ゲンチョウバナシ

砂葉(saha/sunaba)

一匹目:部屋の中のチョウの話

 僕は小学校の帰り道、世にも珍しい真っ白な蝶を見つけた。その蝶はモンシロチョウとか、ウラギンシジミとかの白じゃなく、汚れなき心を表すような、純白だった。白い蝶は神の使いと呼ばれていることをその時初めて知った。その蝶はまるで僕のことが好きだと言うように、また、僕をからかうように僕の周りを飛んだ。

 「リリアンヌ〜。今日学校のテストで僕100点取ったんだよ〜。それもこれも全部君のおかげだよ〜。」

学校から帰ってきた僕はそんなことを言いながら虫籠に近づく。

その虫籠の中では、真っ白な蝶が嬉しいとでも言うように飛び回っていた。

僕は小学校の帰り道、この真っ白の蝶を見つけた。今では、リリアンヌという名前をつけ、いつも話しかけていた。その名前はよくあるらしく、友達に言うといつも笑われてしまっている。けれど決して馬鹿にして笑っているわけではないと僕は知っているので、そんなみんなと一緒にいつも笑っている。

「そういえば、明日好きな人がこの部屋に遊びに来るんだよ〜。リリアンヌ〜、お行儀よくね〜。あ〜、今日は楽しみすぎて寝られなさそうだな〜。」

そういうとリリアンヌはまるで僕の心の中を表すように、ジタバタし始めた。

「タクト〜。そろそろ晩御飯よ〜。」

「分かった、お母さんもうすぐ行くね〜。リリアンヌ、明日は二人で頑張ろうね。…あ!外に出たいの?今扉を開けるからちょっと待ってね。」

そう言って僕は虫籠の蓋を開けた。

そうすると、リリアンヌはひらりと身を翻し、優雅に宙を泳いだ。

「外には出ないようにしてね。じゃあ、また後でね。」

外には出ないよう念を押すと、リリアンヌは分かった分かったと言うようにこっちを向いて羽ばたきながら上下に揺れた。

それを見て、僕はリビングへ向かった。

 「ねえ、タクト。さっきなんか話してたけど、部屋に誰かいたの?」

ご飯の時そう言われ、思わず頬張っていたご飯と唐揚げを吹き出しそうになる。

「えっ…ええっと、友達と電話してたんだよ。明日うちの家で遊ぶじゃん。それの打ち合わせしてたんだよ。」

「あ、そういえばそうだったね。なんか必要なものとかある?」

「う〜んと…一応ちょっとしたお菓子があればいいかな。」

…我ながら嘘がスラスラ出てくるものだ。

「分かった。明日の午後は仕事だから、いないからね。気をつけなよ。」

「うん」

「そういえば明日遊ぶのって誰なの?前から頑なに教えてくれないけど。」

次は味噌汁を吹き出しそうになって、なんとか飲み込むも、死にそうになるくらいむせこんだ。

「と…友達だよ。ただの。そう、ただの友達!ごちそうさま!」

我ながら耳が熱くなっているのがわかる。

そう言って自分の部屋に戻る。

最後に見た母親の顔は息子に向けるものではないほどニヤニヤしていた。

 部屋に戻り、ベッドに突っ伏して宙に浮かぶリリアンヌに声をかける。

「お母さんが、すごくからかってきたんだけどさ〜。恥ずかしすぎる〜!わああああー!」

声が下まで聞こえないよう、最後は枕に顔を埋めて叫んだが、それでも下に聞こえてそうだ。絶対にリビングではお母さんがニヤニヤ笑っているのだろう。明日から夏休みなのにどうすればいいのだろう。そう思いながら顔を上げると、枕の端っこに、リリアンヌが留まっていた。

「あ〜。どうしよう。恥ずかしすぎる…。」

リリアンヌは僕を気にかけるように、僕の顔を覗き込んだ。

リリアンヌを見たら、なんだか安心したようで、そのまま歯磨きもせずに寝てしまった。

 はっと目が覚めると、もう日は高く上っていた。

急いで時計を見ると、時間はもう11時だった。

「ああー!やばいやばい!リリアンヌー!後1時間で来ちゃうよ〜!」

リリアンヌはというと宙を(無駄に)優雅に泳いでいた。

「まず服着ないと!あ〜!着ようと思っていた服クシャクシャじゃん!どうしよ〜!」

そんなことを言っているとリリアンヌはある一着の服に留まった。

「ん?…あ!この服いいじゃん!ありがとうリリアンヌ!」

その服はもちろん折り目はなく、色のコンビネーションもバッチリ。まるで一流のコーディネーターがその組み合わせの服を選んだかのようだ。

「お母さんか分かんないけど。誰かありがと〜!」

そう言いながら服を着替え、リビングへ向かった。

「あれ…?お母さんは…?」

そう呟きながら机の上を見ると、紙が置いてあった。それにはこう書いてあった。

『仕事が午前中からになりました。今日のお菓子は冷蔵庫に入ってるケーキを食べてください。朝ご飯兼お昼ご飯はカウンターに置いてあるパンを食べてね〜。今日は頑張ってアタックしてね〜。』

…正直言って怖い。なんでそのことをこう言う紙に書いてしまうんだろう…。

とりあえず遅めの朝ご飯を食べ、リビングで彼女を待っていた。

 すでに一時間以上経ったが、彼女は一向に来ない。

どうしたものかと思い、彼女の家に電話をかけた。

「もしもし?」

『あ、タクちゃん。ねえうちのアイカそっちに行ってない?』

おばさんが明らかに焦っているのが電話越しにも分かる。

「い…いいえ。来てませんよ…。何かあったんですか?」

『いえ、たいしたことはないわ。…昨日ちょっと喧嘩してアイカが家出しちゃっただけ…。今までもこんなことは何回かあったから、本当にたいしたことじゃないんだけど。……なんか嫌な予感がするのよね……。』

