Teatro alla Pubertà

有明 榮

大人になれない僕らの強がりをひとつ聞いてくれ

 癖っ毛と目尻の黒子が特徴的なその少年の名前は、麗八れいはちといった。母親はロマンティックな感動と我が子の将来への希望に基づきそう名付けたのだが、本人は長ずるにつれてやや古風なその名前を厭うようになった。何より彼を困惑させたのは、麗の字を持つ学友が全て女性だったこと、一方で八の字は男性名に多いはずが当代の男子は誰一人として持たなかったことである。中学入学と同時に剣道部に入部すると麗八は心血を注ぎ、精神も肉体も真剣の如く研ぎ澄まされていった。同時に頭脳もまた鋭利であった彼は福岡の大学に進学したが、いつからか生まれ育った長崎の田舎では文化という文化に浴し得なかったことを大きなはじと見做していたので、文学を志すようになった。


 キャンパスは糸島半島の付け根に位置する片田舎であったが、寧ろ彼にはその閑散とした大学周りが心地よかった。地下鉄があれば一時間となくても博物館や美術館を十分堪能できたし、市街へも繰り出せたのである。

 華々しい交際も輝かしい学績もなかったが、麗八は大学生活に満足していた。剣道からは身を引いていた。入学の直前に新設された図書館には哲学から法学から工学から様々の蔵書があって休日はそこで一日を過ごせたし、大学近くの自宅の狭い部屋には実家から持ってきたコンポがセットされており、机の上には母親から譲り受けてきたクイーンとかスティーヴィー・ワンダーとかのアルバムが並んでいるので、それを流しながら借りてきた本を読んでいれば満足だった。


 天神のカフェでアルバイトをしていたので、麗八は週に三度は地下鉄に乗った。平均よりも良い体格をしていたので、彼は気を使って座席には座らぬようにしていた。時間帯によってはかなり車内が混雑したが、それも次第と慣れていった。


 大学三回生のある春の夜のことである。天神駅はいつも通りサラリーマンやアルバイト帰りの学生で溢れ、ホームに入ってきた筑前前原行きの電車もまた同様だった。人波に押されて車内に進むと、人垣をかき分けて麗八の前に一人の女が立った。

 麗八の顎にも届かぬ小柄な女である。焦茶色の柔らかな髪の毛を背中まで伸ばしていた。肌は陶器のように白く滑らかで、猛禽を思わせる鋭い鼻筋の上に、やや垂れた大きな目が乗っている。形の整った耳にはイヤリングがぶら下がっていた。麗八の短い人生の中でも、一際目を引いた。しかし同時に、彼女のような存在は麗八にとっては縁遠いものだった。交友の狭い中で彼を知る異性は片手を使えば数えられたし、そもそも彼女は幾つか先の駅で電車を降りてしまうだろう。麗八は珍しく、せめてこの美しい女性の容貌を目に焼き付けようと考えた。


 西新駅に差し掛かり、彼女が髪をかき上げた時、右の耳たぶからイヤリングが落ち、華奢な肩と薄い背中を伝って落ちた。その一瞬を麗八は見逃さなかった――そして、それが自分の足元のトートバッグの上に落ちたことも。持ち主は気づかぬまま、開いた扉からさっさと降りてしまった。返さねば、と思った麗八は咄嗟にバッグに落ちたイヤリングを拾い上げたが、不意にその手をズボンのポケットに突っ込んだ。鼓動は早鐘を打っていた。だが得体の知れない濁った幸福感に満ちていた。


 家の扉を開けると、部屋の明かりも点けずに麗八はデスクライトを点けた。そうしてポケットからイヤリングを取り出し、具に眺め回した。

 樹脂製の透明なリングに、透明な涙型のアクセサリがついている。その形に沿うようにして、桃色のリングが二本、宝石を囲っている。イヤリングを指で摘んで回してみると、ライトの光できらりと明滅した。彼はそれを手に取ったまま洗面台の明かりを点け、鏡を見ながら自分の右耳に付けようと試みた。左手で耳たぶを軽く引っ張りながら、右手に摘んだイヤリングを押し挟むのだが、どうにもうまくいかない。二、三分ほど格闘して、どうにか付けることに成功した。


