此岸花・彼岸花

 音もなく流れる清流の周りに花が咲いている。

 川の周囲を覆うような一面の赤色。流れる命の色。

 緑の茎が花の赤を際立たせている。


「ほら、こっちにこい」

「いーやーだ」


 赤い花をかきわけて二つの人影が川に近づいてきた。


「往生際が悪いぞ」


 背の高い、白い服を着た長い髪の男が、同じく白い服を着た少年の手を引っ張っている。


「やだやだやだ」


 少年は少し癖のある髪を振り乱しながら、連れて行かれまいと足を踏ん張っている。


「まったく……しょうがないな」


 背の高い男は少年の手を離すと、腕を組んでため息をついた。


「いいか? これは前から決まっていた事なんだ。昨日もちゃんと説明しただろう」

「……うー」


 少年はしゃがんだまま下唇をかんで背の高い男を見上げる。


「大体だ、一年前にお前が私の所に来た時にも説明したはずだが」

「……忘れた」


 ボソッと呟いてうつむいた少年の頭を見ながら、背の高い男はさらに深いため息をつく。


「何が嫌なんだ?」

「怖い」


 少年の言葉に、背の高い男は膝に手を当ててかがんだ。


「別に怖くはないだろう。あの川を越えて向こうに行くだけだ」

「泳げない」

「泳ぐ必要はないぞ。浅いし」

「……」


 少年はうつむいたまま黙ってしまった。

 背の高い男はしゃがんで少年の顔を見る。いっぱいに開いた瞳にこぼれそうになった涙。

 少年の口がわずかに動いた。


「……ぃ」

「ん?」

「……帰りたい」

「んー」


 背の高い男はしゃがみこんだまま困ったような表情を見せる。


「ね、帰ろ、ね?」


 少年は背の高い男の袖を掴むと、元来た方へ引っ張った。男は少年の肩に手を置いて、正面から顔を見た。


「昨日約束しただろ? ちゃんと向こうに行くって」

「……」


 少年はうつむいたまま涙をぽろぽろとこぼしている。背の高い男は少年の頭に手を置いた。


「大丈夫、大丈夫だって」

「……向こうにいっても、また、ここに来れる?」

「え? う、まあ、そうだな」


 意表をつかれてうろたえる男の言葉に、少年の顔が見る見る暗くなっていく。


「あー、うん! その時は私が迎えに行くから大丈夫だ」

「本当?」


 背の高い男は立ち上がって胸をはった。


「本当だ」


 少年も立ち上がって男を見上げた。


「約束だよ」

「約束だ」


 笑いあった二人は手を繋ぎ、前をふさぐ赤い花をかきわけ川の側に来た。

 音もなく水のような何かがゆっくりと流れている。


「ここでお別れだ」

「うん」


 手を離した少年は、背の高い男の方を向くと両手を伸ばした。


「何だ?」

「しゃがんで」

「こうか?」


 背の高い男がしゃがむと、少年は男の首に手を回して抱きついてきた。


「……どうした?」

「絶対に、迎えに来てね」

「ああ、約束だ」


 男は少し震えている少年の背中に手を回し、軽く叩いた。

 それを合図のように少年は、意を決したように背の高い男から離れると、川に向かって歩き出した。

 かかとの辺りまで水のような何かに浸かる。少年は渡る途中、何度も男の方に向かって手を振った。

 背の高い男はぎこちない動きで手を振り返す。

 少年が川を渡り終えると、向こうに咲いている花が一斉に少年の方を向いた。それと同時に少年の身体の輪郭がぼやけ始める。


「おーい!」


 背の高い男が川向こうの少年に向かって叫ぶ。


「なーにー!」


 きらきらと輝くように溶けていく少年が叫ぶ。


「昨日教えたこと憶えているかー!」

「憶えてるよー!」

「言ってみろー!」


 霞んでいく少年が口を大きく開けて叫ぶ。


「まずー! 息をいっぱい吸うー!」

「そしてー、大声を上げるー!」


 背の高い男は笑顔で親指を立てた。


「完璧だー!」


 向こうの景色が透けて見えるようになった少年も親指を立てる。


「ねー!」


 きらきらと光る砂を振りまくように消えていく少年が声を上げた。


「何だー!」

「約束だよー!」


 少年は赤い花にかき消されるように見えなくなった。


「ああ、約束だ」


 男は目を閉じ、うつむいた。


「だからそれまでは」


 赤い花に囲まれた背の高い男が呟く。どこかから産声が聞こえてくる。



「どうか、幸せな生を」

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