「そうですか…。うちに来たらそちらにお電話しますね…。」

『ええ…。お願いするわ…。』

そう言ったが結局、彼女は家に来なかった。

 「リリアンヌ〜。アイカちゃん、結局うちに来なかったよ〜。お母さんもいつもより帰ってくるの遅いし〜。」

夕方4時を過ぎたあたりにリリアンヌに話しかけた。

なぜかリリアンヌはふわりと宙を泳ぎ、窓へ近づいた。

その時僕は窓が開いていることに気がついた。

「あ!だめ!そっちは行っちゃダメだよ!」

そう言ってもリリアンヌは止まらずに窓の外に出てしまった。

「あ…ああ……ん?」

リリアンヌは外に出たが、それ以上飛んで行かなかった。

まるで僕が来るのを待っているようだった。

「僕に来いって言うの?」

僕がそう問いかけると、リリアンヌは羽ばたきながら上下に揺れた。

 外に出ると、残った暑さが体を蝕んだ。前を向くとリリアンヌが飛んでいる。リリアンヌは僕の瞳を見ると、どこかへ向かって飛んでいった。

「ま…ちょっと待ってよ。」

僕は夢中でリリアンヌを追いかけた。

 リリアンヌは複雑に道路を飛んでいって、遂には林の中に入り込んだ。

「リリアンヌ…本当にここに入るの…?」

リリアンヌはこちらを向くこともせず、林の中を滑らかに進んでいった。

僕はここで何かがおかしいと思った。それを裏付けるかのように、森の中から異臭が漂ってきた。

 リリアンヌはある茂みの前で止まった。

強い何かが腐ったような匂いがしたけれど僕はその異臭を気にしないようにしていた。それを気にしたら自分が壊れてしまうと本能的に分かった。

茂みをかき分け奥を覗いてみると、そこには無数の死体があり、多くの真っ白な蝶が飛び回っていた。

古いものから真新しいものまで。形の整っているものもあれば、グチャグチャに腐り、骨だけになっているものまであった。辺りには血が飛び散っていた。腸や胃、目玉などがでろんと出ているものもあった。

けれど、全てが知っている人のものであった。

友人、親友、恋人、そして、

母。

僕は遂に耐えきれなくなってその場から逃げ出した。

 「ハッ…ハッ…」

僕はさっき見た光景で昔のことを思い出していた。

 信号機が赤になったが、それでも僕は横断歩道を歩いていた。前には、お父さんがいた。

「タクト。急ごう。車の人に悪い。」

「は〜い!」

僕はそう返事をして、すでに渡りきっているお父さんに向かって駆け出した。

お父さんはそれを見てにっこり笑った。

だが、その顔の形が一瞬にして変わった。

目が飛び出し、鼻から血が吹き出る。さっきまでにっこり笑っていた口はへの字に曲がり歯と血が飛び出して来た。

お父さんをそうしたのはたった一台のトラックだった。

僕は口とお腹を押さえて胸に詰まったものと共に嘔吐物を吐き出した。

血と嘔吐物で汚くなった所で僕は一人蹲っていた。

 林から出た僕は自分の家に帰りたいと思った。しかし、帰り方が全く分からなかった。

「どうしよう…。帰りたい…。」

僕はそのまま泣き出してしまいたかった。

けれど、蝶が後ろから迫って来ている今では、そんなことも許されない。

捕まりたくなくて、ただ走る。遠く、できるだけ遠く。

信号も歩行者も無視して、がむしゃらに走った。

しかし蝶の方が早かった。何千、何万匹の蝶の群れは僕を空中に持ち上げた。

「くそっ…やめろ!おろせ!」

僕はそう言ったが蝶は決して僕をおろそうとしなかった。

それどころかもっと高く飛び上がり、電線のところまで来た。

そこで蝶は止まり、何かの形を作り始めた。

「……なんだ…?」

その形は文字だった。

『だいすき』

僕は宙に浮かんでいることよりも、蝶が日本語を形作っていることよりも、その言葉を蝶がどんな気持ちで使っているのかが分からないことが怖かった。

 空中で浮かんでいた蝶たちだったが、しばらくすると、次第に僕を地面に下ろし始めた。

「え……。おろしてくれるの?」

一匹の蝶がこちらを向き、羽ばたきながら、笑っているように上下に揺れた。

地面がすぐ下に近づき、僕が安心した次の瞬間だった。

猛獣が唸るような音と強烈な光が目に入ってきて、正面から何かがぶつかって来た感触があった。

その感触に、目は潰れ、鼻はぐにゃりと曲がり、口と顎と喉が圧迫され、足は巨大なシュレッダーにかけられているが如く、グチャグチャになった。白い蝶は死者の化身ということを思い出した。僕は天国へ行けるのだろうか。そう思ってしまった。

そして何も感じなくなり、辺りには夜を溶かしたような漆黒、混じりっ気のない黒が広がっていった。

 蝶の群れはすでに原型を留めていない彼をあの茂みに連れていった。無数の死体と共にドチャドチャと乱暴に置かれた彼の体に1匹の蝶が留まった。その蝶の羽根は血に染まり、赤くなっていた。蝶はまるでこれは自分の所有物だとでも言うかのように羽根を立たせて留まっていた。言うまでもないが、蝶が留まっていたのは一番留まりやすい腸だった。

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