第58話:灯台の光
歩いて二十分のスーパーは、二階に洋服や百円均一の店もある。入ると間もなく、サービスカウンターの店員さんが車椅子を持ってきてくれた。
「いえいえそんな、ちょっと折れてるだけなので」
「それはお客様、大変なお怪我じゃないですか。ご遠慮は要りません」
あたしなんかに、と言いかけた。でも店員さんの清々しいまでのスマイルも、譲りそうにない。
「はあ、ありがとうございます」
本当にありがたいと思う。だが特別扱いには、どうも慣れない。それでもどうにか座ったところで「松葉杖はお預かりしておきますね」なんて言われては、やっぱりいいですと立ち上がろうとした。
「お手数かけます」
車椅子の
膝にカゴを抱え、出島さんが商品を入れてくれる。分かっていたが、これは楽だ。
狭い通路に差し掛かると他のお客さんが、さあっと避けてくれるのは罪だけど。同じ買い物を松葉杖でやれと言われたら、諦めて帰ったと思う。
何しろ車椅子に乗っていてさえ気分を悪くして、休憩が必要だった。おかげでスーパーを出る頃、外は暗くなっていた。
「タクシー、来てもらうね」
車椅子を返して建物を出て、駐車場のアスファルトの縁へ立っただけで、くらっと意識が遠退いた。
乗り場はあるけれど、待機する車はない。タクシーの流れる大きな通りからは、少し離れている。スマホを取り出した彼に、あたしは首を水平に振った。
「歩きます。表の通りまで」
「ええっ? つらそうだけど」
「見た目ほどじゃないです。無理になったら言いますから」
強がってでも歩きたかった。もし理由を問われても、うまく答える自信がない。
タクシーに乗ればサッと家に着き、彼もサッと帰るだろう。それが寂しいのはたしかだけど、間違いなくそれだけではなかった。
「うーん。すぐ言ってよ?」
眉根を寄せ、渋々の声。あたしは気にも留めぬフリで、一歩先へ松葉杖を送り出す。普段の歩幅からすると、半分以下だ。
折れていない左足を引き寄せ、息を吐く。また松葉杖を前へ送り、足を引き寄せて休む。
レジ袋とあたしのリュックも持ってくれる出島さんは、常に半歩先。遅くてじれったいだろうに、力んだ顔からは応援の気持ちしか読みとれない。
声を出さずとも、「頑張れ」「気をつけて」が繰り返しに聞こえる気がした。
スーパーの敷地を出るのにさえ、空の黒がみるみる濃くなった。ほとんど気にならなくなっていた背中の打ち身が、痛みをぶり返す。
ますますペースを落とすあたしに、彼は文句どころか不満げな空気をも感じさせない。
「どうしてそんなに助けてくれるんですか」
「えっ。どうしてって、まだ一人じゃ無理だよ」
違う、あたしの聞いたのは。
続けようにも、歩きながらでは声が途切れる。ここで足を止めれば、また踏み出すのは難しそうだ。
だからそのまま進む。スーパーから離れるにつれ、夜と同化していく裏道を。
表通りに繋がる角まで、あと百メートルほど。よく知った道だけに、ここまでに費やした時間を思うと、途方もない距離だ。
意地を張るんじゃなかった。首すじの気持ち悪い脂汗を手首で拭う。
ここでギブアップしても、きっと彼は何とも思わない。どころか、お疲れさまなんて言ってくれるかも。
長めの息継ぎの合間に、まっすぐ伸びた夜の道を見やる。すると見通せないはずの闇の先、明るい光があった。
「自動販売機?」
「だね」
「あそこまで行きます」
「うん。無理はしないでね」
一人暮らしを始めてから、ここを通るのは何度目か想像もつかない。絶対に目にしていたはずだが、全く意識にない自動販売機。
深呼吸をしてから再び歩くと、やけにあっさり辿り着いた。いや、やはり時間はかかったが、気持ちの上で楽に感じた。
「お疲れさま。冷たい物でも飲む?」
そう言う彼は、既に小銭入れを手にしている。喉もカラカラで、遠慮はしなかった。
自動販売機にもたれ、ぜえはあと声が出ない。痙攣みたいに首を頷かせる。
「これでいいかな」
差し出されたのは五百ミリリットルのお茶。震える手を伸ばすと、彼は蓋を緩めてから渡してくれた。
ゴクゴクゴクと、半分くらいも一気に飲んだ。急激に冷えた喉がジーンと痺れ、それが治まると共に息も落ち着く。
「こういうことですか。灯台みたいって」
「ああ、うん。何でもない時に見れば何でもない、足を止めることもない場所だろうけど」
ここにある意味は、人それぞれに違う。気づきもしていなかった、昨日までのあたしのように。
「あたしには、出島さんがそうです」
「俺――?」
「灯台です」
見下ろす彼は、自動販売機の光の中。もたれるあたしは、遮られた陰の中。
この人に、最初に声をかけた時もそうだった。
「いや俺なんか」
「どうしていつも助けてくれるんですか。いつも、あたしの欲しい答えをくれるじゃないですか。今だって、冷たいお茶が欲しかったんです」
彼が呻く。「どうしてって――」と俯き、声の詰まるのが、あたしの望む理由ならいいと思う。
「この灯台は動かないけど、出島さんはいつも先回りしてくれる」
いつかの彼を真似て、コンコンと自動販売機を叩く。と、その手が大きな手に包まれた。
「どうしてって、そりゃあ」
「そりゃあ?」
「端居さんだからだよ」
彼の手が、ゆっくりとあたしを引き寄せる。こっちへ来いと、光の中へ引き摺り出す。
「誰に頼まれたって、なかなか嫌とも言えない俺だけど。端居さんが頼ってくれるのは嬉しいんだよ」
「あの、それって」
片足立ちで、彼の腕が支えてくれる。ぷるぷる震えるのが、怖いくらいに伝わる。
夜闇の中、あたし達だけが眩しい光に包まれている。勇気を出して見上げてさえいれば、彼の気持ちは全て顔に表れる。
「い、い、い、いいのかな」
知らない人なら、怒っていると見えたかも。だけどあたしは、同じ目を知っていた。
まだ一度だけ、カフェを訪ねてくれた時。だから彼も勇気を振り絞っていると、あたしには分かった。
「たぶん、いいと思います」
柔らかく、なるべく可愛らしく笑ったつもりだ。うまくいったか、誰か彼に聞いてほしい。
ただ、その結果。あたしは彼の腕に包まれた。松葉杖が地面に倒れ、両足の浮くほど力強く。
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