第56話:あたしの棲み処
見慣れたはずのライオンパレス。初めてタクシーで帰ったあたしの家が、何だか以前とは違って見えた。
住所を頼りに誰かの家を訪ねたような? いや、ちょっと違うかも。
初めてなのはタクシーだけでなく、同行者が二人もあること。玄関の鍵を挿し込み、記憶にある感触で解錠されたことにほっと息を吐いた。
「大丈夫? 疲れたよね」
まだ松葉杖に慣れたとは言えない。たぶんそれを心配して、差し出しかけた出島さんの手が右往左往する。
「いえ平気です。開かなかったらどうしようって、急に心配になっちゃっただけで」
余計なというか、意味の分からない懸念だ。彼も目をパチパチとさせる。でもすぐ、「あはは」と笑ってくれて良かった。
あたしも笑い返し、ノブを捻る。しかし白くて長い指がつかんで止めた。
「いきなり入って大丈夫?」
「えっ? 何がですか」
「危険な物、無い?」
「危険って」
明さんの緊張を孕んだ目配せに、ハッと思い至った。まさかトビが家にまで?
「私が先に見てこようか」
唾を飲む。言ってくれるのはありがたいが、身代わりにするようで嫌だ。とは言え、あたしは足を引っ張るだけなのも自明。
「出島さんと二人で」
「えっ、何かあるの?」
それならトビに遅れをとることはないはず。信じて言うと、彼も尋常でない空気に声を潜めさせた。
しかし呆れたように、明さんは
「それじゃ意味ないでしょ」
「ええ?」
「洗濯物とかさ」
洗濯物が危険とは。何か爆発物的な言い回しでもあったろうか、と考える。
いつまでも察しないあたしに、明さんは指で示し始めた。宙に逆三角形を描いて。
「あっ」
ようやく繋がった。明さんの案じてくれた通り、入院前のあたしは洗濯物を干したままだ。ベランダはともかく、室内に下着類が。
「あの、その、お願いします」
「おっけー」
あたしの勘が鈍いのか、明さんのヒントが悪いのか。どちらにしろ、恥ずかしくて顔を俯けた。
ドアの向こう。靴を脱ぐ明さんの物音を聞きながら、出島さんを盗み見る。と、彼は建物の外へ顔を向けていた。
素知らぬフリ? それとも本当に何も気づいていない。観察を続けると、やがて彼の裏返りかけた声がする。
「ひ、ひひっ、久しぶりの我が家だねっ」
「――はい」
固く目を瞑り、恥ずかしさを押し流す。うん問題ない、現物を見られたわけでなし。
「じ、実はさっきから、変な感じがしてて。久しぶりというより、よその家に来たみたいな」
「ああ、まあ。長く家を空けると、そういう感覚はあるね」
話を逸らすにもネタが浮かばなかった。ついさっきの気持ちを言うと、彼は思いの外に深く頷く。
「でも、いい所だと思うよ。どこも真っ白で、小ぢんまりしてるけど必要な物は揃ってますっていう。端居さんぽい」
玄関脇の壁やガス給湯器を見ながら、彼は言う。あたしっぽいって、褒められたのか? どう答えていいやら、言葉が見つからない。
やがて家の中に掃除機の音が聞こえ始める。そこまでしなくともと思うけれど、何せ半月ぶりだ。そこまでする必要を否定しきれなかった。
「――よく、戻ってこれたなって」
「えっ?」
彼の驚いた声に、あたしも驚く。
何を言ったつもりもなかったのに、手繰った僅か前の記憶に自分の声があった。
「あの土手で一人きりなんだと思いました。だからここは、もうあたしの家じゃなくて。だけど前のまま残ってるから、それで不思議に感じたのかな。たぶん」
あたしのことなのに、ふわっとした言い方しかできなかった。口を閉じた後、でも間違いないなと感じたけれど。
「出島さんのおかげです」
彼にお礼は、何度となく言った。言うたびに、まだ足りない気持ちが強くなる。
それは言葉だけで、お返しができていないからだろう。彼が「いやいや」と、否定するせいもきっとある。
「俺は何も」
「何もしてないなら。ここに居るあたしは、お化けってことになります」
松葉杖を腋に挟み、手をうらめしやの形にした。
「いや、だからその。俺もちょっとはしたかもだけど、お医者さんとかね」
「それはそうですけど、そういうことじゃなくてです」
毎度、似たような応酬。最後は彼が唸って、あたしもダメ押しがない。
「うーん、そうだねえ――って。そういえば親御さんには連絡したの?」
そうだろう、などと自信満々でなくていい。どういたしまして、と受け取ってくれれば。
それをあからさまに話題をすり替えられては、あたしも少し拗ねたくなる。
「いえ」
「いいの? お見舞いに来てみたら居ない、ってなるよ」
「あれから一度しか来てませんし、連絡しようもなくて」
入院の初日以降、四、五日経ったころに母は来た。「ニャインの返事がないけど?」と言って。
「スマホが壊れてるって言ったら、『じゃあ、することあったら穂花から連絡してよ』って言うので」
今日、母へ特別に頼む役割りは無い。車を出してもらえるわけでなく、荷物は全て出島さんが持ってくれている。
「そりゃまあ……」
彼の歯に、苦虫が百匹ほども挟まった。取り繕う声も言葉も表情も無い。
ああ。こういう彼に、あたしはどうしようもなく負けたと思い知らされる。
「それならまた、治ってから快気祝いでもする? 会社の忘年会なんかで使わせてもらう、いい店があるよ」
「……はぃ」
熱くなる頬を、手の甲で拭ってごまかした。それと同時、玄関のドアが勢いよく開く。
「お待たせ、穂花ちゃん。お帰りなさい」
額に汗を滲ませた明さん。なるほど、という風に頷いた出島さん。二人共が、誕生日でも祝うかの満面の笑み。
「端居さん、お帰りなさい」
今度は胸に、抑えようのない熱さが込み上げる。だからしっかりとお腹の底まで息を吐き、胸いっぱいに新しい空気を吸ってやっと答えた。
「ありがとうございます。ただいま戻りました」
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