泡沫の夢

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泡沫の夢



 薄明かりが照らす部屋で、男は目覚めた。真っ白な天井を視界に収めながら、しばし呆然とする。男はおもむろに体を起こすと、拭い切れないを抱えながら、あたりを見渡す。壁も床も白一色。扉が一つ存在し、窓はなく、家具もベッド以外には存在しない。とても簡素な、見覚えのない部屋であった。はて、自分は何故ここで眠っていたのかと、眠る前のことを思い出そうとして、男は気づいた。


 自分が一切の記憶を持たぬことを。


 自分の名前は? 出身は? 年齢は? 家族は? 友人は? 職業は?

 ひたすらに自身へ問いかけても、答えはまったく分からなかった。


 男はベッドから降りて立ち上がり、どうしようもないを胸に、部屋の中を歩き始めた。ドシドシと足音を立て、白いだけの空間を拒絶するかのように、動き回る。どういうわけか、部屋の外に出てはいけないような気がして、ドアノブに手をかけることはなかった。


 しばらく動いたが、それでも何一つ思い出せず、頭痛とめまいを感じ、男は再びベッドに腰かけた。


 するとその時、扉がノックされ、開かれた。


「おや、目が覚めたのですね。おはようございます。では、私についてきてください」


 そう声をかけたのは、修道服を身にまとったシスターであった。男を気にする素振りもなく、そのまま行ってしまおうとするシスターに、男は慌てて追従した。


 お互いに無言で歩いて行った先には、子供が二人いた。


「この人かな?」

「そうです。きっとこの人です」


 子供たちは興味深そうに、男を見つめる。どうやら、子供たちは、男について知っているらしい。だが、男がそれについて尋ねるより前に、シスターが口を開いた。


「今からこの子たちに、市場で買ってきた英雄譚の読み聞かせをするのですが、よかったら一緒に聞いていきますか?」


 男に断るという選択肢が浮かぶことはなく、首肯した。



「さて、前回は、勇者たちが魔王と、最後の戦いを始めるところまで読みましたね」


「いいところで終わっちゃったよね?」

「続きが気になるです。わくわくです」


「では、ついにクライマックスです。聖女を喪い悲しみに暮れていた勇者たちは、彼女の仇を討つためにも立ち上がり、ついに魔王との決戦を迎えました――――」









「これでとどめだッ!」


 勇者は満身創痍になりながらも、人類の希望としての役割を果した。魔王は滅び、人間たちは魔族との戦争に勝利したのだ。



「勇者様! ありがとう!」

「勇者様! 万歳!」

「勇者様!」

「勇者様!」



 守ることのできた市民たちからの、熱烈な声援を応えながら、勇者は堂々と凱旋した。


 まさに、英雄! まさに、人類の希望! その名に恥じぬ、偉大な功績を、勇者は残したのだ!





「クソ! クソ! クソッ!」



 もっとも、偉業には犠牲が付き物である。何一つ失うことなく、偉業を達成することなど到底無理な話だ。



「勇者にかけられた呪いを解呪できる治癒士は、まだ見つからないのか!」

「申し訳ありません、陛下! ですが、魔王の呪いは非常に強力でして……」

「そんなこと言われなくとも分かっている! だが、それをどうにかするのが、お前の役割だろう!」

「申し訳ありません! 早急に手配させていただきます!」

「分かったなら、さっさと見つけて連れてこい!」


 魔王が自分の死と引き換えに、勇者にかけた呪いは非常に強力だった。ただし、勇者の力もまた強大であり、すぐに命を落とすということはなかった。ただ、徐々に筋力が衰えていき、感覚が失われていく。生命力を蝕む呪いに、勇者が耐えられるのは、もって1か月が限界であろう。


 それでは困る、と王は言う。魔王を倒し、魔族との戦争に勝った。たが、それで勇者の役割が終わるわけではない。勇者と自分の娘である姫が婚姻を結び、その関係をもって、他国への圧力とする。勇者という最大の功績を挙げた人物を擁する我が国に、他国は下手に出るしかない。それを利用して、益々の繁栄を計画していたというのに……勇者が死んでしまっては、台無しである。


 だが、その呪いを解呪する術は、全く見当がついていない。勇者と特に親密な関係だったらしい、最高峰の治癒士たる聖女も、先の戦争で命を落としている。


 当の勇者も、余命1か月という現実に、絶望するしか――


「やっと休める! もう戦争に悩む必要がないなんて……僕は自由だ!」


 ――否、あまり絶望をしているようではなかった。


「あの、よろしいのですか?」

「何が?」

「勇者様はこのままだと、1か月で死んでしまうかもしれないんですよ?」


 能天気な勇者を見て、心配そうにメイドが話しかける。


「そうかもね。でも、大丈夫。これまでも絶体絶命に陥ったことは何回かあったけど、何とかなったんだ。今回だって、何とかなるさ」


 数々の修羅場を潜り抜けたからこその自信。もともとの能天気さも相まって、楽観主義に拍車がかかっている。余命がわずかと宣告されてもなお、その瞳から光が失われることはない。こんな彼だからこそ、人類の希望たりえたのかもしれない。だが、すでに彼は、歩くことすらままならない。今だって、メイドに車いすを押してもらっているのだ。