 片耳だけなので、誰がどう見ても不恰好である。角度を変えて見てみようと首を左右に振ると、イヤリングが揺れてチャッチャッと軽く乾いた音が耳に響いた。その音が聞こえた時、あの女の横顔が脳裏を過った。まさか、とまた首を振ってみたのだが、先ほどより鮮明に横顔が映し出された。

 彼は机に向き直ると抽斗ひきだしを開け、ティッシュを小綺麗に畳んだ上にそのイヤリングを丁重に乗せた。


 翌日から、麗八はそのイヤリングを必ず付けるようになった。彼の数少ない友人は当然、その変化に困惑し、屡々心境とか境遇を問い詰めた。その度に彼は微笑を浮かべて、大人ぶってるだけさ、と言った。休日には天神や博多を歩き回るようになった。踏み出す度に耳元で囁く乾いた音が自分にしか聞こえないものだと知ると、その独占に対して大きな優越感を抱いたのだった。どだい都会の遊びに疎い彼はジュンク堂や丸善に足を運んでは雑誌を何冊か捲るくらいの能しかなかったが、耳元の勲章を世に開陳できればそれで満足だった。時には例の女との邂逅すら妄想したが、そんな時は決まって何も言葉を発せぬ自分の姿が想像されたので、彼は一人赤面した。部屋の本棚の一段を占領していた図書館の本は日毎に減っていき、彼がかの女に出会って三ヶ月が経つ頃には、五段の本棚の上から二段目は空白地帯となった。


 ある夏の午後のことである。集中講義後の食堂で暇を潰していた麗八は、見知った女の声で顔を上げた。ヘイ元気かね、と女子の割には言い回しが特徴的な、同じアルバイト先に勤めている同期の片山である。いつもと違うのは彼女の背後にもう一人の女が立っていることだった。


「ご一緒しても?」と、おそらく同期の学生には些か丁寧すぎる断りに、麗八も「え、ええ。お構いなく」と慇懃にならざるを得ない。だが彼の動揺は、何もそのひと言によるものだけではない。

「そのイヤリング、私も持ってるよ」と、片山の隣、麗八の真向かいに座った彼女は言った。


「そうなんですか」

「そう。お気に入りだったんだけどね。ちょっと前に片方なくしちゃったんだ」

「それは……残念だったね」

「まあ仕方ないかな。それに三百円とかだし」


 麗八は途端に顔が熱くなるのを感じた。彼女の持ち物を出来心で盗んだ過去の自分が、ひどく貧しい者に思えた。


「ウルワシはどうして片耳だけなん?」と片山が当然の問いを投げてきたので、麗八は「あなたのものを拾いました」などと馬鹿正直に言えるはずもなく、「僕もなくしたんだよ」と咄嗟にごまかした。


「片っぽだけ付けるってどうなのよ。普通両耳で揃えるモンじゃん」

「りーちゃん普通過ぎ。男の人でアクセつけて、しかもアシメってなかなかやろうと思ってもできないよ? めちゃめちゃセンスあるって」りーちゃんとは片山のことだろう。

「ありがとう、そんな大したことないよ。捨てるのなんだか勿体なくて」

「ウルワシは物持ち良いからな」

「ねえ、あたしもウルワシって呼んでいい? あたしはエリカ。経済学部なんだ。苗字は嫌いだから名前が良いな。好きなように呼んで」

「いいよ、全然……。じゃ、普通にエリカさんで。ごめん、この後バイトなんだ。またね」


 そう言うと麗八は、ありもしないアルバイトのために腕時計を見つつ席を立った。

 食堂の外は熱気を孕んだ風が煩かった。麗八は右の耳朶を我が物顔で占拠しているイヤリングを引き剥がすと、誰も視界に居ないのを確認して、そっと車道に放り棄てた。

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Teatro alla Pubertà 有明 榮 @hiroki980911

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