてね」
だが美鈴は涙をぼろぼろ落としながら、絶望に目を淀ませているだけだった。覇気の失われた姿に、にわかに不安を覚えながらも私は促す。
「ほら、あとはあなたが警察に通報したら終わりだよ。放っておいてもじきに捕まるだろうけど、どうせならあなたの手で終わらせてよ。言ったでしょ? 私が正しいと思った行動が間違っていると思ったら指摘してって。それが今だよ」
美鈴は激しくかぶりを振った。
「そんなこと、できるわけない……」
「なんで、言いなさいよ。私が間違ってるって。言って、警察に通報してよ。あなたは犯罪者を裁くだけだよ。間違った事なんて何もないでしょ?」
しかし美鈴はやはり首を振った。真っ赤に充血した目に、真っ黒な闇が見て取れる。
「どうしてこんなことばっかり……。私がいつも人を不幸にする。私が余計なことをするから、おかしくなるんだ」
「美鈴?」
「桐江のときもそうだった。人の触れられたくない秘密を暴いて、事態を掻き乱して、私が全て台無しにする」
「美鈴、違う」
「こんなことなら、生まれてこなければ良かった」
「美鈴!」
その手を掴もうとしたが、空を切った。美鈴は震えた声で、重く暗く、その先を続けた。
「もう、疲れた……もう死にたい……」
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