 メイドは思う。なんと儚くも美しい信念だろうと。至って普通の人間である彼女は知っている。この世には、どうしようもない理不尽も存在しているのだと。




 それから1週間が経った。未だに解呪の見込みはなく、勇者の生命力は落ちるばかりである。勇者はもはや、自分一人で生活するのは不可能となっていた。

 かつては、自身よりはるかに大きかった巨大な岩であっても、軽々と持ち上げられたのに、今では筋力が落ち、食器すら持つことができない。メイドが勇者の口に食事を運び、それを咀嚼する。そんな食事をしているとき、勇者はふと、メイドに問いかけた。


「なぁ、君は僕が魔王を倒したことに、感謝しているか?」

「もちろんでございます。勇者様が魔王を討伐してくださったおかげで、我々は魔族の脅威から救われたのです。勇者様のおかげで、何万人もの人々が命を救われました。勇者様に感謝していない人などおりませんよ」

「そっか。ならよかった。……こんな介護を押し付けてすまないな」

「いえ、とんでもございません。我々は勇者様に多大なるご恩を受けております。それに少しでも報いることができるのは、我々にとって幸福なのです」

「そうか……」


 この1週間で、勇者の覇気はみるみる小さくなってしまった。そんな中、時折このようにメイドに問いかけているのだ。感謝しているかと。初めはメイドの答えに満足そうにしていたが、今ではあまりそのような素振りは見せない。




 さらに1週間が経った。勇者は起き上がることすらままならなくなり、一日中寝たきりで過ごすようになっていた。甲斐甲斐しく勇者の世話をするメイドに、勇者が話しかける。


「まだ、解呪できる者は見つからないのか?」

「申し訳ありません。我が国だけでなく、他国にも協力を要請しているのですが、未だに見つかっておりません」

「クソ……なぜだ! なぜ俺が、こんな目に合わなければならない! 食事も、着替えも、排泄も! 全部、誰かの手を借りなければならない!」

「落ち着いてください、勇者様。お体に響きます」

「黙れ! ハッ! お前も俺のことをバカにしているのだろ! こんな身体になった俺が"勇者"だと? ふざけるな! あぁ、こんな惨めな思いをしながら生きていくなら、いっそ……ンンッ!」

「申し訳ありません!」


 危険な状態にあると判断したメイドが、勇者を取り押さえ、睡眠薬によって眠らせる。

 強引な手であったが、このままだと舌を噛み切るなりして、自殺しかねないと考えたのだ。




 翌日の晩、勇者が狂ったように笑い出した。


――必死に呪いに抗っても意味がない。

――俺は、世界を救たかった訳じゃない。

――勇者になる必要なんてなかった。

――勇者になんて、なるんじゃなかった。


 そんなことを叫び終えると、勇者は呪いに身を委ね、死亡した。









「――――そして、ついに勇者が魔王の首を切り落としました」


「すごいね?」

「カッコいいです。素敵です」


「ですが、魔王は死ぬ直前に、非常に強力な魔法を勇者たちに放ちました。その魔法から仲間を守るために、勇者は自らを盾としました。こうして、勇者は魔王と相打ちになってしまったのです」


「勇者死んじゃったの?」

「残念です。悲しいです」


「勇者の献身によって、魔王は討伐され、世界に平和が訪れました。めでたし、めでたし」


「……」


 違う。男はそう言いたかった。だが、思うように口が動かない。


「さて、勇者はその身を犠牲にして魔王を倒したのですが、どうして彼はこれほど献身的に活動できたのかを考えてみましょう」


「人間の世界を守りたかったからじゃない?」

「種の保全です。防衛です」


「人間のみんなを守りたかったのでしょうか? それとも特定の誰かだったのでしょうか?」


「みんなじゃないの?」

「でも最期は仲間を守りました。友達を守りました」


「では、大勢の他人と、少数の友人。どちらか片方しか守れないとしたら、どちらを守るのでしょうか?」


「勇者は市民を守る役割を持つから、大勢の他人じゃない?」

「でも仲間も大事です。大切です」


「ふむふむ……そういえば、なぜ彼は勇者になったのでしたか?」


「聖女を守るためだったよね?」

「幼馴染です。大切な人です」



 ああ、そうだった。初めは彼女を守るためだった。なのに……



「でも、聖女じゃなくて、大勢の他人を先に助けたよね?」

「聖女は後回しでした。優先されませんでした」


「では、いつから勇者は、そうなったのでしょうか?」


「いつからだろうね?」

「分からないです。難しいです」



「――なら、本人に聞いてみましょう」



「……俺は」


 ここで初めて、男は声を出すことができた。


 だが、声に出せたのはそれだけだった。



 バタリ、と男は倒れ、さらさらと崩れるように消えてしまった。



「消えちゃったね?」

「帰りました。戻りました」


「人間は難しいね?」

「不可解です。不合理です」


「それでも、我々は、彼らを理解する必要があるのですよ」


「勉強しているもんね?」

「頑張ってます。努力してます」


「えらいですね。これからもしっかり、勉強していきましょうね――」


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